日本で初となるアン・ジュン(Ahn Jun)の体系的な個展。「Self-Portrait」シリーズのあまりのヴィジュアルの良さに却って見えづらくなっていたアン・ジュンの本当の姿と思考の幅広さ、本展示の最大の成果はそれらを伝えたことにあるだろう。
「Self-Portrait」シリーズの生プリントは想像以上に大きかった。
サイズの話である。
大きさは没入感をもたらし、見る視線の力と視線を引き込む力の力関係は逆転した。深く濃いブルーのワンピース、白い肢体を晒して一歩、高層ビルの端から宙へと、ふわりと浮いて歩み出す・・・ あまりに印象的なカットはこれまでWebで何年も目にしてきたが、それは圧倒的な視座の有意差があり、見る側が完全に有利な立ち場にあった。展示ではその関係が全く逆転してしまった。作品の方が強くて大きい。
すると実にシンプルなことに気付いた。作者の立つ場所の高低差や遠近感が実際のスケールを以って伝わってきたのだ。モデル=作者はとても不安定な場所で、危険な行為に挑んでいる。仮に撮影中は安全が確保された状態だったとしても、写真の図像は己の存在を危険の真っ只中に晒し、賭していることを強く語っている。
主人公はWeb・スマホ画面で受ける印象=「ばえるセルフィー」とは全く異なる背景と状況にある。
なぜ孤立無援の宙に身を任せ、死と隣合わせの行為に踏み出すのか。
「KG+SELECT」で観た、同じ韓国人写真家のポートレイト作品のことが自然と想起された。現在・未来のどこにも安心や安定がなく、寄る辺なき身であることを物語る写真。2024年はナム・ジェホン(Jae Hun Nam)「記憶の断片」、2023年はソン・ソグ(Seok-Woo Song)「Wandering, Wondering」で、個別のテーマに差異はあるが、周囲の風景が圧倒的に大きく占めていて人物は小さく圧殺されそうになっている点で2人は共通していた。
アン・ジュンのポートレイトは人物像の画面・風景に占める割合が大きく、衣装やポージングがスタイリッシュで、美的に狙い澄ましている点がまず目につくために気付きにくい。が、若い女性が何の装備もなく高層ビルの窓枠や屋上に身を晒している、宙へと踏み出そうとする姿を「あえて撮らねばならなかった」、作品として「あえて人前に晒せねばならなかった」段階にあることを考えると、もっと強く如何ともしがたい外圧、閉塞した状況を無視することはできない。
韓国の若者は、日本よりも非常に厳しい状況に置かれていると、様々なメディアで言われて続けてきた。もう10年にはなるだろうか。韓国経済や若者の就労率・失業率、大卒者の進路などについてはビジネスサイトでしばしば話題になり言及されてきたのでここでは深入りしないが、概ね以下のような共通認識だ。
苛烈な受験戦争があり小さい頃から競争を強いられていること、しかし名門大学を出ても就職先がなく「大卒でもチキン屋」(チキン or ダイ)となること、対照的に財閥の子息子女など親ガチャでSSRを引いた層は圧倒的に強者の道が用意されている超格差社会である(ナッツ姫!)こと、高い失業率や正規雇用の困難さや住宅価格の高騰から結婚・出産・マイホームなど全てを諦める世代へ突入していること…etc、etc。
「Self-Portrait」群の、身を切るように差し迫ったどうしようもなさ、前にはもう足を置く所がなく、文字通り「詰んでいる」状況の強さと、それでも堂々と身体を晒して、宙へ対峙し、前へ向かおうとする後ろ姿に、個人・世代の置かれているバックグラウンドとそれに抗する具体的な意思と力を感じたのだった。個人の身体を丸のまま投げ込んで表現を行い、切迫した状況を表すところは、強度は違えど任航(Ren Hang)を想起させた。
だが「Self-Portrait」の受容と影響はやはりセルフィー文化としての、消費的なバズと表層的な模倣の増大を招き、屋上で自撮りする危険なフォロワーが続出、写真集のテキストには当時の過熱により制作上の困難を来したことが書かれている。
アン・ジュンの作家活動と作品の及ぶ領域は非常に幅広く、知的である。それが「Self-Portrait」シリーズのあまりに出来すぎた「ばえる」ヴィジュアルと相反するため、受け手に伝わらず(特にスマホ画面では意図が裏切られる)、却って「Self-Portrait」以降の活動と思考を見えづらくしていた感がある。本展示の最大の成果はアン・ジュンの本当の姿と思考の幅広さを伝えたことにあるだろう。
「Self-Portrait」シリーズから順路を進み、林檎を投げて宙に浮いた状態を撮る「One Life」シリーズ(2016-現在)、同様に宙に浮かんだ岩を撮る「Liberation」シリーズ(2012-2016)を見ていくと、テーマ・世界観が一気に広がる。予想外の展開に戸惑う。
