nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【映画】R4.6/3公開_河瀨直美監督「東京2020オリンピック SIDE:A」

「750日 3000時間の「事実」と「真実」。」硬質なコピー、大会ロゴと映画タイトルのみという叙情性や感動を排したシンプルなポスター。公式サイトも情報は最小限で、パンフレット等もない(会場には売っていなかったが、上映館で販売とのこと。まじすか(><))東京五輪の記録映画ということだけが分かる。

「SIDE:A」と「SIDE:B」の2部構成で異なる視点からの記録が行われたうち、アスリート側の記録を物語るのが本作「SIDE:A」だ。

 

 

tokyo2020-officialfilm.jp

 

120分の記録映画を2本立て(SIDE:AとBで会期は別)というめまいがしそうな尺に加えて、東京2020オリンピック」という地雷臭しかしないテーマ、しかも監督を務めるのが権力性・暴力性を巡る話題の絶えない河瀨直美と、これはさすがにスルーの一択しかないのではと思っていたが、観に行った人がぽつぽつとTwitter「河瀨監督を巡るスキャンダルとは切り離して鑑賞できる作品」との感想を投稿していたので、これは見ておくべきと直感で判断した。

 

結果、非常に良かった。(※感想には個人差があります)

あれだけ国民に多大な自粛・負担を強い、疑問を抱かせながら強行された「東京2020オリンピック」の公式記録映画となれば、期待されるのは権力性・暴力性に対する批判であり、アスリート・主催者側の礼賛などではないだろう、との意識が前提にありながらも、それでも記録映画としては良かったので、以下、感想をメモしておく。

 

 

1.「SIDE:A」内容・構成

この映画は750日に亘るもので、開催予定1年前の2019年から7月から撮影され、2020年3月24日に翌年夏への延期が決定されたことで、まる2年間分の記録となった。

今回公開された「SIDE:A」五輪を巡るアスリートらの実像に迫っている。対して6/24から公開予定の「SIDE:B」では、非アスリート側、大会運営者や一般市民、ボランティア、医療従事者らが映し出されるという。

 

本作では、凄まじいテンポの良さ・スピード感と、多視点を盛り込み、「東京五輪」というあまりに大きなテーマ・問題を切り刻んで「アスリート」個々人の「人間味」へと落とし込んでいった。その技術と腕力、センスに驚嘆した。次々に視点とシーンを切り替えて「アスリート」に接続し、その選手らも多彩な属性、事情、側面があることをまた多視点で照らし出し続ける。

特に、冒頭から「アスリート」というテーマへ切り込んで辿り着くまでが見事だった。新型コロナ禍と「東京五輪という、あまりに大きすぎる、何処をどう切り込んでも何でも語れる壮大なテーマ、無数の膨大な素材にざくざくと包丁を入れて手際よく盛りつけていくところが。自身の録った映像に対して極めて冷徹に対峙しているように感じる。五輪や国家、監督自身にさえ。

 

冒頭、五輪開幕までのイントロダクションは忘れていた記憶を刺激した。

関係者を乗せた飛行機が到着し、森会長が迎える。新型コロナ禍で人通りの絶えた世界中の都市部を次々に映し出す。ブルーインパルスが空に五輪を描く。足す巣の花火が上がる。デモ隊がプラカードを掲げ太鼓を鳴らし続ける。警官隊がそれを制する。公道は歓喜で興奮する一般人、太鼓とシュプレヒコールで高揚するデモ隊、警官の群れの姿と声で混然とする。片や、新型コロナ患者に対応する医療現場が挿入される。個室対応の中等症。2021年7月23日・五輪開幕式。バッハIOC会長スピーチ、続いて天皇陛下の開幕宣言。最終聖火ランナー大坂なおみの点火。

当時の象徴的かつ重要な場面が次々に現れ、あっという間に流れていった。この時点で記憶の発火、引き出しが猛烈に催され、映画に引き込まれていた。生活には不要として忘却されていた記憶らは無意識下に蓄積していたらしく、それが活性化させられた。

 

数々の苦難をごり押しした五輪を批判するでもなく、数々の苦難を乗り越えた五輪スゴイと礼賛するでもなく、何が悪いか・正しいかの価値判断を脇に置いて、各場面が等価にスライスされ織り込まれている。

映画のその後の大部分は、アスリートやコーチらの活躍と、個々人が五輪に懸けた思い、その身に背負った事情、生活・人生などを多視点から、スピーディーに切り替えつつ展開していく。これまで「東京五輪」というイベントの枠組みと試合の勝ち負けでしか見てこなかった、アスリートや関係者たちの内実がよく伝わった。

 

