nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【映画】R4.9/27上映_足立正生 監督「REVOLUTION+1」@出町座

2022年7月8日、安倍元首相を銃撃した山上徹也容疑者をモデルとした映画を、安倍元首相の国葬のタイミングにぶち当てて全国各所で上映するという企画。

見どころは、元・日本赤軍メンバーでありパレスチナ人民解放戦線のゲリラ隊にも加わった足立正生監督が、山上徹也の所業をいかに解釈したか、それがタイトル「革命」といかに関連しているかだった。

 

 

 

端的にまとめましょう。

 

一体どういう映画なのか予想できそうで予測できなかったが、「出町座」ホームページに制作者コメントがあり、映画の概要や意図を何となく掴むことができる。

 

◆いつ何で上映を知ったか

9/24(土)晩、Twitterポチポチしていたら、どういう偶然か「山上徹也容疑者をモデルに描く映画」「緊急上映」という情報を見てしまった。関西のミニシアターをフォローしていたためかもしれない。

足立正生映画ニュース」アカウントにて、具体的な日程と会場が明記されていたので、即・予約を入れた。大阪の「ロフトプラスワン・ウェスト」は満席ぽかったので見送り、京都にしたという次第。

 

 

 

◆なんで観に行ったのか

足立正生という監督に強い関心を抱いたため。

もっと言えば、プロフィールに付されていた若松孝二の盟友」という一言に強烈に惹かれたためだ。

若松作品は少しだけ触れたことがあるが、まさに映像のテロリストというか、革命家が映画を作っているという感じだった。

 

つまり自分は、60~70年代に最前線で活動していた「革命家」が、現代の事象に何を見い出し、何を語ろうとしたのかを読みたかった。とりわけ、あのガチの若松孝二に連なる人物であれば、只者ではないはずだという期待感があった。

単に「今話題の犯罪者をモチーフにした映画」なら観に行きはしなかった。重大犯罪者の生い立ちや心理に興味がなく(めんどくさい)、それを語る思想家や表現者の行為や言説の方に惹きつけられるというのが私の動機となっている。前者について専ら取材と執筆を重ねている写真家のインベカヲリ☆氏とはかなり真逆な性質だと思う。

 

安倍氏国葬をどう思うかはまた別の機会として省略します。いやクラファンとか身内のカンパでやったらっておもった。

 

 

◆当日、会場の混乱はなかったか

ない。平和。

いつも映画館を通りがかる時より客が多かった。予約で50人の席は埋まり、当日キャンセル待ちに10名近く来る状況。さすが映画ファンはよく見ている。平日ですよこれ。みなさん仕事は? あ私も。はは。

あと、取材の記者らしき人が映画館の人(支配人?)や観客に聞き込みをしていた。京都新聞に記事が上がっていたのでそういうことだろう。

 

記者が来るのには動機がある。混乱の兆しと懸念が十分にあったのだ。

9/25(日)頃、愛国者アカウントによるアンチコメントが賑やかになっていた。ことに「鹿児島ガーデンズシネマでは上映中止となりました」「他会場も声を上げれば止められます」と煽る愛国者の投稿がバズる。

さすがにこれには「見てから批判しろ」「表現自体を封じるのは悪手、自分たちに返ってくるぞ」と総ツッコミが入る。

同時期、歌手・世良公則の「元テロリストが安倍元総理殺害 山上容疑者を映画化 国葬儀前先行上映との報道 この異常な状態を許す それが今の日本」投稿も並行してバズっており、多くの賛同を集めていた。

 

毎年のように《表現の不自由展》に行ってる身としては、反対派が変な方向で活気付いたら、場合によってはまずいことになるかもと懸念はあった。しかし組織的な動員がなかったようで、大勢がFBやTwitterで騒ぐに留まっていた。

 

しかし全く別の次元でトラブルが起きた。停電である。

上映から約20分後の12:07、急に映像が切れて館内照明が点灯。ブレーカーが戻らず電気屋を呼ぶなどして対処。映画館地下の電源系統で不具合(UPSが漏電したとか)が生じたためと判明。13時過ぎに再開。

上映中止にならなくてよかった。

観客も作品にほぼ好意的な人たちで、終了後は拍手が起こった。

 

 

◆作品の概要は

なんと本作は急ごしらえで上映された、1時間弱の先行公開版であった。作品は現在も目下制作中であることがラストの監督コメントで語られた。

 

