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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2020(3)_⑥外山亮介『導光』、⑦ピエール=エリィ・ド・ピブラック『In Situ』、⑧-a,b_オマー・ヴィクター・ディオプ『Diaspora』『MASU MASU MASUGATA』

KYOTOGRAPHIE2020・本体プログラムのレポ(3)。 

建仁寺・両足院の【No.⑥】外山亮介『導光』、京都府庁の【No.⑦】ピエール=エリィ・ド・ピブラック『In Situ』と【No.⑧a】オマー・ヴィクター・ディオプ『Diaspora』、そして同じくディオプで【No.⑧b】出町桝形商店街の『MASU MASU MASUGATA』をレポートです。

 

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 【会期/KG本体プログラム】2020.9/19(土)~10/18(日) 

 

 

KG関連レポートのリンク集はこちら。

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No.⑥建仁寺は少し離れてますね。No.⑬-b(※KG本体プログラムではなく、「アソシエイテッド・プログラム」扱い)が割と近いので同時に回るとよろしおす。

No.⑦と⑧-aも離れてます。どちらも同じ京都府庁の建物内。No.⑧-bは更に離れて、地図のもう少し北側・出町柳のあたりです。 

 

【No.⑥】外山亮介『導光』@両足院(建仁寺山内)

自分と同世代の、日本各地の工芸職人ら20名を撮り集めた作品。2008年・作者が28歳の頃に初回の撮影を行い、その10年後に再び向き合い、撮影を行った。

 

作品は3つの空間:両足院の外側(毘沙門天堂)、大書院の建物内、離れの茶室、で展開される。歩を進めることで、作者が10年越しで職人らの意志と成長を受け止め、写真の技術自体のルーツに立ち返り、最後はカメラオブスクラの実演で締め括られる。

実は、作者自身は職人ではない。実家:祖父は着物の引き染めの職人、父親は染匠であったが、家族からは特に勧められることもなかったためか、職人の家業・伝統を継がなかった。作者はその選択に対して、ずっと問いを心に残していた。それゆえ当事者として、同じ境遇にある同世代の職人たちを巡る、対話と撮影の旅に出ることとなった。

 

 ①毘沙門天堂:『種』(2008)

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作者が28歳の時に、伝統的な工芸に携わる職人ら20人を撮影した写真である。北は青森、南は鹿児島まで。お堂の中でスライドショーとして展開される。

職人らの過去の肖像を、幕の隙間から覗き見るという発想が面白かった。確かに、過去は直接に見たり体験することができない。

 

職人らは若い。写真の撮り方にも若さを感じる。真正面からのポートレイトと、薄暗い工房での作業風景、後ろ姿や横顔が提示される。ステートメントからは写真の外側に、作者が職人らと語り合った言葉、職人らが自分自身に向き合った言葉がもっともっと無数にあったことが知れる。

作者はこの撮影だけで完成とするのではなく、「十年後の自分自身に宛てた手紙」を書いてもらうよう職人らに依頼した。預かった手紙は読まずに保管し、十年後の撮影時に本人らに読んでもらうこととした。その結果が、建物内で提示される。

 

 ②大書院:『導光』(2018) 

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入ってすぐに据え置かれた巨大な蛇腹のカメラは、作者の手作りで、50㎝×60㎝のガラス板で撮影をする設計となっている。長さは1m近くあり、カメラといえど手で持って操作することは不可能だ。

 

なぜこんなに大きいかというと、古典的な「アンブロタイプ」方式を採用したためだ。一般のカメラのデジタルセンサーやフィルムに当たる部分に、感光剤を塗布したガラス板を入れて、レンズキャップを開けて(シャッター不要)感光させ、撮影が終わればガラス板を現像処理する。「コロジオン湿板法」と原理は同じだが、調べたところ、得られた像をネガとして紙にプリントするのではなく、ポジとして一点もののガラス板の像を完成品とするところが異なるようだ。 

 

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時間の枠を越えてやって来た「工芸品」と、その技や精神を受け継いだ存在としての「職人」の肖像が並ぶ。あえて古典的な写真技法を採用したという話を聞いて、懐古的なニュアンスがもっと強いかと思いきや、予想外にフラットだった。空間を引き締める黒い色が、時を凍結させるような効果をもたらしたのかもしれない。

壁面がなく釘が打てない、写真の展示会場としては実に難しい会場だが、実にうまくまとめ上げている。

 

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アンブロタイプや湿板写真の方式だと、ポートレート撮影にも関わらず露光時間は1分半~3分にも及び、モデルはじっと動かずに待たねばならない。必然的に、ぼうっとした、空気と混ざったような像になる。カリカリ、ビシッとした、解像度の右肩上がりを志向するデジタルカメラ写真とは、全く逆方向の写真である。

