nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【映画】R4.6/24公開_河瀨直美監督「東京2020オリンピック SIDE:B」

客入りが芳しくないまま2部作の前編「SIDE:A」はあっという間に上映回数を激減させて3週間で上映を終え(TOHOシネマズ梅田、6/23終了)後編「SIDE:B」が6/24(金)より始まった。

「SIDE:B」は五輪開催に向けて動いた組織委員会IOC・バッハ会長をはじめ、現場を支えた人達を捉えた映像集で、相変わらず重要な記録となっている。だがアスリートの内面や実情を語った「SIDE:A」と比べると、本作はより東京2020オリンピック」の政治的本質に関わるところでもあるため、注意点がある。

 

 

(参考)前作[SIDE:A]アスリート関係者の内情や声

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約2時間の大作で、通常のドキュメンタリーや記録映画なら寝落ちしかねないところだが、本作は「SIDE:A」と同様、各シーンを千切りスライスして尺をミニマム化し、高速で画面・状況を切り替えていく構造のため、一場面に長々と付き合わされることなく意識が巻き込まれていき、あっという間に終わっていた。

 

結論を言うと、記録的価値は高い。

だが、前作「SIDE:A」が「これまで触れる機会のなかったアスリートの内情が分かって参考になった」で済んだのに対し、取材・記録対象がより「五輪」という国際・国内政治に携わる重要人物、権力そのものへと近接しているため、前作のように鑑賞してすんなりと終わりにはできない面がある。それを書きながら整理したい。

 

以下、高速でばんばん切り替わる画面を暗い館内でメモしても取りこぼしが激しかったことに加え、本来は販売されているはずの公式ガイドブックが売店になかったため、とにかく不正確な点しかないことを了承ください。マジ勘弁して。

 

 

1.五輪開催と100年後へと向かうカウントダウン

全体の大枠としての構成は、関係者らの取材の声や会議、セレモニーのシーンを高速でつなぎ合わせながら、「東京2020オリンピック」延期を巡るシリアスな議論から開幕・閉幕へと向かう時系列的な記録となっている。

ミクロの視点で時間を逆巻き、関係者個々人の語りや記憶を挿入していくのは「SIDE:A」と同じながらも、マクロの視点では閉会式に向かって日数をカウントダウンしてゆく。その経時的な構成は「SIDE:A」と大きく異なる。

 

開幕から緊迫感のある怒涛のカット詰めで観客のテンションを上げ、集中力を引き付ける。検討会議の場面である。人の顔と字幕がアップで続く。フレームに顔の輪郭が収まっていないぐらい寄っている。本作は顔のアップと言葉のラッシュのコラージュで構成され、シリアス・緊張感とフラットネスを実現している。

 

五輪をやるのかやらないのか、延期すべきかどうするのか。社会情勢・コロナ感染状況と世論が「中止」を求める方向に傾いている中で、「予定通りの開催は不可能」なのを、いかに・どうやって「やる」のか。この「あえて」「やらねばならない」事態を巡る戦いとして「SIDE:B」は、困難と使命感とさらなる困難と戸惑いと、それでもやるという「思い」の連鎖を描いていたように感じる。

「感じる」というのは、映画の作り自体が「五輪開催は善」とはっきり主張してはいないためだ。ただ、押し付けはしないが全体としては「こんな状況だからこそ開催しなければ」という「思い」が連鎖していき、実を結び、困難に打ち勝った、そのフローを編み出している。うまく作られている。反感の抱きようがない。

 

カウンターは、閉会式の[2021.8.7]から遡り、[開幕まであと486日]から始まる。南スーダン選手団を受け入れている前橋市長が「(感染対応などで開催自体が揺れ動いているため)五輪がまだ完全に開催されるという思いには至っていない」と述べるシーンだ。そこから開催当日まで、関係者個人の物語と、開催を巡る大きな事態の動きを追って、代表的なエピソードの部分を「あと何日」と掲示していく。

 

速い。

 

とにかく「SIDE:A」と同じくスライスが速く、更に早いコラージュとなっている。

菅・前首相や経団連の御手洗会長、果てはエマニエル・トッドなど、要人らが次々に登場するが、誰が何を喋ったか全く覚えられないままミニマルに高速スライスで突き進んでいく、コラージュ作品の様相を呈している。全体を見れば「大変だけれど、五輪がんばれ」ということになる。個人の発言のニュアンスと意図は素材化され、映画を編むための糸となる。