そしてそれらのシーンは、東京の街の俯瞰のカット、桜の花や川・海・木々や風、光といった自然のカット、未来を象徴する無垢な乳幼児や子供らのカットで繋ぎ合わされている。言わば日本・東京の命のオーラで貫かせて、スライスしたカットを繋ぎ合わせている。

 

 

2.アスリートの人間味、生き方、モザイク様の事情

ざっとメモを数えたところ、18のアスリートや団体が特集されていた(正確ではないおそれがあります)

 

基本は1人ずつ、試合の前後の取材と試合中の姿で構成されるが、各シーンで主役がきめ細かく移り変わり、選手個人にフォーカスを当てながら、やはりここでもカット、スライスと構成の速さは見事で、脇の仲間や関係者、家族、競技の躍動感それ自体などへ視点が切り替えられながら進行する。

 

通常、一般人が五輪出場選手を見る眼は、ほぼ一方的に・一義的に固定されている。テレビやニュース記事を介して、勝敗を競う選手・国家の代表者・天才・超人・・・などとして認知する。本作はその一方通行の関係性を多視点によりスライスし、ほぐしながら、一般人、家庭人といった素朴な側面と、人類頂上決戦で首位を争う超人の側面などとを次々に切り替えて映し出していく。観客からのテレビ的一方向視点は回り込まれ分界される。

 

代表的な登場人物らを挙げる。

シリアのハメド・マッソー(トライアスロン、「難民選手団(EOR、Refugee Olympic Team」のアラア・マッソ(競泳)、モンゴルから出場した元・シリア人のイード・モラエイ(柔道)らは、一個人としては国家の動向、政情に振り回される存在である。本作には登場しないが、身の危険を感じて亡命したベラルーシのクリスティナ・ティマノフスカヤは象徴的だった。日本にいると「国家は選手、国民を大切に守ってくれるもの」と思いがちだが、国によっては個々人で生き延びなければならない。

 

アメリカのグウェン・ベリー(砲丸投げは、選手であり活動家でもある。黒人男性が警官に殺されるような国家、壊れた社会を容認せず、変化を求めて声を上げ続けている。陸上大会で国歌演奏中に国旗に背を向けたり、選手紹介時に拳を突き上げて話題になった。作中でもSNSに書きこまれた非難のコメントを読み上げながら「別に怖くない、単なるSNSだから」と平然と言い放った。大坂なおみもこうした人物らに影響されながら、同じようには生きられなかったのだろうなと想像した。

 

日本人もしばしば登場する。個人戦団体戦の違いはあれど、柔道と女子バスケでは、チームとして戦いに挑んでいる姿が。柔道では、金メダルを獲得した大野荘平に照準を合わせつつ、データ分析を旨とした取り組みの様子が、女子バスケではトム・ホーバス監督を特集し、チームを指導し鼓舞する様子が特集された。空手では、喜友名諒の演武と、空手の源流である沖縄の地元民の声とが接続される。

 

本作で最もクローズアップされたのは、「母親」の選択肢を選ぶことの重さと重要さ、母親の役割を果たすアスリートの姿についてだろう。

元・女子バスケの大崎佑圭「母親」を選び、引退した。五輪の開催延期と第2子の出産・子育ての両立、開催期間中の新型コロナ感染対策規定(選手とその家族は一緒にはいられず、子どもは預けておかなくてはいけない)などが、引退の判断に至らせた。映画前半には日本女子バスケはトム・ホーバス監督の立場から映され、後半にはチームの奮戦の様子を大崎の立場から:準決勝戦は大崎の自宅から、決勝戦は大崎が会場で観戦する姿から映し出された。

 

対してカナダのキム・ゴーシェ(女子バスケ)も同じく育児中だが、「母親」と選手の両立を成し遂げた。

今回の五輪では新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、可能な限り参加人数を抑制する方針がとられ、海外から来日する選手は子供も含めて家族の同伴が認められないことになっていた。しかしゴーシェら育児中の海外アスリートらが声を上げたことで、IOCは母乳育児中のアスリートが子連れで参加することを認める決定をした。これには、カナダ代表チームやカナダオリンピック委員会からの東京2020組織委員会への働きかけなど様々な動きがあった。

終盤で、大崎とゴーシェが会話するシーンが印象的だった。バスケが全てではない、母親としての喜びも選びたい、ルールと闘うことを自分の哲学だと語るゴーシェと、ルールに従うことが自分の普通だったと語る大崎。同じ分野の「アスリート」でも置かれている状況や考え方、生き方の多彩さが浮かび上がった。

 

