nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R6.6/13-17_栗棟美里、澤田知子・須藤絢乃「INTERACTIONS」@LAUGH & PEACE ART GALLERY(吉本本館)

現代美術家、写真家3名のグループ展。華やかなポートレイト作品が集うが、三者ともそれぞれに異なる点でオリジナリティを問うものだった。

 

 

3名の作家に共通するのはポートレイト。人物の肖像を主題としていること。肖像の定義を更新すること。現代美術としての美的さ、プライドを有していること。

どういうことか? 一般的なポートレイトフォトとは構成要素のどこかが従来の基準と大きく異なっていて、何歩か先へと進んでいる。異なる次元のものである。それが更新の意味だ。方や、美術作品として守るべきフォームはがっちりと守っている。破壊や混沌とは一線を画しつつ、オフィシャルな舞台の上で演出を更新する作品群である。

 

 

◆栗棟美里「Images」「あなたはこの世界にいるかもしれない。もしくはいないかもしれない。」

人物の肖像写真は誰もが好ましく・美しく感じるであろう人物像で、眼差しは十分に潤いとエロスを湛えている。完成度の高い肖像・・・お察しの通りAIによる生成画像だ。高いレベルのモデルを雇って、高いレベルの典型的作例をなぞって念入りに作られた広告・ファッション写真、としか思えない出来映え。悲しいかな令和の現代において私達は、よく整った理想的な美男美女の、程よく整った美肌のバストアップの顔写真は、人工的に生成された画像である可能性が高い、という経験則を獲得しつつある。本作はその絶妙な線を突いてくる。

 

人の美か?生成美か?

AI出力による「美」は、世界的な公用語とも言うべき広告的・ファッション的な水準と傾向を無尽蔵に学習し集約し表出している。グローバル経済の車輪の一部であるが如く、高い強度と均質さを持ち、地上を広く駆け巡るグローバルな美。その学習成果を無尽蔵かつ無作為に再生産するAIは、美の支配の再強化を行うだろう。

だが人間側も経験則から対抗的学習を行っているところで、そうした美の傾向を学習したAIの生成パターンを娯楽・消費の面から享受しつつも、個々人の創作のオリジナリティ、著作権を侵す搾取・盗用に当たるという危機感と警戒とに苛まれている。無限大のコストを投じることのできた1980年代じゃあるまいし、人物の肖像を写真にするに当たってどこまでの費用と手間を投じてクオリティを追求できようか?

既存の・強力な「美」のフォーマットを装置的に反復した出力結果を果たして「美」と呼ぶべきかという問いとともに、オリジナリティも当事者も無いところからやってきた人物の肖像を、私達は「誰か」として向き合っている。向き合ってしまう。「たぶんこれはAI由来だ」と内心思いながらも、クオリティと支配的な美しさに跪いて、それを肖像として受け容れてしまう。

 

ではあなた方は一体誰なのか?

 

作者の同作品は2021年にも鑑賞しているが、この3年間でAI生成画像に触れる機会が飛躍的に増大した。X(旧Twitter)、Pinterestぐらいしか使っていなくても話題に上がる頻度が増した。そのうえ当時は新型コロナ禍のソーシャルディスタンスによって、「人」の顔と向き合うことが「リアル・対面か、オンライン・デジタルか」の問題系と日常的な課題として直結していたこともあり、見え方は当時から一変した。

www.hyperneko.com

 

肖像でありながらそこには誰もいない。実体が不在であり、写真の像の指し示す・回帰する唯一無二の本人が存在しない。にもかかわらず肖像は大変もっともらしく、真実そのもののようにしてそこに佇んでいる、そのリアル/フェイクの二元論の破れをどう捉えれば良いのかが本作の趣旨となる。

表面のレンチキュラーレンズによって見る角度・距離で肖像はくっきりとそこに現れたり、光の膜の中に消えたりする。象徴的だ。本作に立ち返るべき実体としての人物は存在しない、ただ虚ろな像のみで彼ら彼女ら(のようなもの)は存在している。そうした視覚体験は急速に当たり前の環境となっていることに気付く。当たり前のメタな前提を顕現させてその物理を確認する。はいはいこれはAIね、と。養殖の肉や魚を当たり前のものとして手に取って買うスーパーのように、本作は異様な速度でリアルとフェイクのオルタナティブな連続面として此処にあった。

 

 

 

澤田知子「OMIAI♡」

栗棟美里のAI画像作品が現代のリアル/フェイクの判別とその融解にまつわる問題系を表すならば、澤田知子は全ての虚実を個人の手仕事によって出力する、平成のDIYみに満ちた作品である。並び立つ色とりどりの、お見合い写真の被写体・主人公は全て作者自身の演出によって作出された人物像だ。