 

これには3つの狙いがあるように感じた。観客を飽きさせないための戦略。記録として各要人ら発言者の政治性・主義主張を総相対化しフラット化させるため。そして「100年後」という超長期の歴史的視座から、今回の五輪を振り返り再評価する想定のスコープを有しているためだ。

 

そして「SIDE:A」と同様に、それらは東京の四季:桜の花や木漏れ日の自然景と、幼い子供の顔・眼差しのカット――光と無垢によって接着され進行する。接続部分のみならずラストシーンまで「SIDE:A」を完全に踏襲して、無垢な子供に未来を託す・バトンを受け継ぐ構成だったのは完全に予想外だった。さすがに今回は合わないだろうと予想した通り、あけすけなサブリミナル狙いかと思うぐらい子供の顔のカットが浮いている場面も多かった。

 

そして閉幕後、「オリンピック終わっちゃったね」の[2021.8.10]から一気に100年後の[2121.8.10]に繰り上がり、未来の子供が東京五輪のことを話題にする憧憬を示して終了する。2020年からの新型コロナ禍と旧態依然とした日本社会との「戦い」に勝利したという2年間の「記録」を、未来の世代が内包した物語としてイメージを映し出す。

これがレトロなフィルムのモヤッとした描写で、まるで前回の東京五輪を懐古するような質感で、100年後の世界や精神とは思えないのだが、ともかく「あらゆる困難に立ち向かい、乗り越えた2020年東京五輪という伝説を100年後に継承するというスコープで本作は作られている。

 

つまり本作は、現世で起きたシリアスでシビアで厄介で大変な生活・政治の1分1秒の出来事、そして多彩な背景と事情に満ちた意思と発言は、100年後の後世へと語り継ぐために一旦細かく裁断されて織り直された、まだら模様の一枚の美しい布となっている。それが成功しているかどうかの評定は、作品の主旨通り未来の人達に委ねるが、一定の「まだら」を保っている点はある程度評価したい。しかし懸念もある

 

では本作の柱となっている苦難・困難との戦いに焦点を当てながら見ていきたい。

 

 

2.3つの戦い①:コロナ・感染対策

2021年7月21日・バッハ会長歓迎会で小池都知事は「世界は2つの困難に直面しています、コロナと気候変動という・・・」と、二つの戦いを強調した。感染はその通りだ。しかし気候変動との戦い・SDGsへの取り組みは政治アピールに過ぎない。

 

本作の要諦は、戦いとの勝利の記録である。新型コロナ禍が世界を直撃する中で、感染拡大・防止と、閉塞した状況・世論、そして日本社会の旧態依然とした組織という3つの困難と戦いながら、それでも開催に漕ぎつけたという、「成功の記録」である。

 

まず第1の戦い:コロナ感染と対策を巡る戦い。これは映画全体:冒頭から開幕直前まで最大の難関として付きまとう大きなテーマであった。

映画は感染拡大を鑑みて1年の「延期」について検討し、決定するところから始まる(2020年3月24日、延期を発表)。2013年9月7日に東京に開催地が決定して以来、開催そのものが危ぶまれ、これまでの五輪の歴史で前例のない決断を下さざるを得なかったくだりは、実に緊張感がある。

だがその後も、いつどういう形で開催できるかどうか分からず、開催するとしてもどういう形で実施できるのかも分からないまま時間が経っていく中、緊張感のある検討と意思決定が続いていく様子が記録されている。実際、開幕直前の15日前・2021年7月8日、緊急事態宣言を受けて全会場での原則無観客開催が決定されたくだりは、観ていて「どうするんだこれ」と奥歯を噛みしめてしまった。

 

ここは予想以上に組織委員会、都庁などの事務方、現場調整に従事する職員が映っておらず、逆にトップやアスリートらの想いが紡がれるばかりで、残念だった。本当ならまさに『シン・ゴジラ』のように、素形と性質を変えて都心に侵攻し続ける未曽有・未知の怪物に手探りで対処すべく、要人や組織の意向を汲んだり決定事項を受けて調整に右往左往する「現場」の姿こそが地獄絵図でありリアルだったはずだ(偉い人を10名呼んで会議を催す、決まった会議日時を数時間ずらすだけでも大仕事なのは皆さんもよくご存知のはず)。