宙に浮いた林檎の実や岩は巧みに画面内に配置されている。非常に絵画的だ。若者世代の苦境や心情、社会問題、自己表現という領域を脱し、重力をはじめとする自然の諸要素を取り込みながら、写真技法を用いつつ美学的・絵画的にアプローチしていることが分かる。シュールレアリスム絵画も思わせつつ、現実の中で物理的に施された操作、すなわち物理的な動きを止めて写す、基本的な写真表現そのものでもある。
作者のプロフィールを見ると、南カリフォルニア大学・美術史学科卒業後、パーソンズ芸術大学・写真学科修士課程修了、ソウルの弘益大学校大学院・写真学科博士号習得と、写真を専門とする前、スタート地点では美術全般の研究を行っていたようだ。キャリアを考えると、絵画的な思考の素地をベースにその上から写真を搭載している感がある。
よって展示全体としてはステートメントにあるとおり「自由落下」や「自然界の力」という論旨で捉え、その大きな枠の中に個人の生き方や生の状況もone of themとして含め理解することとなる。
終盤は自然のエレメント、波や風・空、炎といったモチーフが更に明確に打ち出され、絵画的な構成を有しつつも、より写真的な、予測不能な動きや造形の取り込みが強まっている。モチーフが球体や岩という単体のオブジェから複雑化しているためだろうか。しかしここでも自然の力、四大元素というだけでない。
立ち上る炎が作者を覆い尽くす「Self-Portrait」(2021)シリーズは新型コロナ禍で祖母を失った作者が、ソーシャルディスタンスのために直接お別れを言えなかったことを踏まえた、哀悼の自画像なのだった。燃え上がる炎は葬儀、別れの象徴的イメージであって、地球の自然界エネルギーが主題ではなかった。思った以上にテーマの幅が広いのだ。展示の構成としては私性よりもより広い、美術・絵画と自然界の力へと、可読性を広げ、引き出そうとしていることが読み取れた。
アン・ジュンのテーマ性と知見の幅広さは、別室で展示されているAI画像生成システムを用いた最新作「Good Morning, John」(2023)シリーズで明らかになる。
歴史的な美術館・博物館を思わせる室内に岩が浮かぶ。次第に大きな彫像が現れるようになり、そこに人間も現れるようになる。シュールで神秘的な、絵画と写真の合の子といった風の、見慣れたAI描画だ。
ステートメントは非常に長く経緯が入り組んでいるが、超ざっくりいうと(誤りも随所にあると思う)、「自意識や感情を持っていないAIは、文化圏や個人の価値観によって解釈が異なる名詞、特に抽象名詞をどのように視覚化するのだろうか。」という問題意識から模索がなされている。
作者が最初に使ったのはOpenAIにより開発された「Dall-E」、初日から使い始め、言葉を少しずつ変えてAI自身の「自画像」を描かせるように指示を出していくと、データセットに持っているものとは非常に異なるプロセスで「自画像」を生成することが分かった。
しかしAI(旧・Microsoft Bing)には有害となる可能性のあるプロンプトをブロックすることが判明。「yourself」や「god」がそれに含まれる。インターネットに接続された画像生成AI(Bing)では対話(質問)においても強制終了となり、画像生成においてもデータセットから画像を生成した後、制限規定を検討し、引っ掛かる画像は回収(ブロック)しているという。
作者は単語やその順序を微妙に変化させながら何度も入力を繰り返し、画像生成を試行する。その結果、彫刻でも絵画でもない一人の「人物」が部屋に登場したという。
2023年末、「Copilot」(旧・Microsoft Bing)は「写真」関連プロンプトの体現体系・プロセスに大きな変化を加えたため、作品シリーズは暫定的に終了された。潜在的に有害な可能性がある画像を生成しないよう禁止ワードが非公開で設定され、流動的に運用されているのだ。
テキストはこう締め括られる。「人工知能が一般化される近未来において、プラットフォームの禁止ワードと画像生成プラットフォームの事前検閲システムは、究極的に同時代の視覚的タブーを規定し、意識の境界線を描くことになるだろう」。
人工知能というプログラムそのもの、企業側が仕込んだ自己規制・検閲の体系、それらの兼ね合いの中で浮かび上がるAIメディアの「意識」や「感情」といった自画像的な姿形、そうして開かれていく絵画・写真に次ぐ新たな表現領域・・・こうした見えない領域をアン・ジュンは思考・試行し模索している。目に見えない力の動態を追求する、それは重力を扱った作品群と根底で共通しているかもしれない。
昨年末~今年初めの「加速するヴィジョン あ³展」でもAI画像生成作品が提示されたが、今回はよりアン・ジュンの試行の過程に踏み込んだ展示となっていた。これは「Self-Portrait」の誤った(ある意味で正しい)「ばえるセルフィー」的なレッテルを完全に更新し、新たな写真・画像時代にふさわしい写真家として再認識させるものであった。
( ´ -`)完。