更に、フィルムやデジカメと異なり、撮影前後の準備がべらぼうに大変である。ガラス板に薬剤を塗布し、光に当てないよう、濡れている間にカメラに装填・撮影し、その場で現像・定着処理を行わねばならない。撮影と現像の工程を分離できるようになったのは乾板写真以降である。

よって、撮影時にはカメラだけでなく暗室が必要となる。この巨大なカメラと暗室を軽トラに載せて、10年越しの職人らの撮影に向かったという。

 

展示品を観るだけではその苦労は分からない。が、作業工程を読んだり聞いたりするにつれて、たった1枚の像を得るために現場で費やされた労力と、それを実用レベルに引き上げるために人知れず費やされてきた研究、試行錯誤の労力とを、だんだんと理解してゆく。思えば「職人」とは、今ではブラックボックスと化している「技術」を、言葉ではなく自身の身体を以て染み込ませ、世代を超えて継承してきた職能人たちのことであった。その知と技をボタンやアプリの操作へと極限まで圧縮し、数式やコードによって翻訳・置換し、ヨコへと敷衍させたのもまた、現代の電子技術的な職人である。

そうした恩恵を受けて仕事や趣味をこなす私達「非」職人は、ブラックボックスの動作スイッチを押すだけの「ユーザー」であり、技術面の壮大な委託と伝統の忘却を享受することによって、日々のタスクを円滑に回すことに専心している。

 

それが良い・悪いの価値判断はここにはない。本作では作者が撮影機材「ユーザー」であることを良しとせず、一度は手放した「職人」へと立ち戻り、伝統工芸の職人らと対等に対峙するために、写真技術・歴史を自らの手で遡り、自身の身体へ引き戻し直したのだ。

 

そのお陰で私達は、既存のデジタルカメラの画像、インクジェットプリンタの像ではありえない体験をすることが出来る。まずはこの体験を「新たに」掴むことが、メーカー直下の「ユーザー」たる私達鑑賞者が、冒険に一歩、踏み出すことに繋がるのではないかと思う。 

 

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アンブロタイプで得られた「写真」はガラス板であるため、写真なのに透明で、向こう側の景色が透けて見える。同時に、光に照らされるとその影がネガの像となって浮かび上がる。そこにいるのに、奥にもいる。なおかつ、そこにはその人はいない。存在の確かさと不確かさの折り重なりは、作品を単に「ポートレイト」と呼ぶのを躊躇わせる。

 

銀塩にせよインクジェットにせよ、「写真」はベッタリと平面の画像である。素材の工夫により半透明のプリントに仕上げるのは簡単だが、元画像の情報を差し引いての透化であろう。だが本作は元画像自体が光と共にあり、存在の記録情報だけにはとどまらない。その気配の光は、時間や天候によって表情を大きく変えるだろう。これらの像は「古典的技術」として保護されるべきものから、自由な振る舞いを得ていて、新鮮だった。 

 

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何より、展示を支える環境が優れていた。室内は黒色の木目細かい幕で仕切りがなされていて、通路から奥の工芸品が薄っすらと見える。茶碗が闇に浮かぶようだ。この黒幕は、部屋の内側からその奥の部屋、そして外の景色をよく見通せるのだが、外から見たときには逆に直接光が幕に遮られて幕しか見えなくなり、室内の様子は伏せられた。会場は総合的に「光」のマジックとなっていた。

 

 

 ③茶室:カメラオブスクラのインスタレーション

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離れの茶室は戸板をはめられ、巨大なレンズが取り付けられ、カメラオブスクラになっていた。チャシツオブスクラだ! 私は叫んだ。意味はない。

ちなみに「オブスクラ」とは「of スクラ」ではなく「Obscura」=暗箱のことだ。しってるよね(よく忘れます)。

 

COS(略した、)は美術史でもおなじみで、みんな大好きフェルメールも活用。へえそうなんすか、でもつまりそれって写真みたいなもんでしょ、と思っていたら、あなたそんな生易しいもんじゃないのよ。やばいぞ。

これは写真には写らないし、動画でも感動薄いので、ぜひ肉眼で体験してください。

 

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( ´ - ` ) おわかりいただけたであろうか。

 

 

( ´ - ` ) わからんわな。

 

中学の理科で習った通り、レンズに入った光(だいたい上中下の3本線で書かされるアレ)は屈折して曲がり、奥に「焦点」ができて、倒立像が結ばれるという、まさにあの図の通りのことが起きています。