調整の苦労の一端は、8月7日・札幌女子マラソン開始時間を1時間繰り上げ、朝6時に変更するシーンによく表れていた。なんと変更は前日の晩に決定(!)し、交通誘導など急遽全てのスケジュールを交渉・調整する場面が象徴していた。これはコロナではなく暑さから選手を守るための対策だが、恐らく事あるごとに現場はこうした無理難題を現実的に対処してきたはずだ。そこが見たかった。

 

 

3.3つの戦い②:コロナで閉塞した状況と世論

2点目の戦い、コロナ感染状況に由来する閉塞感と世論。こちらも実際問題として深刻だったと察する。

 

「SIDE:A」に引き続き、アスリート側の葛藤が改めて映される。五輪が1年延期されたことで、それまで何年もかけて積み上げてきた前提や目標が崩れて見失われてしまう上に、厳しい感染対策・3密回避が求められるがゆえに試合も制限され、全く思うように五輪に向けたコンディション作りができなかった。この苦悩は深い。

 

また本作では深堀りされていないが、現実社会の動きとして、開催が近づくほどに「五輪開催反対」求める世論の圧は強まり、現場・アスリート側はそれらに対する戦いもあった。

反対の声としてはっきり収録されていたのは「うちらはライブできないのに、なぜ五輪だけ」と吐露する街の人(ライブハウス等の関係者?)と、五輪憲章があるなら中止しかない」「日本人は忍耐強いが、負担を押し付けないでほしい」と語る宮本亜門だ。だが現実はアスリートへの誹謗中傷すら起きていたことを記憶している。

体操の内村航平は五輪反対の世論に対し、アスリート側の心情を最も明確に発言していた。[五輪210日前]コロナ禍で初となる体操の全国大会に出場後、スピーチで「めちゃくちゃ楽しかった」「出来ないではなく、どうやったら・いつなら出来るか、皆さんで考えて」「考えて変えていってほしいと思う」と述べている。

 

今見ると素朴にその通りだなと思うが、健康や生死の問題が一般人の我が事として降りかかっていた1年前は、これは大変な発言だった。まるで戦争を巡る議論でもしているかのように日本中の賛成と批判の両方が選手個人にのしかかっていた。なお本作ではこうした軋轢や重圧は掘り下げていない。

 

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他の登場人物らも、自らを奮い立たせる言葉を発し続ける。登場人物が多すぎる上に発言が細切れで誰のどのコメントを発したか追いきれないが、選手村の調理担当者や、市井の人、選手にワクチン接種をする看護師、他国の人など、多くは五輪開催を応援する声である。一方で五輪会場やバッハ会長の行く先々で繰り広げられるデモ隊のプラカードやシュプレヒコールも度々登場する。

 

アスリートやコーチらの葛藤とそれを乗り越えようと努力する姿は「SIDE:A」でしっかり見てきたところだが、今作でも前半に競泳や体操、バドミントンなど多数の競技の関係者が登場する。ボリュームが多く、やや感傷的というか、選手側からの五輪肯定論を美化しかねない趣もあり、その点が前半で引っ掛かった。

しかしさすが河瀨監督というか、そこはギリギリのボリュームで見極め、バランスよく別の場面へと切り替えられるため、気にならなくなった。良くも悪くもコラージュ的なのだ。

 

代わりに真の主役として登場し、選手人らを食う勢いで誰よりも全方向にエールを送るのが2トップ:五輪組織委・森前会長とIOC・バッハ会長だ。この点は後述する。

 

 

3.戦い③旧態依然とした組織

3つ目の戦い:日本社会の旧態依然とした組織的問題との戦いとは、森前会長の「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」発言事件に象徴される。発言は女性蔑視として大きな非難を巻き起こし、五輪組織委会長の辞任にまで追い込まれた。

本作ではこの事件を正面から扱っていて、海外メディアに取り上げられ、記者会見で発言の意図に強く迫る記者とのやりとり、辞任、橋本聖子への会長交代、女性委員を12枠増やして新体制での再スタート、後に心情を語る森喜朗の姿などが収められている。

 

