写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.2/8_兼子裕代「APPEARANCE」@The Third Gallery Aya

【写真展】R2.2/8_兼子裕代「APPEARANCE」@The Third Gallery Aya

歌うポートレイトだ。

比喩ではなく、登場人物らは歌っている真っ最中のところを撮られている。

【会期】2020.1/25(土)~2/22(土)

 

 

歌という答えを伏せた状態で作品を見ると、実に陶酔感が漂っていて不思議な気持ちにさせられる。目を閉じ、明後日の方向を見やり、口は少し開き、両手は自然と浮き上がっている。通常のポートレイトでは、被写体の個性、存在が、鑑賞者であるこちら側へと直接突き付けられるところだが、ここでは個々の人物が確かに撮影者――鑑賞者の目の前に居るのに、少しばかりどこかへ遠のいていて、視線も掴めない。

 

目の前にいるはずの彼ら・彼女らは、誰に向かっているのだろうか。

キービジュアルの作品の女性は、赤い服、巨大なペンダント、太いベルト、左右で白黒に塗り分けられた髪に、濃ゆめの顔立ちと、ただでさえインパクトが大きいのだが、「ちょっと、」とこちらを呼び止めるような身振り、手振りをしている。だがこちらに話しかけているわけではない。この婦人だけでなく、本作の登場人物らは皆、誰にも話してかけてはいない。誰かに向かっているわけではない。

 

歌うポートレイトである。

考えれば妙な話で、実際の撮影現場ではモデルらの目の前には作者がカメラを構えているはずで、一対一で対峙しているはずなのだが、そのこと、つまり対峙なり融和なり、被写体と撮影者との個人的な関係性があることを、これらの作品は感じさせない。歌っているモデルらの個性や、歌唱というモーションそのものが迫ってくるわけでもない。キービジュアルの婦人と同様、動作を超えた感情の溢れとして伝わってくるものがある。写真の核にあるのは被写体にまつわる個別具体性よりも、、被写体が様々なものから浮遊しているという事態だ。

一般論で言えば、歌を歌っている時の人間は、素人のカラオケであっても、音とリズムと言霊に体を委ね、力に満ち、振動し、感情の波を宿している。歌は曲という尺を持ち、空気の振動から成る。つまり3次元以上の情報を持つ。だが1枚の写真に写るのは、普通なら大幅に次元の削り取られた映像ということになる。よって普通のポートレイトならば、被写体の個性か、歌唱というモーションを一枚の画像として記録することに力点が置かれるだろう。

 

ここで、本作の真価が明らかになる。写真の中でモデルらは、足が地上から浮き上がっているように感じられる。そこに確かにいるはずの人物らが、溢れたものとなって浮かび上がる。何かもっと大きなものに向かって、自身の存在を渡しているように見える。

 

作者が歌う人々を撮影し始めたのは2010年からで、作品の多くは、住んでいる先のサンフランシスコやオークランドで撮られたものだ。2002年にアメリカに移住して以来、様々なハードルを感じてなかなか思うように写真を撮れなかったというが、人が歌を歌う姿にハードルはないと気付いてからは撮れるようになったという。

本作を収めた同名の写真集の巻末には、各人が歌った曲名も記載されている。歌の選択は当人らにお任せで、誰もが知る話題のポップスもあれば古き名曲もあり様々だ。歌う場所も、当人らの自宅や庭など指定された場所である。つまりこれらの写真はかなり私的で、個々人の営みの多様さが表わされたものと呼べるはずだ。

 

しかし、歌、曲という尺のある亜空間の中を漂う人間の姿は、共通して、何か大いなるものへと捧げられているかのように、陶酔感とともに好ましい振幅の中へと浮かび上がっている。個人の多彩さを超えた、崇高さの下へ帰依する姿に繋がってゆく。

 

歌を歌うという行為は、どんな意味を持つのだろうか。作者がステートメントハンナ・アーレント『人間の条件』の一節を引用し、「出現(アピアランス)」という語を導いてきたのは、その解釈の糧となるかもしれない。アーレントは『人間の条件』で、ナチスのごとき全体主義を生み出した根本にあるものとして、従前の哲学や思考を批判し、そして活動的生活の実践を説くべく、「労働」「仕事」「活動」という分類を行った。そして、近代哲学が重視してきた「労働」(=生命活動を維持するための営み)の崇拝を排し、「活動」という行為(個人の自発性に基づく働きかけ、人と人との間で直接行われるもの)を実践することで、人間個人を社会へと外部化することを重要視した。念頭にあったのは古代ギリシアのポリス的な市民である。

ここでは個人は差異に満ちながらも、しかし同等・対等な存在として見なされる。その個人の群れが議論し言語活動を行う場が社会である。この状況は「複数性」という語で表され、アーレントにとって重要な概念である。これは現代で言うところの「多様性」ともニュアンスを異にする。

本作が緩やかにアーレントを引用するとすれば、被写体ら個々人の歌う「歌」もまた、「活動」に属する言語的行為として社会の営みと見なされよう。個別具体的な彼ら・彼女らの出自や境遇、信仰、政治的立場などは、同じく個々に異なる「歌」と共に、ある飽和状態へと導かれる。歌の振幅によって生じた、浮遊の・聖なる帯域に集まった人々の群であるとするならば、複数性という語はその状態を概括するのにふさわしいように思われた。

 

 

( ´ - ` ) 完