nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.9/6~11 湯澤洋(汤泽洋)「我我 ワレワレ」@同時代ギャラリー

作者も取材先の被写体らも、日本の大学で学ぶ「中国人留学生」である。同じ境遇の士ならではの視点でポートレイト、部屋の中を撮ったドキュメンタリー。本展示では、部屋を借りて住みついても、またすぐに進学や就職で部屋を空けて移ってゆく、その軽さを表現していた。

 

【会期】R4.9/6~11

 

本展示は初個展となる。

作者は2018年度から「大阪国際メディア図書館 写真表現大学」に入学し、自身と同じく日本にいる中国人留学生の取材・撮影に取り組んできた。テーマは現在まで一貫している。

取組み開始時点では顔を主題としたポートレイト作品のみだったが、取材対象者を室内で撮るようになり、更に部屋を背景としてではなく主役として扱い、その生活感を写しとるように変遷していった。

 

(参考)2018年度・取組み1年目の展示。

 

(参考)2020年度・現在に繋がる展示。

 

 

今回の展示構成は4点:入口付近のポートレイト、彼ら彼女らの生活色ある部屋、うち1名の男性にフォーカスした小部屋、そして、入居直後または引き払い直前のカラになった部屋、である。

 

これまでは学校の修了制作展、つまりグループ展であったため、学校の展示ルールに則り、限られたスペースでコンパクトに展開していたが、今回は個展とあって、スペースをいかに作品として使うかに力点が置かれていた。

中でも、従来の展示と写真集『我我 ワレワレ ― 中国人留学生ドキュメンタリー ― 』(2021)では扱われてこなかった、空っぽになった部屋が事実上の主役として、大伸ばしのプリントで展開されたことが大きな特徴である。

 

湯澤洋「我我ワレワレ 中国人留学生ドキュメンタリー」dohjidaishop.com

 

これは恐らく、3年、4年と取材を続ける中で、彼ら彼女ら「留学生」との出会いと別れに次々に立ち会ったことが影響しているのだろう。ステートメントには次のようにある。

留学生はだいたい3,4年、日本に滞在しますが、コロナ禍のため日本で就職できず、また競争が激しくなって希望の大学に進学できず、無念の思いで途中帰国する人が増えています。私が取材させてもらったなかにも何人かいて、知り合って仲良くなったと思った途端に・・・・・・。「一期一会」を噛みしめました。

つまり現在の作者にとっての「中国人留学生」のリアリティとは「一期一会」であり、ある種の存在の軽さ、生活の「移ろい」そのものであったとも言えよう。

 

作者は2017年から日本で留学し大学院で学んできたが、今年度からも引き続き日本で学び続けるため、滞在期間としてはすっかり同胞を見送る側となっている。更に、2020年から続く新型コロナ禍が、留学生たちの生活と先行きを不安定にし、「移ろい」に拍車をかけたのは間違いあるまい。従来の作品内容から重心が移動しているのはそのためだと解した。

 

個々のパートで見ると写真に力があり、また、余白のない大き目のプリントでの見せ方も納得のいくものがあった。中でも、展示空間を作品の一部として扱う試み:空間と写真とをシームレスに繋げ、「空っぽの部屋」のスペース感と空虚さを表現しようとした点は、これまでの展示から大いに飛躍した。

 

私自身が作者と同じ学校に丸4年間在籍していたので、展示形態を空間寄りにすることが、なかなかの難所越えであったであろうことは重々知っている。学校に在籍している間は、個展といえども講師陣と進捗やコンセプト、展開方法について綿密に議論を重ねる。「展示には思想が宿る」、ゆえに安易なインスタレーションに走ってはならない、というのが母校の教えであり、基本的にはしっかりしたフレームを使って展示をするよう指導される。そこでフレームを外す方向に我を通すのはなかなかの労力、というかまず不可能で、てっきりもう学校を卒業してたのかなと思ったぐらいだが、作者が自分のやりたいこと・やるべきと思ったことを強引にでも通したことは、大きな一歩を踏み出したとして評価してよいと思う。

 

 

その一歩が大きかったがゆえに、課題もまた明らかになった。私の感じた課題としては大きく2点ある。

 

まず1点目は、本展示で作者が表そうとしたことと、撮り溜めてきた作品が伝えていることとのアンバランス、非整合についてである。

 

入口からのポートレイト写真群は、各人、次世代を担うエリートとしてのプライドを感じさせるもので、それが「中国人留学生」の率直な素顔として説得力を持ち、本展示の背骨として最も力を有していた。

実際、彼ら彼女らは、中国の中でも有数の都市戸籍民であり、さらに大学進学者であるという国内のエリート層で、そのうえ母国語+α の言語を操り、世界を回って知見とキャリアを拡げている真っ最中である。彼ら彼女らから見れば、「日本」は人生の選択肢におけるone of themである(に過ぎない)のだから、自宅の庭先を数m範囲で這い回るばかりのダンゴムシのような人生を送る私(とonly one なる日本)と比すれば、国際的なエリートと呼んで差し支えないだろう。そのパワーを感じたのだ。

 

だが、もう一つの骨・主題である「部屋」との関連付けが難しくなっていた。

肖像から次に来る「部屋」の写真群は、生活感に満ちた部屋と、転居・移動でカラになった部屋という極端に異なる2種類に分かれ、しかも後者の方が圧倒的に大きな面積を占めていたためだ。