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森前会長については、人間味あるキャラクターを真実の一面としてドキュメントしているため、個人を責める内容にはなっていない。しかし問題を受けて対外的に(西欧先進国に説明がつくように?)、女性リーダーと女性委員を強化した体制へと刷新した点は、本作では一つの大きな危機を乗り越えた成果として映る。実際にこのことは非常に大きな成果であったと思う。

IOC委員・渡辺守成が言うように、海外から見れば日本はムラ社会であった、その実態を詳らかにし解消に向かわせた点で、森前会長の失言と辞任は五輪の開催以上の成果があったとも言える。

 

長年温存されてきた古き体制、風土が一変したのは事実だ。「なぜ森喜朗が五輪組織委の会長なのか」とそもそもの人選・体制に疑問を抱いていた人が多かった、その不満が噴出しただけの事件とも言える。

だが繰り返すように、本作では森喜朗やバッハ会長を筆頭に、人間味あるキャラクターとして映し出されている。事実、超高度なフレンドリーさと交渉能力、フットワークの軽さなどがあるからこそ、この二人は超高度な調整役とリーダー役を務めることができたのだとも察した。作中、森喜朗の会長辞任の際には丸川珠代は涙ぐみ、他の関係者も残念がっていた。「やるなら”チーム森”。それが機能していなかった。こうなることは素人の私でも想像できた」と山口香。組織内部で上司として立ってくれる分には、余人んに代え難い逸材だったのだろう。

そのためか森を非難する声は、海外ニュースの報道とTwitter投稿という「外の声」で引用されている。

 

もう1点については、切り込まず、匂わせで終わっていたのが残念だ。電通出身の総合クリエイティブ・ディレクター・佐々木宏の件だ。

こちらは、当初の野村萬斎を総括とした7名の開閉会式演出チームを解散し、代わりに佐々木宏が新たな統括としてトップを務める旨を発表(2020年12月23日発表)したシーンを記録している。

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鳴り物入りで組織された日本有数のクリエイターらは良くも悪くも個性的なチームゆえに意見がまとまらず、代わって広告界のプロである佐々木宏のチームへ刷新されたわけだが、自分は広告にプライドを持っている、広告は文化・芸術に劣っていはいないと佐々木が訴える姿を、野村萬斎が何とも言えない表情で見ているシーンが、色々と状況の難しさを物語っていた。後の展開を知っている側からすれば、この胡散臭さは最大級の匂わせ。

 

残念だったのは、その後に発覚した佐々木演出案の女性蔑視スキャンダル、振付・演出家MIKIKOが連絡のないまま役割外されたり演出案が盗用された疑惑、そして2021年3月の佐々木宏辞任・・・などといった、より根深い問題がごっそり省かれていた点だ。女性・若手への蔑視と搾取、権力者の横暴の極み。これだけでも1本の映画になりそうな話なので省くのも無理はないが。

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ただでさえコロナ対応で大変な中、このように旧態依然とした年長の男性権力者による女性蔑視・搾取の問題は組織を揺るがす騒動となり、土壇場で何度も大きな変更を余儀なくされた。これは、新型コロナ禍という未曽有の困難によって露呈した、日本社会の制度的・風土的な欠陥と限界だったと思う。

本作では切り込まれていないが、現場の事務方、組織委員会、演出周りの受発注に関わった業者、電通も、様々な関係者が現場レベルでえらいことになっていたのではないかと深く察さざるを得ない。小山田圭吾の件も現場レベルでは再調整の地獄絵図だったはずだ。五輪公式映画ゆえにレイヤーの違う話だとは理解しているが、私が見たかったのは現場レベルの地獄絵図のような戦いのドキュメンタリーだった。満員の観客を見越して、3on3バスケ会場の7,100人分のキャノピー設営に奮闘するスタッフの姿は良かった。こうしたTVにも本作にも映らない現場の戦いがもっと見たかったところだ。

 

 

4.五輪が繋げるもの:人、歴史、地域の全てを

絶えず混乱とともに揺れ動きながら、それでも(だからこそ)五輪開催は必要だ、との想いを紡ぐ形で、五輪組織委・森前会長やIOCバッハ会長、組織委・橋本聖子会長などの要人をはじめ、アスリートやコーチなど多くの人物らのインタビュー取材、会議シーンが組み合わされた本作。

