バウムガルテンと鈴木崇、2人の作品によって、都市の構造、何から都市空間が成り立っているかが如実に示された。線と面である。
この二人の作家の作品を並べて観ることができたのは幸運だ。共通のテーマを元に共同制作を行ったわけでもないのに両者の世界観はよく似ている。
バウムガルテンは絵画で、鈴木崇は写真で、都市・建築物の面や線の折れ重なり、干渉、連続を表している。それらを組み合わせて繰り返し描いたり写したりすることで、現実は普段当たり前に見えている姿形から、別の次元へ展開されてゆく。
勿論別個の制作活動や問題意識からそれぞれの作品は生まれているし、絵画と写真ゆえの相違点も見受けられる。
バウムガルテンは近年、韓国を活動拠点とし、その独特な都市景観や建築にフォーカスを当てているという。ピンクやブルー、エメラルドグリーンといった、ドリーミーでレトロフューチャーみのある色の取り合わせは、幻想ではなく現実がモチーフらしい。柱や監視カメラや雨樋、手摺りといった建築物の細部とその影がしっかり描きこまれているのを見ると写真的ですらある。だが写真には写されないような淡い「色」が画面全体を覆っていて、造形のリアリティと色彩感覚・雰囲気のイリュージョンが併存している。
ここに、都市空間・建築物が色の面と線の組み合わせから構成されていることと、絵画自体も同様な構成をしていることとの重ね合わせがある。都市空間をやや抽象的に観た時、個々の建築物の個別具体性は色と平面性と線へと溶けて還元され、また絵画を構成要素に解体した時にはやはり同様に色と線の平面から構成されるので、都市空間と絵画がメタなところで結び付いて一体化するところを描いているように思われる。無作為な構造体に対して意識的なアプローチを行っているのだ。
鈴木崇の写真のアプローチは似て非なるものに思われる。作者と別のところで無作為に伸展し交雑する都市空間をモチーフ/対象とするのは同じだが、次の工程が異なる。さらに続けて無意識的な機械の眼を意識的に用いている。人間の眼と意識では拾いきれない都市空間・建築物の細部が集合し圧縮されて写されているが、それに加えて、立体・奥行きを全て平面へと圧縮還元するという写真の機械的な機構も寄与している。
人間の眼と手を介する限り、都市空間を完全な平面として表すことは困難であろう。人間の眼で広角かつパンフォーカスの視座を保ち、街全体を遠近を殺して「見る」ことは可能だろうか? だが写真/カメラなら視野内の視覚情報を減算することなく圧縮によって極限の平面化へ至ることが可能である。
そうして明らかにされるのがバウムガルテン作品でも繰り返している通り、都市空間が面と線の繰り返しと重ね合わせであるということだが、写真機構によってそれが徹底されると、より一層、都市の構成要素は奥行きもろとも凝縮され、人間の眼では得られない密度で平面の連続性が獲得される。
これが何を可能にするかというと、他の全く無関係なシーンと隣り合わせたとき、面と線の連続という共通性だけで、あたかも同一空間のようにして接続できてしまうのだ。それが写真4枚を横一列に連続させた《Fictum cp-8360》《Fictum cp-9535》だ。これらは現実の事物としてのある建物や場所を超えたシーンを生み出す。超場所へと拓かれる。
作家側が作ったわけではなく、元から街は作家の外部に在り、更に街・都市の意匠とはまた別の次元で、その切り取り方によって新たな見え方や意味、すなわち「形」が生まれるのだが、そこだけを言うといかにも写真的だ。だがストリートスナップ写真と本作を分けるのは造形を巡る考察や認知の問題だろう。ストリートスナップが反・絵画としての瞬間芸、主観の外にある世界へ向かうアクションであるなら、本作は「形」という観念や理を巡る問いと思考である。
「形」自体は外の世界にある。だがそこに形を見出せるかどうかは主観・認知機構に掛かっている。
作者はそうした機構と手順について実に自覚的で、「写真」から眼の機械性を奪わない(私情や主観を上乗せしない)ことによって、日常生活用に統御された視覚の中では綺麗に破綻なく収まっている面や線や奥行きについて、そのどこにどう鑿の一撃をくれてやれば結晶構造が明らかになるか、構造が壊れるのか、あるいは増強されるのかを見徹し、試行する。写真という機械の単眼を徹底することによって、静かに(ヒトを介さずに)過剰に圧縮され、眼で見る日常世界にはありえなかった「形」が露わになる。鑑賞者はここに立ち合い、既存と未知の「形」の混成体と出会うのだ。
それらは単体の写真でも未知の「形」(形と呼ぶべきものはどれか?)を孕んでいるが、異なる場所同士が超場所としてシームレスに連結されてゆく様には、電子顕微鏡や宇宙望遠鏡に匹敵する、新たな視界が繁殖している。
ただしそれらと決定的に異なる点が、従来の近代的光学機器は「在る」ものを見ていたのに対し、ここではカメラが見た=既に在ったものをベースにしつつ、カメラの認知機構によって人間の肉眼と認知を超えた領域にある光景へと至り、自己増殖的に拡張されていることだ。スポンジを積み重ねて未知の「形」へ分散的に試行する《BAU》シリーズとの相違点もここ、「形」が起きているのは写真の外か・内かにある。
こうした「形」を巡る写真について、同時期に開催している滋賀県立美術館「ブツドリ:モノをめぐる写真表現」(2025.1/18-3/23)が更にその定義や射程を拡げており、鈴木崇作品はまさに《BAU》が出展されている。だが滋賀県美の方は「ブツ撮り」の対象範囲を考察する場になっていて、写されたものの中身について問いを催されるのは間違いなく本展示の方だった。つまり、両方観るべきである。
( ◜◡゜)っ 完。