これまで扱われてきた「部屋」は前者、留学生が日本で暮らすプライベートな生活空間のドキュメンタリーであり、写真集の構成も、部屋・ポートレイト・冷蔵庫や大切な品物、という「生活」に焦点を置いていた。「日本」が彼ら彼女らにとって仮ぐらしにすぎず刹那的であったとしても、その「軽さ」の中身のディテールをしっかり見せてくれたことが大きな魅力であった。

つまり私達日本人の側が「中国人留学生」、ひいては「日本に来てくれている外国人」について何も知らないこと自体を教えてくれる作品であった。

 

「空っぽの部屋」写真は逆に、生活感とディテールの喪失そのものである。言うならば、何もないことを表そうという写真である。

この二つの部屋の写真は「留学生」という立場・生き方において矛盾はないが、会場では圧倒的に「空っぽの写真」のウェイトが大きかったために、展示前半の肖像とは矛盾を起こしてしまう。すると、日本での生活と学びが「何もなかった」、通過しただけというニュアンスになってしまう感があった。また、前述の「一期一会」を表したものと捉えるなら、作者の感傷が大きすぎることになり、やはり冒頭の肖像と合わない。

 

というのも、生活感のある部屋の写真が、圧倒的に面白いからだ。

 

いやもう面白い。日本人以上に日本コンテンツ摂取生活をしっかりやってて負けた感すらある。くやしい。

下2枚は展示物の一部を拡大して複写したものだが、部分拡大しても1枚の作品として成立しそうな情報量がある。これら生活感系の部屋写真は、写真内のどこに目をやっても何かが写り込んでいて、さながら生活情報のオールオーバーである。ここに、私達日本人側は、多くの発見をする。彼ら彼女らから、日本の何が愛されているのか、日本の何を学ばれているか、私達と何が同じで何が違うのか・・・といった好奇心を催させられる。

 

「空っぽの部屋」写真は、留学生という生き方を俯瞰した際には、必要な写真となるだろう。特に、滞在年数を重ね、新型コロナ禍を迎えて不安定な状況にもある現在、作者にとってのリアリティは明らかにこちらの方が強いのは分かる。しかし、大伸ばしにしても、空っぽであるためあまり見えるものがない。

面白いのは面白いのだが、生活感系の部屋との主従関係が生じてしまった感がある。例えば二つの「部屋」のサイズを逆転させるとか、2回目の個展で「空っぽの部屋」シリーズが主役として出てきていたら違和感が無かったと思う。

 

 

課題のもう1点は、展示の仕方・空間性の演出についてである。

これら「空っぽの部屋」の空虚さ・軽さを出すために、作者はあえてフレーム無しの大伸ばし写真を直に釘打ちで留めていたが、けっこうな本数の釘を写真の中に直接打ち込んでいるのはさすがに気になった。釘が目立つことで、写真としても空間としてもどっちつかずになってしまい、狙っていたはずの空間性が阻害されたように感じる。

鑑賞者としては、部屋の細部を見たいので、目線を隅々に行き渡らせ、どうしても釘に目が当たるのである。

 

この意図として作者は、留学生の下宿先がすぐ移ろい空虚と化すことを、「写真」の取り扱いでも表現したかったという。また、これらの写真プリントと展示は基本的に1回限りと考えていて、オンラインで何でも繋がる時代なのに物理的にプリントを展示したり、巡回展をすること自体も疑問なのだという。

 

考えは悪くない。20代の学生である作者が、私のようにニールセンのフレームをカード切ってアホほど買い込むのはおそらく健全ではない。

 

が、例えば「1_WALL」や「KG+SELECT」で、展示まで勝ち抜いてきた同世代の若い写真家らとこの展示で勝負したら、と想像すると、厳しい。

アホほど展示を見てきて分かったことがある。よい作家、勝っていく作家は、自分の作品を何より大切にしている。その想いの強さと深さが、あいまいな何かを決定的な「作品」として、価値へと昇華しているらしいのだ。

そもそも審査員自体が、そうしてきた人種である。額にはめて大事にせよと言いたいのではない。作品のありようの話だ。

釘については、もっと目立たなくしてうまくやる方法が幾らでもある。プリントを展示すること自体が疑問であれば、会場の隅で流していたプロジェクター映像を逆に主役とし、動画映像を大画面で扱いながら写真も効果的に配するといった構成もあるだろう。もっと「空間」に一体化させたり、インスタレーションだと観客に分かる形で提示することも考え得る。

今回の大伸ばし × 釘の直打ちという手法は、アレック・ソス「Gathered Leaves」展(神奈川県立近代美術館で実際に見たものだという。その行動力と吸収力、そして旺盛な展開力を以ってすれば、自分の理想とする、プリントだけでない展開方法を模索してゆけると思う。

 

小部屋を使って、一人の留学生の生活を多面的に見せた(=写真集の編集に近い空間を作る)やり方は、ひとつの好事例かもしれない。

展示室が約5畳なのに対し、この男性はたった2畳の賃貸で生活していたという説明文が、写真の中身と空間とこちらの理解とを結び付けた。これも効果的なやり方はまた見出されてゆくだろう。

 

この作品シリーズ、ゆくゆくは、例えば「KG+SELECT」といった場で提示され、多くの人の目に触れるものになってほしいと率直に思う。会場を入ってすぐそう思った。真っ当なドキュメンタリーであり、見るべきものが豊富にあるからだ。

 

 

( ´ - ` ) 完。