想いをつなぐ、感動や美談のためにそのように構成されたというよりも、恐らく「五輪」というイベントの本質的な機能がそのままそういうものなのだろう。日頃は、それぞれの国や地域、組織、同じスポーツ界であっても団体やジャンルで分断されているが、五輪はそれらを全て接続する。

それだけ大きな意義のあるイベントだということだ。従来なら素直にそう思えるのだが、今回ばかりは状況が状況だけに、感動するにも開催意義を感じるにもいちいち根拠や動機を確認する手続きが必要だ。

 

前半でバトミントンの桃田賢斗が登場し、しばらく後、東日本大震災津波の映像が挿入され、桃田の中学時代にバトミントン部の顧問だった斎藤亘が過去を懐古し、更にその教え子、東野有紗・渡辺勇大の言葉から、本番でのダブルス戦に移行、五輪最初のメダル獲得(銅)を飾るまでが紹介された。震災からの復興を声高に叫ばず、個々人の想いのバトンから五輪へ、勝利へと繋げる流れは見事だった。恥ずかしながらここは普通に感動してしまった。

 

地域や人々を最も「つなぐ」のが聖火リレーだった。

本作では2021年3月25日・福島県を出発して、7月23日までの4ヶ月間、純粋に全国各地を巡って繫いでいく、東北や各地のハイライトが紹介され、伝統文化などと接続された。最も印象的だったのは沖縄県の座間味だ。聖火リレーに沸く現地。太平洋戦争時に米軍が最初に上陸した地点でもあり、平和の祭典にふさわしい場所であると。「SIDE:A」でも沖縄には一定の尺が割かれていた。日本や平和を語る上で、河瀨監督にとって沖縄は欠かすことのできない存在なのかもしれない。

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5.全てを繋げた功労者としての2トップ:森喜朗とバッハ

本作の主役は五輪組織委・森前会長と、IOC・バッハ会長だろう。会長交代後の橋本聖子も出番は多いが、存在感と頻度は森喜朗の比ではない。二人のインタビューやセレモニー、プレス対応の映像が全編を通じて何度も挿入される。時系列が不明な箇所も多々あるが、両者に一貫しているのは「この五輪開催は困難に満ちているが、みんなへの応援になるから、やりとげることが必要だ。」「必ず成功する、だから皆さん頑張って。」と、前へ向かうよう励ますメッセージ性だ。

 

こう書くと無責任かつ権力の押し付けに見えるかもしれないが、映像で見るとニュアンスは180度違う。親身に応援してくれているボスという印象を受ける。

 

当時、テレビ、新聞、Webニュース、Twitter等を通じてこの二人の姿と発言にはどれだけ触れたか分からないが、本作ではもっと親し気な、血の通った人間として映し出される。前述のとおり、この二人の親しみやすさ、距離を自然と詰めてくる感じ(しかも心地良い雰囲気で)は特異なものがある。ナチュラルボーンの身内感がすごい。

バッハこそIOC側の代表として、五輪組織委と責任の所在を巡って主張するシーンはあれど、どの類の質疑はどっちの組織が責任を持って回答するかの分界線を引くのは当然のことだ。

 

むしろバッハの対日対話的な姿勢に驚かされる。東京都庁から退出する際にマイクでシュプレヒコールを繰り返すデモ隊に、声を荒げず対話しましょうともちかけたり(逆にデモ隊側が全く応じず、フレーズを連呼するばかりで、格の違いが浮き彫りになった)、広島の平和記念資料館を訪問した際には、犠牲となった若い世代の資料を読みながら涙を拭い、デモ隊の反対の声が鳴り響く中で平和記念公園の原爆慰霊碑に献花し黙祷を捧げていた。

これらの姿は初めて見るものばかりだった。また、河瀨監督の眼差しの力もあり、テレビの視座とは全く異なるエモーショナルを沸き上がらせ、森喜朗やバッハ会長を一人の近しい、生身の「人間」として実感できる映像となっていた。

 

諸刃の剣とでも言うべきか、「内側」からの視座、関係性を部分的にでも共有しまうことになった。

既存メディア越しに接する「森喜朗」や「バッハ会長」は、新型コロナ禍で感染の恐怖と過度の自粛生活の強制に苦しむ日本国民にとって、コロナ禍でも3密回避の例外として自由に移動でき会合できる特権階級であり、その費用や感染対策等のツケは関与する先々の地方自治体が担わされるという露骨な権力関係があり、つまり文句なしに批判の対象だった。

