nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】セルゲイ・ロズニツァ<群衆>ドキュメンタリー3選_「粛清裁判」「アウステルリッツ」

カンヌ国際映画祭で二冠、近作10作品すべてが世界三大映画祭に選出されている日本未公開の鬼才』との紹介に押されて観に行った。

歴史、政治を下支えし、その原動力となる存在――「群衆」に目を向けた

 

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セルゲイ・ロズニツァ。1964年生まれ、ウクライナ出身、1991年に全ロシア映画大学<VGIK>に入学。1996年から映画製作、現在までで21作のドキュメンタリー、4作の長編作品を発表。

今回の企画で初めて名を知りました。<群衆>シリーズとして『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』の3作が公開されているが、紹介文を見ただけでも前2作はスターリン、あと一つはホロコーストと、いずれも重厚な、人類史の影に向き合った作品だとわかる。期待が胸で膨らみます。胸が膨らむ? 

 

2作だけ観たのでその短観をメモ。

 

◆「粛清裁判」(2018)127分

2時間強の間、ずっと裁判。なんちゅう映画や。まあロシアだしな。(※ロシアにはよくあることです)

 

本作は過去のプロバガンダ映画(『13日』1930年)の複数のバージョン映像を発見、それらを元に編集した、ファウンド・フッテージ作品である。なのでセルゲイ監督が録ったものではなく、当時の古い映像――スターリンソ連で力を増してゆく過程、後の大粛清に繋がるイベント「産業党裁判」の映像で構成されている。

 

しかし始まって数分で、裁判にしては映像としての完成度が高すぎることが強い違和感をもたらす。ドキュメンタリーや記録にしては「美しすぎる」のだ。大がかりな舞台芸術を観ているかのように隙がなく、カメラワークにも、裁判長、検事、被告らの発言にも、満員の傍聴席にも、尋常でないテンションが漲っている。罪刑を審議するための裁判ではない、これは見せる・観るための裁判、裁判という形式の舞台だと直感的に分かる。それぐらいフレーミングの力は強い。支配的だ。

それを観るのは誰か? それこそ<群衆>である。

 

後に知ったが、この「産業党裁判」スターリンが1930年に仕組んだ完全捏造の、見せしめとしての裁判であり、完全なる演出であって、実際の公判にプラスして後日、映画の収録のために同じことを演出として行ったという。裁判と映画は、スターリン政権のための、社会主義革命のための壮大な装置だったのだ。

 


映画『粛清裁判』予告編

 

裁判といっても、その中身も妙で、普通は原告と被告とが証拠・証言を元に論を戦わせるのだが、ここには自己批判と体制への称賛しかない。被告人らがひたすらソビエト連邦に対して敬意を述べ、謝罪の念を述べ、自分たちのこれまでの活動――資本主義国との繋がりによって国政、革命を阻害し、国家転覆・クーデター(!)に加担したことを延々と詫び続け、検事が「全員銃殺が望ましい」と求刑、そして傍聴者らがワーッと大歓声を上げる。まさに儀式である。

「産業党裁判」は、技師:燃料や機械、繊維など、国家の中枢で大学の教授や研究所などで活躍した科学系エリート9名の罪を裁く、という名目ででっち上げられた事件・裁判だ。

 

当時の時代背景として超荒っぽく振り返ると、労働者階級(プロレタリアート)による1917年のロシア革命、1922年ソビエト連邦の結成=世界初の社会主義国家の誕生から、更なる革命への深化、その仮想敵として資本主義諸国があった。ソ連国内の技術エリートの存在は、矛盾を孕んだ微妙なものであった。国内の経済力・技術力を高めるのには不可欠な存在だった。19世紀半ばまでロシアは「ロシア帝国」で、他の欧米諸国が産業革命を踏まえて段階的に資本家と市民が力をつけていった(貧富や教養の差は激しかったにせよ)のに対し、ロシアでは多くの国民が農奴の状態で識字率も低かった。しかし高給取りで、外国とも通じている技術エリートの存在は、共産党員や労働者にとっては疎ましい存在でもあった。スターリンは更なる革命の断行、社会主義の実現に向けてこの「産業党裁判」を設定し、技術エリートらは分かりやすく象徴的な仮想敵として裁かれた。

 

民衆は大きな数の密集した塊、力を湛えた「群衆」として描かれる。「民衆」は社会階層の概念だが「群衆」は実際の集合体であり、数が物理的な力を帯びたものだ。それが「革命」や「ソビエト連邦」なるものを成立させ、起動させていた原動力であることを本作を観ると思い知る。

本作は13日間にわたって行われた裁判をテンポよくカットアップしながら編集しているが、ある日の裁判が閉廷すると、次の裁判の合間に、暗闇を埋め尽くして横断幕を広げてデモ行進する群衆の映像が挿入される。ボリシェヴィキ万歳」「ウラー!」「破壊分子に死を!」「ウラー!」と何度も繰り返される。異様に端的で、暴力的な歓声、革命の喜び。