しかし生々しさについては塾でも習ってない。これは「生きている写真」と呼ぶべき像だ。

動画映像とは質感が全く違って、「光」そのものを見ている。丁寧に撮り、焼き上げた写真に近い。のだが、木の葉の一つ一つ、通行人、池の波紋、すべてがリアルタイムで動いている。「写真」が棄却した/凍結・硬化させたはずの「時間」が宿っている。この体験は地味に衝撃だ。この柔らかな光の動きに比べれば、動画映像はどこまでも硬いモニターの光の粒粒に過ぎない。

 

これがレンズで曲げた「光」だけで生まれた映像(?)だということが、全く信じられなかった。なぜレンズを挟むだけで、こんな映像が生まれるのか。確かに、眼で直接見ている全ての光景も、時間があり――動きや変化があり、ぬるぬると流れてゆくから、不思議なものでもないはずだが、理屈では納得ができなかった。 線なのか?波なのか?

 

( ´ - ` ) COS(また略した)、1回目に見たときは特にそこまで感慨はなかったのだが、2回目に見たとき「やばい、めちゃくちゃ鮮度のいい刺身のように美味しい、おいしいです」と謎の衝撃を受けた。その時の体調とか考えていることで左右されるのかもしれない。

 

 

【No.⑦】Pierre=Elie de Pibrac(ピエール=エリィ・ド・ピブラック)『In Situ』@京都府庁旧本館・正庁

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京都府庁では2作品が展示。場所は地下鉄の丸太町駅近く、京都御苑の西隣にあり、他の会場から少し離れている。 

 

 

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タイトル『In Situ』ラテン語でイン・サイチュ、「(本来の)その場所で」という意味があり、各種の科学分野の論文でよく使われるようだ。

 

本展示は東京の「シャネル・ネクサス・ホール」で今年3月に展開された後、ここ京都にやってきた。撮影の舞台はパリ・オペラ座で、3つのシリーズ『Confidences』(信頼:モノクロで舞台裏やリハーサルの様子を捉えたドキュメンタリー的な作品群)、『Analogia』(アナロジー・類推:ダンサー11名との共同によるダイナミックな舞台演出の作品)、『Catharsis』(ダンサーの動きのブレを抽象的に表現)から構成される。

 

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入ってすぐの通路は、オーソドックスに通路両脇の壁に解説と作品が掲げられているが、中に進むと壁面が折り重なって迷路のようにリズミカルに立っている。

ここでは『Confidences』『Analogia』の2パートが織り交ぜられて展開される。現実の舞台と、重厚で壮大なフィクションの舞台とが交錯する。

 

展示デザイナーによると『作品の内容がバレエのステージとバックステージを追ったものですので、表と裏を意識した構成で展開します。』とのこと。

壁の色と折り目によって空間が複雑に見え、自分がどの壁面の作品を見たのか、一瞬分からなくなるということを繰り返した。点数、画面内の要素ともに思った以上のボリュームがあり、作品をしっかり見ていくには結構時間が必要かもしれない。

 

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『Confidences』シリーズはバレエダンサーの身体に焦点が当てられている。長い歴史と伝統の中で育まれてきた「バレエ」という舞台に投じられた、身体の鍛錬、躍動が写されている。

ダンサーは影であったり、横顔・後ろ姿だったり、真上から撮られていたりして、個人の顔を問うていない。歴史の重みと険しさの中に、強靭な身体がある。ダンサーの身体ひとつひとつが、「バレエ」という生きた舞台の構成要素であることが伝わる。個々人らが個を超えて筋肉として動員されてゆく現場である。

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『Analogia』は演出、配置の美だ。オペラ座ガルニエ宮の様々な場所でダンサーらは、その荘厳で流麗な建築美に負けない身体を以て、計算された位置に立ち、舞う。立つこと自体が表現となる次元の身体だ。歴史的建築物に負けずに渡り合える身体とは何だろうか。まさに歴史との対峙の中でコードを獲得し、血肉化したものだ。 

 

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奥にゆくと暗く、真っ黒の壁の小部屋があり、真夜中に動物を写し撮ったような写真が並ぶ。3番目の『Catharsis』シリーズだ。舞の躍動そのものに注目して撮られているが、卓越した動きのためか、動作に秘められた演技の意味性のためか、人間離れした存在に見える。

 

西欧を貫く「歴史」の強さ、太さの一端を見せてくれた展示だった。

 

 

【No.⑧-a】Omar Victor Diop(オマー・ヴィクター・ディオプ)『Diaspora』@京都府庁旧本館・旧議場

同会場では逆に、ヨーロッパによって歴史的に支配・搾取されてきたアフリカの側からの表現も展開される。セネガル出身の作者・ディオプは自分自身を用いて変装し、15~19世紀にヨーロッパで活躍し歴史に名を残したアフリカ出身者たちの肖像を再編集する。 