その一元的な視座を本作はうち崩した。個人的には多彩な面が見えて面白かったが、地球レベルで上位にノミネートする人たらしの超強者に自然とたらしこまれ、取り込まれることをも意味している。

 

 

6.文脈から切断され、脱意味と再結合により純化される危険性

「SIDE:A」よりも登場人物の幅が増し、人数も遥かに増えたため、記録的価値は高い。だが一言一言の言葉の意味、それに呼応する現実の社会状況や実際の現場の混乱までは拾いきれていない上に、高速コラージュの様相を呈している。

そのため、本作に記録されている状況の大前提・土台となる新型コロナ禍・5回目の緊急事態宣言下での混乱は、作品には映っていない。

このことは作品および「東京2020オリンピック」が語り継がれる後世に空白的な誤解をもたらしうる。

コロナ患者に対応する医療機関、看護師、コロナ重症病床から復帰した患者は登場するが、全ては「苦難を乗り越えて、開催を実現した」成功へのエール、乗り越えた成果として回収されている。

 

実際には、7月上~中旬には感染者数も収まり、マスコミも新型コロナ感染者数の話題を抑えて、しばらくは日々のTVニュースには五輪の祝祭感が溢れていた。しかし時間が経つにつれ、新しい「デルタ株」の猛威によってあっという間に感染者数が急増に転じ、保健所の業務がパンク状態、連絡・入院調整も滞った。そして中等症以上でなければ在宅待機で療養との方針転換となった上に、在宅で状態悪化しても救急搬送先が10何間経っても見つからない、保健所に連絡がつかないなど、在宅死の危険が現実のものとなっていった。

この時の「デルタ株」はそれまでとは別次元の感染力を誇り、感染者数の桁が突き抜けていた。私の身の回りでも「まさかこんな人が」という知人や写真関係者らがずいぶんこの時期に感染していたことを後に聞かされ、驚いた。

東京2020オリンピック」はそのような、国民が日常生活を送りながら、感染しても自力回復を強いられ、万が一何かあっても在宅死の可能性があったという、極めてリスキーな状況の中で催されていたのである。

 

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コロナ治療薬もなく、アセトアミノフェン系解熱剤すら軒並み売り切れている中で「自分の身は自分で守る行動力」をと言われても、やれることは、いつ来るか分からない保健所からの連絡を待ち、重症化しないよう祈ることぐらいだ。

こうした国民と現場側の、本当の文脈が本作には抜け落ちている。そして今後、本作をはじめとする「東京2020オリンピック」記録・成功伝説が伝承されていく際には、脱色され脚色され純化されたノスタルジーと化していくことは想像に難くない。別の立場・別角度からのドキュメンタリーが必要である。

 

また、女性蔑視の観点で炎上、辞任に追い込まれた五輪組織委・森前会長や、佐々木宏・前クリエイティブディレクターの諸問題、その他、あらゆる厄介な出来事についても、前述の通り、厄介さを除いた部分しか記録されていない。恐らく最も実害を被ったであろう演出家MIKKOが心境を語るシーンもあるが、それは当初の7人チーム解散時の心境に関するインタビューに過ぎず、その後に佐々木宏が起こした真のやばい問題:MIKKO外しと原案盗用については触れられていない。

 

今回の五輪が、旧態依然とした悪しきムラ社会的組織を脱皮し、女性がリーダーに立つ新しい体制へ迅速に生まれ変わったことは、大いなるチャレンジであり素晴らしい成果だった。しかし真の問題と文脈は、当時のニュース類を添えないと全く分からない構造となっている。

 

 

前項から続く話だ。

実際、森喜朗やバッハ会長のことを、映像の肉声や多角的な表情を通じて「実は良い人だ」と知ってゆくことと、五輪の精神や理念がその時点での社会情勢や国民感情、安全状況とおよそ適合していなかったこととは、全く別次元の問題である。理念と現実とのズレから生じた怒りや疑問を、高度な人たらし力と映像力によって溶かされて忘れてしまうのは、「後世がこの五輪をどう評価するか」以前に危険なことでもある。

 

