nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+】/【35】鷹巣由佳 【19】SHIFT80 【26】千賀健史、林田真季

人は、自分を生きられるのか? 望ましい生き方を選べるのか? KG+の3つの展示が示唆するのは、三者三様の生き方、その選択についてである。

【26】千賀健史、林田真季 【19】SHIFT80 【35】鷹巣由佳

誰もが自分を生きている。生き方を変えることは難しい。現状から異なるところに行くには、新たな選択肢、分岐を迎えるのには多大な労力を要し、困難が伴う。そもそも経済的・政治的事情などで困難な状況にある者は、選択肢を得られない場合もある。

どうやって生きればいいのか、どうやって人は生きているのか。自分の選択肢を進み続けて他者・異国へと出会い続ける者。人々が選択肢を選べる状態に至るまで支援を行う者。選択肢を誤り続け、同じ階層をぐるぐると回遊する者。三者三葉。そんな展示の数珠繋ぎ。

 

【35】鷹巣由佳「mille-pelerille(ミル ペリイユ)京都」「邂逅」@THE GENERAL KYOTO 四条新町

実直に自己の声を聴き、欲求と好奇心に導かれて、自己の選択肢を全うし続けているのが鷹巣由佳である。息の長い作家活動、着実に積み上げてきたキャリア、冊数とバリエーション豊かなフォトブックに明らかな通りの多作ぶりに加えて、とにかく海外へと貪欲に出ていく。異文化、異国へのコミュニケーションを欠かさない。現地で得られた感動と大量のスナップ写真を、大量のフォトブックに編んでは発表する。そしてまた海外へ・・・という創作の循環を作者は生きている。

作者にとっては生きることと旅とが同義と言えるかもしれない。なおかつ「旅」には、観たもの触れたものを写真にすることが当然に含まれている。その中には、写真を「撮る」ことと、写真集に編んでまとめることも含まれる。

 

近年の代表的な活動を振り返ると、「KYOTOGRAPHIE 2022」出場、「KG+SQUARE 2021」出展がある。これ以外にも毎年のように「KG+」にて個展を開催している。いずれもライフワークの旅を主題とし、旅の中で撮られた写真が提示される。

www.hyperneko.com

www.hyperneko.com

今回の展示構成は少し紛らわしく、2つのタイトルが掲げられている。会場に入って正面に掲げられたタイトル「邂逅:Kaiko Encounter Bctpeчa」は、2020年1月3日から作者がロシアのウラジオストクを旅した作品である。こちらは従来通りの、実際の旅を指している。

会場にはもう一つタイトルが掲げられていて、「mille-pelerille(ミル ペリイユ)京都」とある。KG+に登録されたタイトルとしてはこちらになり、ミルフィーユ(千枚の葉)」に巡礼を意味する単語「ペルリナージュ」の意を挟んだ作者の造語である。様々な規格の紙に印刷し、印刷エラーも合わせて綴じ込んだり、紙の種類も機械漉きと手漉き和紙とを織り交ぜるなど、写真集を編むうえで印刷・編集に多彩な幅をとっていることが解説されていた。

つまり「邂逅」は作者が体験したウラジオストクへのリアルの旅を指し、「mill-pelerille」は写真(像)が印刷、紙、製本といった領域を渡り歩く、印刷物としての旅を指すものと考えられる。

 

大量の旅先のスナップは雪と氷と寒空、太陽の光と、現地の人々の温かい表情に満ち溢れている。それらは一枚ずつの単体として唯一性、芸術性を発するというのではなく、数によって「旅」の暖かな記憶の総体を現わしている。旅は時間と空間の幅を持った複合的な体験で、更にそれを様々な質・サイズ・形の紙にプリントして会場をスクラップ帳のように自由に張り巡らせ、紙質は写真の解像度と光沢をむしろ暈すことに長けたものが用いられ、印刷の暈しの遠近法によって「記憶」が創出されている。

 

記憶はノルスタルジーであり、本作は一貫してノルスタルジックである。作者の愛するものの記憶同士を連結させて出来ている。旅と写真と異国と人と、色と紙質と綴じと重なりとが全て連環していく。これらの愛おしい記憶が繋ぐのは新型コロナ禍、ウクライナ戦争以前の世界であり、まだ何の政治的感情も抱かずにおれたシベリア(ロシア)への郷愁や愛着であろう。