そう、スターリンと聞けば恐怖政治と大粛清の代名詞だが、その蛮行が蔓延る前段階には、民の集合的な支持、熱意、喜びがあったのだ。構造的にはナチスと同じではないのか? 法廷内では二階席の奥までぎっちり詰まった群衆が、強すぎる照明を当てられる度に眩しそうに額に手をやるが、その顔は憎き特権階級、破壊分子が目の前で裁かれることを嬉々として待ち望む、期待に満ちている。

 

本当はもう1本の『国葬』、1953年スターリンの葬儀で、ソビエト全土の民が嘆き悲しみ続ける記録映像を観ることで、「群衆」と政権との結びつきはより強く理解されたことだったろう。残念ん。

 

 

◆「アウステルリッツ」(2016)94分

かつてホロコーストの現場となった、ベルリン郊外・ザクセンハウゼンの元・ユダヤ強制収容所が舞台だが、収容施設の内部の映像や解説はほとんどなく、カメラはそこを訪れる観光客らを淡々と観察・記録し続ける。

 

本当に淡々と観察・記録し続けている。びびりますよ。カメラが動かないのだ。

野鳥の観察ような映画です。「ダークツーリズムのオブザーベーショナル映画」と書かれるとかっこいいが、もっと直截に言うと「負の歴史施設で観光客がキャイキャイしてるのを延々記録した映像」。きゃいきゃい。

 


映画『アウステルリッツ』予告編

 

予告編はかなりサービスしている。うまく作ってあるなあ。

本作の体感はもっと掴みどころがない。時間、フレーミング、音声、ストーリー、登場人物、いずれの映画構成要素も不確かで形がないためだ。特に人物については、ただただ無数の人々が観光で移動し流れてゆくだけ。

 

ワンフレームの時間がとにかく長い。正直、寝落ちした。予告編ぐらい速く切り替わっていたら(これでも十分長いが)、普通のドキュメンタリー映画として認識できたと思う。本当に一つずつのフレームが長い。驚きの長回しで、同じフレームで5分か、7分か、体感的には10分位あったかもしれない。測ってないので不明だ。

静止した鳥の眼から見ているかのように画面は動かず、賑々しい観光客らが通りすぎてゆく姿だけが流れ続ける。「映画」というより、芸術祭などで出品される「映像作品」の類を思い出してもらうと分かりやすい。記録と創作の狭間というか、型がない。あらすじや登場人物? ありません。それどころか画面の中心すらない。目の焦点が自然に合い続けるような画面構成がなく、べたっと一枚の平面としての像が延々と続く。そういう意味では写真にかなり近い映像だ。

 

本作に流れがあるとすれば、一応は観客らと同じ空間上の移動があること。施設の入口・門から始まって、敷地に入り、長い時間をかけながら大量虐殺の核心部となった施設へと向かう。そこまで来るとツアーガイドによる解説の声が通るようになり、この施設が歴史的に重大な闇を負っていることが明らかになる。それが終わると出口=入口の門へと戻って、終了となる。

  

映像は徹底的に具体的な解説、属性を帯びないように出来ていて、「元・収容所」は、古い廃校ぐらいにしか見えない。ゆるい恰好で脱力して歩く無数の観光客がその傾向に拍車を掛ける。観光客はゾロゾロ、ウロウロと施設内を歩き回る。目的がなく、全身が弛緩していて、主体的な意思や生命力を感じない。ツーリズムという大きなシステムの一部のように歩き、休息をとる。その脱力は、かつてここで意思を奪われた囚人たちの「生」とは極地の差異を露わにしていることだろう。それは想像でしかない。

 

本作は歴史を語らない。ツアーガイドの解説と、有象無象の観光客らのお喋り、動き回る足音、カメラやスマホのシャッターを切る音などが集合した、空気の膜のような音声だけが響いている。寂れた廃屋はガイドが歴史的経緯を語るとき、初めて語りの主体となって立ち上がってくる。建物自体は明確には写されていないに関わらずだ。逆に言えば言葉を介在しない限り、建築物があっても歴史は存在しえないのだろう。

では、観光客らが脱力しながら繰り返すシャッターは何を撮ったのだろうか。個々人の記念、思い出という、地理的・時間的な無限の穴へと落ちてゆく気がする。それは囚人らの絶たれた記憶や意識とは別の経路の穴――闇だ。

 

このあたりは色々と考察のし甲斐があるように思う。

 

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とにかく体に馴染みのないフレーミングと尺だったので、90分しかないのに体感的にかなりきつい鑑賞ではあったが、どこかのトリエンナーレなどで流しっ放しにされていたら普通に観たと思う。本当に写真のような映像だった。

 

 

( ´ - ` ) 完。