また、「母親」とアスリートの両立のために「父親」が果たす働きも印象に残った。

授乳の必要な子供と世話係の家族の入国は認められたが、選手村居住区には選手以外が滞在できないため、子供はアスリート=母親本人から切り離され、近くのホテルに泊まっての生活となる。

先述のキム・ゴーシェの回では育児を担う夫の様子がフォーカスされた。哺乳瓶を洗ったり、PCR検査のための唾液を採取したり、嫌がって泣かれたりしながら、タクシーで母親のもとへ向かう。

アメリカのアリフィン・トゥリアムク(マラソンも、本人よりも競技中に夫が子供をあやしながらモニターで観戦する様子に尺が割かれていた。子供に顔をわしわし握られながら、競技の様子を見守り、脱落した他の選手の心配をする夫の姿は、「アスリートもただの人間だ」との言葉と強くシンクロするものがあった。

 

ゴーシェとトゥリアムクの回では、家族が従前のジェンダー観・男女の役割に囚われず、それぞれの個人・家庭にとって必要な役割を分担して家業や育児を行っている(しかも、当たり前に)姿が淡々と映し出され、コロナ禍の制約の中で鮮やかに見えた。

 

 

3.多視点、切り替えの速さと、それらを結ぶ「生命力」

本作は五輪礼賛、日本国礼賛になるに違いないと思っていた。が、前項の通り、当時は追いきれなかったアスリート各個人の生活や声を、想像をはるかに超えて高密度に編み込んでいた。

 

尤も、監督のそうした属性ゆえに、どこまで警戒してもし足りないので、本作の手法と内容には一定の批判もある。

www.excite.co.jp

 

だが私は、高速で「東京五輪」をスライスして「個人」という重要なエッセンスを抽出し、その多彩で複雑な側面を「多数の角度」から次々に照らし出した手法と文法の見事さは評価すべきだと思った。アスリートらの生の声と表情こそ、東京五輪開催前~開催中には最も度外視されていたものだったからだ。当時は国民の命か五輪かの二択が念頭にあり、誰が特権扱いされているのかをアスリートも含めて注視していた(アスリート側も五輪開催に反対を唱えよ!など)気がする。その時点ではある面では正しかったかもしれない。だが現時点ではそうではない。

 

本作はとにかくシーンとカメラワーク・視点の切り替えが速く、長時間の割に飽きないだけでなく、作品自体も特定の世界観や国家感などを押し付けたり耽溺しない。それが各種の懸念を潜り抜けて、本作を意義のある作品へと押し上げていた。

特に多視点の確保は強力で、選手個人の試合中のハイライトと並んで、パートナーやコーチ、入国時の様子、入国前の自宅での様子、試合終了後の歓喜や放心の様子、それらが細かく、誰の目から見たカットなのかを揺れながら展開される。通常のインタビュー映像なりドキュメンタリーなら語りの主格と映像の視座は固定される。本作ではそれが次々に微細に変化する。まるで風に揺らぐ木の葉と、それを透過する太陽の光のように映像の視座が揺らめいているのだ。

 

実は本作の核にして最大の作家性とは、光の揺らめきなのではないだろうか。

第1項:全体の構成についてのくだりでも触れたが、冒頭から各種の場面転換、アスリート紹介の切り替え、そしてエンディングにかけて、東京の自然:風や木々の揺らめき、川・海の水面や海中からの光のうねりと揺らめきが何度も何度も挿入される。総じてそれは「光」、生命のエネルギーだ。更に、幼い子供らの無垢な姿が接続される。

本作が――河瀨監督が真に見ていたコアは、光・生命エネルギーの揺らめきではないだろうか。アスリートらが自分らしい生活を営んだり、競技で爆発的に身体を駆動させるのは、生命力の分岐した「形」とも言える。それを原初の光や乳幼児のイメージで繋ぎ合わせ、全体を「五輪」離れしたテーマの映像作品へと昇華させたのではないか。

国家や五輪、アスリートの「崇高さ」を突き抜けた先のものに真テーマの核があったのだと考えると、私がやたら本作に引き込まれた理由に説明がつく。神社で、木漏れ日や風の揺らめき、鳩や蝉の声の残響、全てが響き合って混ざり合う中に空間が現れる、そのような未分化の響きの感覚に、本作の文体は似ているような気がした。形あるものを離れ、見過ごされているものに眼を向ける創作姿勢は、現代の優れた写真家とも共通する。

残念ながら他の河瀨作品を観ていない(なんということだ)ので相対化できないのだが、ひとまずの感想として書き残しておく。

 

 

4.河瀨監督について語ることの難しさと、それでもなお

東京2020オリンピックを礼賛、肯定的に語るわけにはいかないのと同じように、河瀨直美という監督を評価することは今現在とても難しい。ましてや私は映画(界)を知らないので、作家性より昨今の告発スキャンダルが判断基準になってしまう。

