nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.3/8-23「ヒメコレ!現代アートコレクションでめぐる時空旅行」@奈良市美術館

「ヒメコレ」とは何なのか?奈良市美術館」とは何なのか??

出展作家名がすごい。52組のうち3人に1人は知っている作家名がある。こんな著名な現代アートが集まるとは一体どういう展示なのか。

どうもコレクション展らしい。

分かっているようであんまり分かっていない。とりあえず行って観てみるの精神で行ってきましたよ。

 

◆会場_ミ・ナーラ

まず会場だが、意外なことに奈良市美術館」は独立した建物ではなく、商業施設「ミ・ナーラ」5階にあった。写真美術館や県立美術館と同様に、市内のどこかに立派な建物が建っていると思い込んでいたので、Googleナビが商業施設に入れ入れとうるさく言うのを、そんなわけあるかいと左折指示を素通りしてしまった。すまんなGoogle

 

「ミ・ナーラ」は、丸みを帯びた巨大な建物で、ただの商業施設にしては大きすぎるし、頭に円形状の天望台が付いていて、そのレトロみに違和感を覚える。

調べてみると、元は百貨店「奈良そごう」として1989年に建てられ、経営破綻後の2003年に「イトーヨーカドー奈良店」となった。なるほどバブル遺産ですね。納得。しかし奈良市街地に大規模なショッピングセンターが次々にでき、2017年9月に閉店。続いて東京のコンサルティング会社「やまき」に売却され、現在の「ミ・ナーラ」になったという。

 

1階のスーパーやフードコートは賑わっている。が、エスカレーターで上がっていくごとに極端に閑散としてくる。美術館のある4階は、ラウンドワンが閉まっていたせいで、廃墟のようにがらんとしていた。カルチャーセンターや保険の窓口がボソボソと入っているが、広くて無人の床が続いていて、おかしい。生きている物件の内面ではない。虚無がある。

元々のそごう時代に、建物を豪勢に、巨大に作りすぎているのだ。これには当時の会長の意向があるやら何やらで詳しく調べていくと面白いがここでは割愛。デカすぎて現在の来客ニーズに全く合わない規模感をしており、ましてや店舗の退いたままになっている上階フロアは、寂しさも相まって、眠り続ける平野のようだ。昭和という時代を感じる。

 

こちらの動画が詳しいですよ。


www.youtube.com

 

そして美術館も昭和である。美術館というか展示室。

鄙びたバブル期の商業施設の、古びた展示スペースに作品が並ぶ。

 

観客と展示品の距離が遠い。

美術館というより博物館、いや、市町村の資料館といった趣で、ガラスケースの向こうに陳列棚と壁があり、骨董品や重要文化財を遠くから見やるような感じである。昭和の味わいがあるのは良いのだが、細部が見えない。巨大な絵画ならまだ細部が見えるが、今回のような小さなコレクション品が多い展示では非常に不利に働いた。見えへんねんや。特に志賀理江子の写真作品が見えづらくて難儀した。みえへん。

 

 

◆展示_ヒメコレ

展示のレポに移ろう。

展示品は全て、現代美術コレクター・姫本剛史氏のコレクションである。入場無料というありがたい企画だったのはそのためかもしれない。

氏のプロフィールを引用すると、仙台市在住の会社員。現代アート作品のコレクション歴は10年以上。コレクション展を高知県須崎市の’すさきまちかどギャラリー’で2021年から毎年開催している。」という。

 

どのぐらいの立場と収入のある会社員かは分からないが、事業家・資産家(=金持ち)でもない普通の勤め人として、買える範囲でコレクションを積み上げてきたというのは、もっと深掘りされてよい、興味深いところでもある。

 

本展示では、普段は多彩な現代アートに触れる機会のない地方都市へ、個人の寄付のような形でコレクションを開陳しており、現代アートの紹介が主眼となっている。「現代アート」の姿形を拝むということでは、52組のアーティスト、92点もの多彩な作品が並ぶのはそれ自体で価値があっただろう。

 

一方で、私としては、作品自体には容易にアクセスできるものの、「アートコレクター」という存在については、よく聞くけれどもその実態を知らない。なのでもっと「ヒメコレ」の個人的な部分:いかにして予算を工面して、どのような情熱やこだわりをもって、これらの品を蒐集してきたか、これらを購入した際の想いとはどんなものであったのかを、前面に打ち出して語ってもらいたかった。

今やただ暮らしていくだけでも金のかかる世知辛い世の中だが、アートは安いものでも何万円かはする。それをわざわざ買って集めるという生き方、価値観について、その幸福論について、そもそもの部分はもっと掘り下げて知られてゆくべきだろう。

 

◆展示作品、構成

展示作品はまさに「様々」だが、傾向もある。

絵画、写真が主として小品で構成されているのは、個人のコレクションということで、現実的に購入可能な価格帯ということもあってのことだろう。家に飾ったり収納することを念頭に置く場合は、サイズ感と形状、収まりの良さも問題となる。このあたりに「勤め人のコレクター」としての持続可能なうまいやり方があるような気がする。