過去には戻れない。だがここには過去がある。未知の世界に触れたい、未知の人達と交歓したいという純粋な思いを行動に移し、それが失われた過去のものとなり、ノスタルジーとなっても自分の想いを最大限に伝える。ノスタルジーを現在系として立ち上げ直す、その行為が作者の作家たる所以であり、生き様である。

 

【19】SHIFT80「私たちの暮らしにようこそ。さあ、対話しましょう。」@京都大学吉田寮ビリヤード室

京都大学吉田寮の家賃と、ケニアのキベラスラムの家賃とが同水準(月約2500円)であること、どちらも公的な権力によって存立を脅かされていること(吉田寮は警察・公安に睨まれているだけでなく、大学当局から明け渡しの訴訟を起こされている)が結び付いた写真展となっている。

www.hyperneko.com

yoshidaryo.org

日本の若者、京大生が置かれている状況と、キベラスラムの若者とを単純に同一視することはできない。経済的環境や権力との距離感は確かに似ているが、もっとベースの部分であらゆる点で、生きること自体の前提条件は全く別物で、生き死にのレベルで世界が違う。あまりに次元が違いすぎて他人事になるから、SHIFT80は分かりやすい経済的補助線のリンクを張って引き寄せ、我々の寝た想像力を半ば強引に起動させているのだ。

 

彼ら彼女らは生き方を選ぶことができるのか。生き方の選択肢がそもそもあるのだろうか。

 

そのままでは、残念ながらNoだ。

プレゼンを聴いて理解したのは、キベラスラムの若者らには決定的な選択肢がそもそもほとんど無い、あるのは微々たる部分に留まるということだった。例えば家の壁に小麦粉の袋のジュート材を張り巡らせて害虫の侵入を防ぐとか、本来廃棄物であるはずの自動車パーツの緩衝材を利用して断熱性を上げたり雨漏りを防ぐとか、それらの色味を工夫して独特のブルーな住環境を手作りする、等々、最大限の工夫を以て選択肢の自由を享受しているかに見える。だがそれは圧倒的経済格差によって不自由を強いられた末の、あまりにもささやかな選択肢だ。

生活そのものによる生存のプロテスト(protest)として「前向きに生きる」ことを選ばざるを得ない、ということを強く感じた。

 

このプロテストの選択肢に「ファッション」が加わり、「写真」が加わり、自己表現の選択肢が飛躍的に拡張され、人間としての生存権を拡充させていくのが、本作の意義であり、SHIFT80の支援活動の核心である。

憧れ仰ぎ見るだけだったファッションを、主体として着る側へと回る。カメラの前に無防備に晒されていたところから、意識的にポージングをとって演じる側へと回る。モデルとして写された写真を見る側から、モデル・表現者である自分たちを同じ自分たちの手(目)で撮影する側へと回る。

主体へと。生きることの選択肢を手に。これら三段階の転回を起こさせる強力な働き掛け、介入と支援が、SHIFT80の取り組んできたことであり、これから未来に向かって取り組んでゆくことである。

 

だがしかしここに大きな逆説があって、そもそもキベラスラムの人達の姿に「生きる力」を見て勇気づけられたのが、他でもないSHIFT80代表の坂田ミギーだったのだ。選択肢に溢れかえっている側の者が絶望して生きる力を見失い、選択肢の無い側が生き生きしていて、関わりの中から「生きる」ことを取り戻す。そして互いによりよく生きる関係を取り結ぶに至る。この逆説は依然として謎のままである。

 

人は変われる、生き方を選べる。正しい教育と、経済的自立のためのツールとスキルが結び付くとき、自己実現が動き出す。それを写真表現と結び付けてパワフルにプレゼンテーションしたことにSHIFT80の価値はあったのだ。

 

 

【26】千賀健史、林田真季「After All」@RPS京都分室パプロル

選択肢を誤り続ける人達がいる。

 

故意か否かに関わらず、一度誤ったらもう抜け出せないと思い知らされる。自己実現は、夢物語である。

 

本展示は林田真季「山を越えて」と千賀健史「Hijack Geni」の2作を連結させた二人展となっている。

www.hyperneko.com

 

前者は90年代をピークとする産業廃棄物の不法投棄を、後者は2000年代以降~現在もなお定番のオレオレ詐欺などの特殊詐欺事案をテーマとしている。どちらも確かに「犯罪」という大きな括りでは共通しているが、そこまで連動するテーマなのだろうか?