 

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すさまじくバッチリと衣装、ポーズが極まっており、肖像写真のフォーマットにこれ以上ないほど適合している。作者はファッション写真や広告写真などを幅広く手掛ける一方で、モデルとしてもパリコレクションのランウェイを歩いているというから、ポートレイト被写体としての文体に完璧に適合しているのも頷ける。

 

旧議場の前方に、政治家の肖像のように作品9点が並び、手前側の左右の角に小さな作品が2点、計11点が展示されている。いずれもヨーロッパの歴史に名を残した人物で、神学者、工房画家、王室使用人などだ。しかしキャリアの多くは、捕らえられて奴隷として送り込まれたことに端を発している。

タイトルの「diaspora」ディアスポラ) は、家族などの離散や、故郷パレスチナ以外の地へ離散させられたユダヤ人を意味する。歴史上の人物に変身しながら、サッカー選手としての装備も同時に装着しているのは、単なる過去の黒い歴史=被害者としての指摘ではなく、現代におけるアフリカ人の欧州リーグでの活躍、そしてディオプ自身の西欧での活躍という、前向きなニュアンスも重ねている。

 

歴史上の被害者・加害者という訴えに陥らず、作者個人の居場所、何者かという問いを軸としながら展開させていること、ビジュアルの様式美、デザイン性の高さが伴っていることから、当事者でない私もまず「作品を観たい」という気持ちを動かされる。その戦略は学ぶべきものがあると感じた。

 

ちなみに会場となる旧議場は、建築・空間としても非常に見ごたえがある。「議会」のイメージそのままの半円形の議席が美しい。

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【No.⑧-b】Omar Victor Diop(オマー・ヴィクター・ディオプ)『MASU MASU MASUGATA』@出町桝形商店街、DELTA

同じくディオプの作品、こちらは「出町桝形商店街」、京阪出町柳駅から出町橋を渡って河原町通りを横断した先にあるが、商店街の店主らと商品などが主役となった作品群だ。アーケードの天井から取り付けられているので、作品というよりもはや商店街の一部となっている。  

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被写体の素人が参加したとは思えない完成度だ。

被写体となることを辞退した店主の中には、本作の仕上がりを見て「やっぱり撮ってもらえばよかった」と漏らした人もいたらしい。通常のポートレイトではなく、実にデザイン性が高いコラージュである。特に、京都の商店街を舞台とした人物写真で、ブルーとイエローの下地でまとめあげるセンスはなかなか思いつかないと感じたが、この配色センスはアフリカ出身ならではのものがあるのだろうか。

 

どの写真もフレンドリーで活気に満ちた表情のため、会期終了後もこのまま安置しておいてほしいぐらいだ。

 

また、本作は会期開始と同時にオープンした、KYOTOGRAPHIE・パーマネントスペース「DELTA」1Fでも展示されている。

 

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「DELTA」1Fはカフェ、物販、展示スペースとなっている。KYOTOGRAPHIE2020関連のパンフレットや写真集の販売が行われている。会期終了後もまた様々な用途に使われるだろう。2Fはレジデンスホテルとなる。

 

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独特の色彩の家具は、セネガルのデザイナー、オスマン・ンバイが古い廃材を再利用して組み上げたものだ。廃材とは思わなかった。色彩と形状の組み合わせのセンスに脱帽です。

 

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ディオプのインタビュー動画は、とにかくディオプのお洒落センスの高さ、何を着せてもめちゃくちゃ似合うことがよく分かる。おいパックマンずるいぞ。パックマンはずるい。 

 


オマー・ヴィクター・ディオプ / Omar Victor Diop / KYOTOGRAPHIE 2020 / full version

 

彼の作品がヨーロッパで受け入れられ、訴求力を持つのも頷ける。どんなフォームも体得し、自分のものとして受け入れ、その上で自身の独自のメッセージを発信する力を有しているのだ。

服にパックマンがでかでかと載っていようが、紋付羽織袴で商店街を歩こうが、珍妙な感じが一切しない。迫力と気高さが引き立つ。これはずるい。パックマンすら着こなすぐらいの人物であるから、逆に言えばその超ハイスペックさを以て、西欧の評価のコードに真正面から乗ることができた。ゆえに作品が評価され、こうして日本に堂々と紹介されている・・・ この地球、島国にまで存在が伝わってくるためには、まずは西欧での評価が必要ということなのか? パックマン、教えてくれ。

 

 

 

( ´ - ` ) つづく。