一方で、プロジェクター投影の映像作品はスケールの制約がないためか、非常に大きく壁面に出力していて、そのスケールの対比が面白い。

作品をどう配置するのかというと、全10章に分けて構成している。この章立てもまた「様々」である。

章タイトルが自由だ。

「身体発出」「未来観測」「探求者」「私たちの記憶(親しい海)(それぞれのコロナ禍)」「身体時間」「他者の苦痛へのまなざし」「風穴の行動」「わたしたちの生」「戦争反対!」「終わりから始まりへ(歴史の天使)」と、一般的な美術館の企画展、コレクション展ではまず見られないような枠組みである。展示タイトルには「時空旅行」とあるが、実際のところ時系列などの直線的な構成あるいは層構造はとられていない。

それぞれの規模も小さく、多くて10数点、少ないと5点前後で、さくさくと次の章に移りゆく。10章もあると聞いて、展示ボリュームが不安だったが、かなりさくさく観られて1時間ほどで見終えたのでちょうど良かった。

ゆえに、章立てに取り留めがないとも言えるし、逆に、目安としての章立てはあるけれども、あまり分類が気にならなくもあった。展示ケース外に置かれたオブジェや映像は、章立てから逸する(置かれた場所と該当する章が異なる)ものもあり、分類法のための章立てではないとも言える。

 

一応、QRコードから入れる解説には、時間軸での構成が図示されているが、鑑賞時には問題にならない。序盤の2章「未来観測」で、デニコライ&プロヴォースト、ナイル・ケティング、趙里奈&松本望睦の3組には未来世界デザインが濃厚だったのと、4章「私たちの記憶(親しい海)(それぞれのコロナ禍)」志賀理江子や横溝静、青山悟、榎本耕一、内藤礼らの語る3.11後、あるいは新型コロナ禍の静かさと新しい世界のフェーズの到来、といったところには時間軸=現在から未来にかけての志向性が強く伺えたが、それ以外はさほど意識されるところではない。自由に観ましょう。

 

作品で最も存在感を放っていたのは、志賀理江子である。

計11点にのぼり、小品の写真作品《螺旋海岸》《人間の春》等のシリーズが各章にちりばめられ、序盤で2つの大きな映像作品《Walk in Progress》《Bipolar Wave》が鑑賞者を挟み込んで、3.11以降の「東北」へ来場者を引き込む。コレクターの関心の高さが伺えるとともに、13㎝×18㎝程度の小品が作成・販売されていたことを初めて知り、意外な発見があった。美術館の空間を支配するように、大型のインスタレーションとして展開されるイメージが強かったのだ。

本展示で最も印象に残ったのはやはり志賀の《Walk in Progress》《Bipolar Wave》だ。この2作が対になり、序盤から観客/空間を挟み込む。

《Walk in Progress》は3.11以降に増強された防潮堤の傍を歩く人物を逆再生している。人物は逆再生を念頭において後ろ向きに歩いている。それはどれだけ時を巻き戻しても「3.11」以前には絶対に遡れないという、並行世界の可能性の断たれた、ifなき世界を示すとともに、人の感覚や暮らしを超えた規模で成立してしまった超構造の防潮堤をまざまざと炙り出し、身体で確かめるものだ。三陸は海から隔てられたとき時間軸からも切断された。

《Bipolar Wave》は寄せては返す海の波が再生されている。不安になる。遠目には普通の海の波だ。よく見れば波の一つ一つの動き、寄せては返す波の一つ一つが逆再生だ。食べ物を口から次々に吐き戻して皿の上の食べ物が完成されるように、しかもその皿の上の食材はフレームの外にあって、ひたすら口から食べ物を取り出す行為が繰り返されるようにして、海の波は上がっては引いて寄せての逆さの動きを反復し続ける。これもまた、時間が幾ら巻き戻っても何処にも辿り着くことがなく、3.11以前の海にも記憶にも行き着くことができない。

こうして写真、映像などの現代美術によって「3.11」は常々再考され繰り返されるので、何度でも印象に残り続けるのだ。更に会場で度々現れる《螺旋海岸》等の写真作品によって「3.11」の記憶がいっそう強化される。逃れられない現実の悪夢、あるいは人間性の復活を夢見る熱病のように。

 

写真、時間の進みに関する映像作品として、小瀬村真美《Drop Off》がまさに志賀理江子の2作の次コーナーの壁に展開されている。壁に投影されるのは大きなモノクロ写真のごとき静止画、古典的な西洋美術で題材・背景とされてきた、テーブルクロスが敷かれ蠟燭や果物や器の配列された卓上、他の作品を見る合間に振り返ってもそれはやはり細密な静止画、のようで実は上から物が落ちてきたり、落下物に当たって卓上の品物が転び、器の水が飛び出して落ちてゆくのが分かる。