作者はプロの演出家や変装家ではなく(DIYと表したのはそのため)写真家・現代美術の作家であるから、ここには変身・変装願望ではなく、狙い(コンセプト)を表現し伝えるために全ての行為が構築されている。一人の個人が様々な衣装や髪型、メイクを装い、それを写真にしたとき、どこか似つつも異なる「個人」が外見の数だけ存在するように見えてしまう、いわば個人の内面とは別の次元で「個人」が生成されることを鋭く指摘している。

 

AIの学習・生成と異なるのは、イデアが1枚の写真に、一つの作品に結実するまでの全ての選択が作者個人に帰結することだ。『ID400』では実に400人分の「誰か」を演じたわけだが、いかに肖像が分散してそれぞれに微妙に異なった類型とズレに基づいた「どこかの誰か」へと霧消しているかに見えても、その髪型、メイク、表情、衣服、etc...のあらゆる選択肢は澤田知子という一個人のコンセプトへと完璧に帰結する――より大きな作家性へと回帰して打ち寄せてくる。

 

ここで発揮される「作家性」とは選択と帰結の主体の強さであろう。もちろん「お見合い写真」という、日本独特のイエに結びついた婚姻文化と女性の社会的位置付けを象徴した、特殊な肖像写真の在り様を逆手にとり自身の制作スタイルと融合させた点も重要だ。ここでの「演出」は女性ら個々人の自己表現ではなく、婚姻制度と直結したイエ対イエのプロポーズであると共に、作者の自作自演とが二重化した構造をとる。一枚の写真の中に多層建て構造を持つのが澤田作品の演出であり作家性なのだ。

 

 

 

◆須藤絢乃「薄荷 The Peppermint Magazine 2020~」

立ち位置でいうと、澤田知子と栗棟美里の中間というよりも澤田寄りに位置している。須藤の肖像写真は澤田と同じく変装したセルフポートレイトだが、作者自身が単体で登場するもの、作者と他のモデルが協業するもの、作者が登場せず他のモデルのみが写されたもの、と幅広いパターンがある。

いずれも生身の人間、多くは作者自身を被写体とした、リアルの撮影行為を通じて獲得された写真なので、栗棟作品とは構造が大きく異なり、澤田知子の系譜と言えるが、一方で澤田作品が現代美術(現代写真)におけるタイポロジー的なフォーマットを強く有するのに対して、須藤作品では各シーンのドラマチックさ、耽美さを表現することに注力しており、デビュー作以降はその傾向が強くなっている。

 

シンディ・シャーマンの手法を日本のサブカルチャーや文芸の世界観に漬けてポップ&ディープに染め上げ、透明度な沼に転換してゆくような、理性を強く痺れさせる深刻な砂糖菓子のような幻想を伴う。つまり文学である。

 

作者自身が現れようが現れまいが、作品全てが同軸の世界におけるセルフポートレイトの亜種として自然に伝わってくるのは、やはり作者の厳密かつ強力な「選択」=作家性による色味や透明度や陰影から成る世界観のレイヤー構成が成せる技で、澤田作品がタイポロジカルな美術的ルールのフレームによる作家性を敷いているのと並置するなら、須藤作品は耽美のアトモスフィアを型として死守するレイヤリングにおいて作家性を発揮している。

コスプレ写真と何が異なるのか? 確かに登場人物らは誰の目にも明らかな、過剰さを盛った演技・演出的な装いをし、そのレイヤーの外側で何が起きようとも我関せずの過度の集中力で「美」に興じている。だがコスプレイヤーは絶対不可侵の絶対参照元としての本家・オリジナル作品から派生した二次創作表現を行う人種であるのに対し、須藤絢乃は多彩な引用こそすれど、基本的には人物・衣装・舞台、etc…はやはりどれも作者自身による「選択」の連鎖が生み出す世界であり、帰結先は作者に他ならない。

日常の地平線に注ぐ光を大きく曲げた変光星の踊り場で、常とは異なる時間の流れの中に身を浸して深く甘い美を実演する。栗棟作品のAI生成画像もこの領域を学習し出力することは原理的に可能だろう、だが肝心の耽美の情熱はそこにはない。なぜ実在の人間が実生活から離れて手間暇をかけて、厳密にレイヤーを重ねて異装し、文学的世界を催そうとするのか、そのオリジナリティへの欲望はAIには学ぶことができない。

 

 

つまり作家三者の表現は揃って「作品にとって・作家性にとって、オリジナリティとは何か?」という大きな問いへと接続されている。このことは三者三葉の表現が一堂に会し、相違点を光らせるからこそ開かれる問いでもある。解を得るのは容易ではない。派生して命題の逆「オリジナリティがあれば作家性があり優れた作品なのか?」を問うのも良いだろう。問いを行ったり来たりしているうちに、ここに集った三者が只者ではないことが知れてくる。言わば、三者の作品とも虚構である。虚構を、徹底的に突き詰めて構築する。その力量と技術ゆえに虚構自体がオリジナルとしての実態を獲得している。

 

 

( ◜◡゜)っ 完。