 

本作の封切り後の話題は専ら、客入りが芳しくない(というかガラガラ)に集中していて、ネタにすらされていた。時間が経つにつれて次第に好意的な評価の投稿が見られるようになった。

 

まず「東京2020オリンピック」という催し自体がキツい催しだったので、徹底的に批判するならともかく、記録映画なんて今更・・・というのが正直なところだろう。なぜ五輪を今の日本でやるのか、本質的な国民感情のコンセンサスがないまま突き進み、新国立競技場のザハ・ハディド案で揉めたあたりで既に、誰にも信念や哲学はない気がしていた。誰が経費をどう負担するのか、アスリートと観客にかかる真夏の身体的負担をどうするのか、ボランティアという名目で無償労働させる気まんまんなのはどうなのか、等々、権力側の思惑と動きは、平成末期~令和の世にはキツいものがあった。そこに新型コロナ禍である。政府与党、東京都知事、五輪組織委、電通、それらを食う迫力のIOCの面々などの繰り出す発言や決定は、自粛要請と感染の恐怖に疲れていた生活者にとってはキツいだけだった。

 

そこに加えて、続けて報じられた河瀨監督のスキャンダルである。河瀨監督自身の政権との距離感と親和性の高さも何となく気にはなっていたが、看過できないことが立て続けに報じられ話題となっていた。

NHK・BS1スペシャ「河瀨直美が見つめた東京五輪(2021.12/26放送)では、「金を貰って五輪反対デモに参加した」と事実と異なる字幕が付され、体制に寄り添う恣意的な編集が問題になった。

更に2022年4月27日「文春オンライン」では、2019年5月・映画「朝が来る」収録現場でカメラマンに暴行し降板していた旨が報じられ、5月25日同誌でも監督自身が代表を務める映像制作会社「組画」スタッフに暴行(拳で顔面を殴打)しスタッフが退職していたことが報じられた。

 

文春に課金したり紙で購入していないので不明だが、まだ他にあるような感じではある。これだけでも「こんなヤバい人が作る映画を、肯定的に評価なんてできない」との警戒心を抱かせるには十分だ。映画・ドキュメンタリー好きでない普通の人なら、「金を払って映画を観に行ってまで、不快な思いをしたくない」と思うだろう。本作はメジャー映画館ではなく、いっそ第七藝術劇場とかアップリンクなど、映画的体力の鍛えられた観客の来る場所で上映した方が良かったのではないか。

 

私は今回、河瀨監督の人間性や実像と作品とをあえて切り離して評価したが、現在まさに告発・問題視されている映画界・演劇界の暴力性や性犯罪被害というのは、そういう「作品よければ全て良し」の「天才無罪」みたいな風土が引き起こしてきた被害である。そこを自覚したうえでわざわざこんな文章を書いているのは、本作が当初身構えて揶揄すらしていたものと、全く違っていたためだ。そこは逆に反省として書いておく必要がある。個人blogだから書けることではある。

 

言うなれば、人間性・暴力性は置いておいて、光や生命エネルギーの揺らぎを見つめて捉える力と、その揺らめきを具体的に体感させるための編集構成術にめちゃくちゃ長けた天才であることは、認めざるを得ないと思う。

むしろそこを強烈に見せつけられたので、疑問や批判は多々あれど、じゃあ写真家・写真界が河瀨直美に匹敵するほどの仕事をしたか? 東京2020オリンピックというテーマにおいて、本作に比肩するだけの存在感を写真は示せたか? という問いから逃れられなくなったのだ。

 

無論、そんなところで戦う前提がおかしい、との批判もあろう。だがそこは問いとして残った。

 

 

あの巨大な祭典、出来事、問題に、全くと言って良いほど立ち会うことも触ることもできないまま、Twitter等で5~6年越しに文句を垂れ流していたら終わってしまった、個人的にはそんな実感しかない。アスリートらの試合には興奮したが、自分にとっては、「東京五輪2020」は、言わば空白の記憶なのだ。本作の冒頭はそれを埋め合わせるものとして改めて機能し始めている。ザハ・ハディド案で揉めたあたりから注視しておくべきことだったのだが、「東京」や「都知事」はやはり、関西からは別の国の話にしか見えない。新型コロナ禍で繋がっても、なお。

 

というわけで「SIDE:B」を楽しみにしている。

内部関係者、五輪開催のために尽力した側が映し出されるわけで、次で真に作品評価が決まると思う。もう光や生命のエネルギーの描写は使えないと思うが、どんな描写と構成になるか、楽しみである。

 

 

( ´ - ` ) 完。