nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.3/3~3/6 顧剣亨「I saw as I saw」(奥の工場見学)@千丸屋京湯葉本店(ARTISTS' FAIR KYOTO2022 サテライト展示)

湯葉の老舗店舗の奥にある工場で、湯葉を作るように、反物を織るようにして写真作品が展示されている。

 

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【会期】R4.3/3~3/6

 

アート作品の展示&即売会「ARTISTS' FAIR KYOTO 2022」では、主要3会場での展示以外に7カ所のサテライト展示が行われている。会期はバラバラだが、この「千丸屋京湯葉本店」はその一つだ。

湯葉の老舗店舗で、顧剣亨が写真展示!?? イメージが全く沸かなかった。都市景を複数の場所と画角の写真で複合的に現わす作家である。手焼きで伝統や歴史をじっくり現わす作家ではない。

 

顧剣亨は「KYOTOGRAPHIE 2019」の出展作《15972 sampling》で、街を歩きながら背中側から連続撮影した無数の細切れの写真で空間を埋め尽くした。

2021年3月の個展「A PART OF THERE IS HERE」で発表した《Cityscape》では、様々な国の都市で一番高い高層ビルの展望台から撮影した4方向の写真を1ピクセル単位で縦横の糸状の連なりを作り、それらを組み合わせて1枚の像を作っている。

 

都市空間や風景を時間をかけて、身体にみっちり落とし込みながら写真へ転換する、身体と風景と写真とを相互に編み込むような活動を行っている。

imaonline.jp

 

湯葉屋さんのどこに飾ってるのかもよく分からないので、とにかく現地へ。

錦市場のすぐ近くです。

 

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お店。

 

入口からすぐ、湯葉を食べる場なのだった。1人1鍋、向かい合わせの2人席が並んでいる。

湯葉鍋はこのレポをどうぞ。おひとり1,800円で鍋できます。うまそう。湯葉の味をしっかり言語化できたら優秀な書き手だと思います。湯葉は、試練だ。

kyotopi.jp

 

湯葉は置いといてその奥に進むと調理場ならぬ湯葉作り場らしきミニ工房があり、外に出て更に奥の建物が工場です。明らかに職人さんしか入れないゾーン。いいんすか。ぐんぐん進んでいいんすか。いいっぽいです。へえ。

 

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3本のラインが美しい工場。ここではもう湯葉を作ってないようで、純粋に廃です。ありがとうございます。他のアート展示でも会場に使われていたようで、今後もチェックしておいたほうがよさそう。

 

さて顧剣亨の作品ですが、証明写真のような小さな四角が横一列にただ並んでいて、像も不鮮明で、一見モノクロにすら見える。実はカラーで、黒い前景の壁に半透明な円があり、その奥に何かモゾモゾとした人型のようなものが見える。

 

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丸い窓の向こうをずっと、全身を白い作業服で覆った人物が行ったり来たりしている。

壁のステートメントを読まずに作品から入ると、湯葉工場の従業員を外側の窓越しに定点観測し続けた写真なのかと思った。工場だろうと。湯気で窓が不透明になっているのだろうと。湯葉を作るのに頭部まで覆う必要がないことを知らなかったので安直な連想に至ったわけだが、これはコロナ感染対策の防護服だったのだ。

 

 

「2年ぶりに中国へ帰国した。

 ホテルでの隔離期間中、私と他人の唯一の繋がりは、ドアの小さな覗き穴だった。」

 

2週間も缶詰にされて、誰とも関わることがなく、目にできるのは唯一の「他者」である防護服姿のスタッフ。しかもドアスコープから一方的に見るしかないという関係性。写真の小ささ、不鮮明な見にくさは不自由極まりない隔離状況をそのまま表している。また、同じような写真が等間隔でずっと横並びになっているのも、単調極まりないホテル隔離生活(もはや監禁)をダイレクトに表している。

 

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もう個々の写真に何が写っているか、どう違いがあるかは問題ではない。時折、防護服スタッフがこちら(ドアスコープ)を正面から覗き込んだりする。その時、何かコミュニケーションが成立しているように見える。だが当然ながら部屋の外から内側=作者を見ることは出来ず、コミュニケーションは成立していない。お互いの顔が分かることもない。写真はそのことをただ機械的に記録する。

 

ステートメントはこうした視線の不合、「見る」ことの一方通行と不発について、<見る/見られる>の一般的なありようへと延長して語っていた。スマホの行き渡ったような今の社会では、一方的な<見る/見られる>の乱反射の中に身を置かれているのだと。

 

ドアノブという強烈に狭い視座と、入国者・帰国者隔離=健康人としての主体(=非・コロナ患者)という前提があるので、この作品は一般論への接続が意図的になされていると思うが、この隔離状況は平時から比較すれば、はっきり言って異常である。ニューノーマルの常識にすっかり慣れてしまったから、それぐらい当然と見なすようになっていたが、改めて見せられると異常さがある。

白い防護服の係員がしばしば現れるのは、個人の健康・安全のためというより、感染を外へ広げないための保健衛生上の措置、すなわち無許可での外出や脱走を強力に防止するために、一元的に監視下に置いて自由を制限する措置に他ならない。事情はあるにしても、部屋の中の人はその間、人間性を奪われているのである。

写真にずっと写り続けている白い防護服のスタッフは、各部屋の安否確認のためか、食事等の差し入れのためか、何か具体的な必要があってそこにいるのか、あるいは純粋に見張りのために巡回しているのか。「湯葉工場の作業員」という牧歌的な連想を離れて写真を見ていると、まさに2年間まるまる続いた新型コロナ禍での当事者らが、入国者・帰国者隔離施設や宿泊療養施設で味わった孤立や孤独、閉塞、様々な実体験とダイレクトに繋がる写真であると思う。その点は抽象化させずに書いても良いと思った。

 

ドアスコープの内側にいる「私」を忘れるなら、まさに工場の中で管理される物品の管理記録のようでさえある。ボックスの内側から監視カメラで定点観測したような。

 

何といっても、本作は実録である。新型コロナのような、社会に多大な影響・損害を与える感染症が出回った際には、社会との接点、社会的視界がこう制約されるのだという。新型コロナが最も恐れられ手の打ちようもなかった2020年初頭、欧州のロックダウン下では、在宅生活を送る誰もが共通体験としてこうした限局的の視野を強いられていたことを考えると、実は普遍性が高い話題である。

 

ひいては、入国管理局の外国人収容所にて非人道的な監禁を強いられた(今も強いられている)人達、中国政府によって弾圧・収容されているウイグルチベットの人達など、極めて強い監視下に置かれ、生活そのもの、人間性を奪われることの、包囲され取り残された者の視点、「こちら」から見返すことのできなくなった人間の立たされた視座というものを体現しているようにも思われる。悲しい話だ。

 

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本展示がユニークな点として、やはりこの京湯葉の工場を体験できることにある。どう作っていたかは分からないが、京都の街の真ん中でこうした小さな工場から食文化が紡ぎ出されていったのだと思うと、なんかいいですね。急に語彙がへったやん。いやあ。

 

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役目を終えた設備、空間というのは味わいがありますね。人の手を離れ、誰のものでもなくなっていくところに、こちらの主観が入り込む・宿る余地があるからですね。いいですね。

 

クルド人とか入国管理局とか、コロナ宿泊療養施設と食費と質素すぎる食事とピンハネ、等の話題が芋づる式に思いだされ、ウエーってなってましたが、また帰りに湯葉を食べるお席を通って戻っていくと、湯葉食いたいなとか思って、記憶は上書きされるのでありました。

 

( ´ - ` ) 完。