…と思ったら、なんと両者の間で同じ人材が流通しているのだという。

 

犯罪というと別個の現象のようになってしまうが、経済・ビジネスの一分野と捉えると分かりよい。

大規模な不法投棄と環境汚染が大々的に報じられた90年代以降、法整備が整うにつれて産廃不法投棄はビジネスとして立ち行かなくなり下火になってゆく。それはよかったですね、で終わらないのが本展示の意義であり、犯罪ビジネス界隈の難しさだ。不法投棄ビジネスに関わっていた人達が次の新たなシノギを求めて開拓した、あるいは流れついた新たなビジネスが特殊詐欺だったわけだ。

つまり二人の作品は根底で、犯罪ビジネスにおける人材流動という、より深い社会構造のテーマで繋がっていたことになる。取材中にその事を教えられた林田が「犯罪と言えば…」と千賀に声をかけたことから、本展示の実現に至っている。

 

具体的に裏社会のどういう層が回遊しているのかは分からない。違法ビジネスのスキームと組織を作り、無知な人を搦めて浸けて逃さない幹部層なのか、騙されて搦め取られる実働部隊なのか。しかしいずれにせよ、一度、犯罪者の烙印を押された人間が、その後、真っ当な表社会に復帰することは困難だ。

特に末端の構成員、違法ともグレーとも分からずに就職・加担した人間にとっては、加害者でありながら被害者とも言える面も大いにあるのだが、そんな事情を(私自身も含めて)一般社会は斟酌することはない。一度、リスキーな存在と見なされれば、終わりである。産廃処理会社に勤務した人、社を立ち上げた人などがグレーな商売を続けているうち、社会の法整備が追い付いてクロが確定、足を洗うにも既に黒くなった足で、次に踏み出す所といえば…ということか。

 

再犯率はなぜ高いか。闇社会から上、地上には戻れないからだ。

journal.ridilover.jp

現在の特殊詐欺の実行犯として加わった若い世代に関して言えば、もう少し切実な状況にある。

直近で報道されている闇バイトのタタキでは、徹底的に実働部隊の暴力的管理・脅迫が行き届いていて、「強盗・殺人を犯さなければ痛い目に遭わせるぞ」と、意味不明なまでに逆転した恐怖による支配・管理が施されている。が、千賀が取材し再現的に実演してみせた特殊詐欺の現場は、一つ前の世代というか、一見まともなブラック企業のような建付けになっていて、その組織の力学、ビジネスとしての存在意義と管理運営の幹にあるのが自己責任論と自己成長論、そして成り上がり幻想、つまりサクセスストーリーの共有である。

名のある「何者か」になりたいという成功願望と自意識を刺激された者たちは、顔を変え名を変え何者でもない架空の存在であり続ける詐欺行為の果てに、本当に自分が何者かを明かすことのできない犯罪者として「成って」しまったのだ。

 

そこで(稼ぐために、自己成長のために)特殊詐欺を働き、クロがついて、他に行きようがなくなった人達が、より安易に申し込めて稼げそうでより危険でしかない「闇バイト」へ吸い込まれていったことは、想像に難くない。実際に下記リンクのように、同じブラック層で人材が流通していことが指摘されている。より劣悪で危険な方へ…。

www.ktv.jp

 

本展示では二人の写真を混ぜて、一枚の大きな壁面に貼り出すことで、両作品の根底に流れているもの=犯罪性と人材とが共通して流通していることを示唆する。互換性、流通と流動、ビジネスという側面。それらはある時点までは明確には「犯罪」と呼ばれていなかった。だが明確に線を引いた時に、それは「犯罪」となった。

生き方の選択を間違える者たちの、間違った行為。それが真にビジネスであったなら、自己責任、自己実現、社会貢献が、何らかの好循環を生むはずである。だが結果は、環境破壊と弱者の財産の窃取・破壊だけがもたらされた。

 

彼らは何を「生き方」として選んだのか?

 

フェイクを吐きまくりながらも全てを肯定しようと、リアルに生きようとした(生きざるを得なかった)、彼らをそのように感じたとき、何かとてつもなく大きなものが一瞬見えた気がした。経済と社会の歪みに現れてはすぐ消える、巨大なフェイクの不夜城のような何かを。

------------------------

( ◜◡゜)っ 完。