4秒を12分に引き伸ばした、超時間の映像。これは動画映像なのか、それとももはや「写真」なのか。1秒あたり480枚の超高速シャッターで撮られた写真が加工され繋ぎ合わされて一本の動画となっている。クラシカルにゆったりと時間が止まったまま卓上が動いて乱れてゆく、このゴージャスな体験はむしろ絵画的と言うべきではないか。

 

同じく章を越境して、度々登場して印象を残すアーティストにミリアム・カーン、百瀬文がいる。カーンは《o.t.》《戦争状態/kriegszustand》《blumenfamilie(花の家族)》の3点だが、一般的に知られる画風:ぼんやりとした幻のような、幼児や精神体のように立ち尽くす人物画というより、変化球が掛かっていて、グーパンで真横から殴られる人物、紛争や内乱の不穏さを抱えた白黒写真、心理状態の渦のような花の絵と、多彩な表情を見せていた。

バラされて他の作品と並置されたことで、森美術館「アナザーエナジー展」(2021.4~2022.1月)のキービジュアルだったはずが連想できなかった。さらに言えば私は「あいちトリエンナーレ2019」でカーン特集の部屋をじっくり観ていたはずなのに、そのことすら思い出さなかった。あいトレの際は「自らと同じユダヤ系の科学者が原爆開発と投下反対の両方の立場にいた歴史的背景から、1980年代半ばに原爆をめぐる美と倫理の葛藤を主題にした水彩作品を繰り返し描いた」といった解説に過剰に引き寄せられて鑑賞・解釈してしまっていたようだ。一度解釈を解体する必要がありそうだ。

 

百瀬文は《十年日記(2022年8月28日)》《十年日記(2020年8月21日)》《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》《十年日記(2015年9月14日)》《十年日記(2024年5月8日)》の5点で、前述のとおり作品との距離が遠いために《十年日記》シリーズの細やかなペン画の中身があまり見えなかったのが残念だ。現代美術の展示、特に関東方面ではしょっちゅう名を見るお馴染みの作家で、ヤギ獣姦の絵をヤギに食べさせようとして食べてくれないので作者自らが口にする映像作品《山羊を抱く/貧しき文法》があまりに印象的だったためか、あるいはどの作品も何かこちらの後ろめたい部分を刺す力があるためか、無意識にもどうしても気になってしまうのだった。

 

深入りして今後見ていきたいと思ったのは、高田冬彦、アルフレッド・ジャー、MESあたりだ。

高田冬彦《Afternoon of a Faun(牧神の午後)》《WE ARE THE WOMEN》の映像作品はぶっ飛んでる。何がぶっ飛んでいるかというと、強固で中心的で揺るぎなき「世界」の核・軸であるはず(とされてきた)男性性を、コミカルにして強力に脱力化させている点だ。コミカルに、嫌味や説教ではなく、しかししっかりと無力化させる、あるいは違和感を総動員させるのは難しいが、それを実現している。

高田作品は「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO 2024」の「New Japanese Photography」企画内「その「男らしさ」はどこからきたの?」プログラムでも《Cut Suits》が展示されていたが、そちらはクールさの内に狂気があって、《Afternoon of a Faun(牧神の午後)》の滑稽さを通り越したバカ動画の風味とあまりにテンションが違っていて同じ作家と気付かなかった。恐るべき幅の広さ。

 

ルフレッド・ジャー《Teach us to outgrouw our madness》《It is difficult》は、河原温をミニマル化したように、真っ黒の額・下地の中央に 白い文字が書かれているだけのもので、メッセージでも無機的な記号でもない、何の宣託か、掲示か、あるいはやはり文字という記号なのか。マグリット《イメージの裏切り》との関連も感じるがもはやモチーフとなる像すらない。像すらなくてもイメージは可能である。伝達、想起、文脈…

 

MESは初めて知った。ここでは《キース/KEITH》《CEASEFIRE》が展示されている。新井健と谷川果菜絵が2015年に結成したユニットで、光(レーザー)を用いて東京の街・建物にメッセージを投射する作品で知られ、《キース》はそれに当たる。活動はもっと多彩で、緊急事態宣言下に誰もいなくなった国会議事堂を男根中心主義的な「中指」になぞらえ、中指の映像を投影したり、権力・政治に対するアクションがある。《CEASEFIRE》はまさにそれで、イスラエルによるパレスチナ侵攻とそれに抗するハッシュタグ「CEASE」を手指に付け、火を灯して停戦を呼び掛ける映像となっている。

だが調べていたらMESは初めてではなかった。2024年「MEET YOUR ART FESTIVAL 2024」(寺田倉庫)入ってすぐのレントゲン写真のようなパフォーマンス『ダイ/DA-l』が私にとって初の出会いだった。当時のレポが書けていないが…

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このようにして様々に、記憶や過去展示、現在の関心事などと乱反射するようにして作用したのであった。

 

結論:コレクションはいいぞ。

 

人のコレクションを見ることしかできませんが…(財力

( ◜◡゜)っ 完。