無垢な子供らに輝かしさだけを受け継ぎ、100年後の未来、無垢な子供のような大人しかいない世界――やればできる!どんな苦難も乗り越えられる!感動!! の世界にしてしまうのは、惜しい。特殊過ぎる状況での五輪だっただけに、その意味を照合するもう一つのドキュメンタリー(「SIDE:A」ではない。あくまで「SIDE:B」の前提を担保するための)はやはり欲しいところだ。

 

 

7.河瀨監督が試みたもの:ある登場人物

本作には、記録映画としては特異な登場人物がいる。

 

河瀨監督自身である。

多数のインタビューや子供らのイメージカットで、質問をしたり、相手の言葉を受けて相槌を打ったりする、河瀨監督の声が入っている。これは「SIDE:A」にはなかったものだ。

6月21日のインタビュー記事で、声は意図した演出であり、わざわざアフレコで入れていると語っている。

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他の河瀨作品を観ていないので何とも言えないが、『玄牝』などでわざわざ監督が自分の声を入れるとは思えない。

 

何故、本作では河瀨監督が登場するのか?

監督自身も「東京2020オリンピック」という大いなる挑戦と成功の一部として参加したかったからか? 巷で評されるように、「自分」の存在感を訴えたくて仕方ない人物だからか?

違う。河瀨監督は、作品という崇高なもののために、自分を含めた人間を犠牲にできる人物だと察する。

 

 

もっと大きな動機があったのではないか。

例えば、責任感。

 

作中で競泳コーチ・佐々木祐一郎が、今回の五輪における選手の強化やコンディション管理について、苛立ち・憤りに近い言葉を発する場面がある。

アメリカはハワイでチームを組んでばんばん練習している中、日本ではやれ三密だ感染対策だと、選手は国外に出られず、誰もいないプールで泳ぐだけだと。

そして厳しい指摘は河瀨監督にすら向けられていたようにも感じる。「あなたの力、痔人脈なら”できる”っていう人が、動かない」「正しい反省をしないといけないのに」「絶対に動かない」「・・・と、言いたいよね、」と。

表向きはもっと上の人に言っている素振りを見せつつ、確実にその言葉は、スポーツ界の外側に居り、作品を通じて自分より遥かに幅広い層へアプローチすることのできる、メディアそのものの存在である河瀨監督に、厳しく向けられていたように思う。

 

五輪を舞台にして戦う選手を預かり、責任を持って育成する立場でありながら、コロナ感染対策上の制約や世論でがんじがらめになり、ただただ非現実的な抑圧に留め置かれていることが伝わるシーンだった。恐らく全ての監督・コーチ陣、各界協会関係者が同じ立場と思いだっただろう。

 

ここに河瀨監督は、公平・中立の透明な存在ではなく、いち「五輪関係者」として姿を晒すことを決意したのではないか。私の想像でありエビデンスはない。だが未曽有の国難を乗り越え、五輪を成功させるためには、河瀨監督自身もカメラの奥で透明化しているわけにはいかないとの、総動員の責任感を強く持ったことを、文脈上読み取らざるを得なかった。

 

一方で監督が子供に話しかけて、五輪のことを聴き、言葉を紡ぐラストシーンなどは、エモーショナルに溢れ、憧憬的すぎる感じも受けた。100年後の未来へバトンを渡す構図でありながら、数十年前の輝きを懐かしく振り返っているような映像だ。

本作は未来へ向かっているのか、それとも1964年に向かっているのか分からない、河瀨監督の「声」はそんな二重性も引き起こしていた。

 

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以上です。

 

これは誰か、こう、別の立場・視点で、本作と対にして参照できるドキュメンタリーを作ってほしい思いであります。2021年夏の医療現場や都内の状況、特に、五輪関係で従事していた、いち現場の振り回され・調整の実態が映像化されれば、本作の価値は上がり、危うさは補正されるだろう。

 

いやでもこれは面白かった。なんせ人間、生活していたら1年前のことなんて全部忘れてるもので、当時の記事などを調べなおして振り返る中でようやく「そういえば私あのとき森・バッハにめちゃくちゃキレてたな」と実感を思い出した。僅か1年前のことが幻のように遠い。負の感情は封印されやすいのかもしれない。

それゆえ、本作を語り継ぐには、大前提の土台が必要だと思う。

 

( ´ - ` ) 完。