ストーリーとしては、安倍氏演説中の発砲(実際の記録動画)から、留置所内の「川上」(山上徹也をモデルとした本作の主人公)の独白から生い立ちを振り返ってゆく。この独白では雨が降りしきり、足元まで水が溢れ、どこへも抜け出せない状況の中での叫びとなっていて、舞台演劇ばりに強調されていた。

 

「俺が殺したこの男は、どこまでも真逆だ」「あの男を殺す理由なんて幾らでもある」、言葉と声に強さがあり、冒頭の時点で早くも実物の山上徹也とは別人格の主人公であることが分かる。観ればすぐ分かるが、あくまでこれは「作品」なのだ。

 

ただ、ストーリーを構成するパーツ=家族構成と生い立ちはこれまで判明している事実をほぼ踏襲していて、父親の自殺、長男の闘病と片目失明で、「川上」の母親が統一教会に入信し、のめりこみ、お布施お布施の貧困生活を余儀なくされ、若くして人生がことごとく奪われていったことが端的に回想されてゆく。

再現映像によるドキュメンタリーパートが大半を占めると言っても良い。

 

www.yugoten.jp

 

母親が統一教会に全力で課金し続けるので大学にも行けず、人生全滅、定職にもつけず八方塞がりの人生。生命保険をかけてベンジンを飲んで自殺を図るも失敗。

だが早々に統一教会を敵と見なし、それを育み、それとともに繁栄してきた自民党、総理2期目以降の安倍晋三を真の敵として標的に掲げる。銃はごく自然に登場する。復讐の銃撃のために自作銃の試作・試射・改良を続ける。

 

母親は教団にベッタリで心が戻ることはない。病の後遺症と失明で心を病んだ長男はついに教団に包丁を持って乗り込むが、取り押さえられ、独房のような部屋に拘束衣で監禁される。それを破いて首輪を作って首つり自殺。失うものばかり増えていく。

 

作中、母親以外に3人の女性が登場する。

一人は自殺未遂後の入院中で出会った同じ「宗教二世」の少女。もう一人は隣人で、やはり同じく「革命家二世」の女性。最後は同じ貧困の境遇を味わってきたが、叔父宅で預かりの身となっていて比較的自由に見える妹。いずれの女性らもある意味で世界で最も「川上」に近い属性・存在であるとともに、幻想的なタッチとはいえ数少ない外部との接点であった。にも関わらず、「川上」の深い闇の没交渉を超えることはない。

 

そして銃撃は実行に移される。

 

「妹」がその銃撃の報道を聴いていた。兄の凶行で人生滅茶苦茶になるだろうし、発狂するんじゃないかと思いきや、事前のパートで登場したときと打って変わって毅然としていて、ここでまさかの、革命家のようなことを述べ始める。銃撃という兄の手段自体には否定的でありながらも、「自分の思いを行動に移した点は尊敬する」とし、「私は私なりにやる」と力強く独白する。そして統一教会を解体させるためには、政治家を変えるしかない。」と、完全に足立監督の思想とメッセージを代弁している。

 

そして本編終了後、足立正生監督本人のメッセージ動画が挿入され、本作が仮のものであり、完成に向けて制作中であることが告げられる。

エンドロールの終わりは真っ黒な画面に白字で国葬に反対します」のメッセージと、賛同者の名前。

 

本作は安倍元首相国葬への反対アクションとして上映されたことが明示されるラストであった。

 

 

◆キーワードは何?

「銃」と「星」と「革命」である。

 

「銃」は言うまでもない。山上徹也が製造し使用した手製銃は、かつての革命の象徴であった「銃」と結び付けられている。権力者を撃つ銃、あまりにも完璧すぎて既に寓話のような組み合わせの事件を、更に作品にしようと試みたのが本作である。その時点で相当なチャレンジだと思う。

 

事実と大きく異なるのが、銃を手にする動機である。

山上徹也は現実離れした強さで負の感情を高め、現実的な実行力を手にしたようだ(まだまだ謎が多く、動機は真の言語化をなされていない感がある)が、本作の「川上」は「星」と呼ぶ「何か」を目指す。文学的と言えば言いすぎか。しかしその実態は漠としている。

 

星」とは「革命」的な行動を催させる何かだ。

メモしきれておらず正確な記録ではないが、本作では「川上」の父親がまず「星」の因子となっている。父親は、平凡に働きながらも1970年代の革命運動に惹きつけられている。日本赤軍派らがパレスチナ解放戦線に加わり、テルアビブ国際空港で銃乱射事件を起こしたことをニュースを聴く。その後、飛び降り自殺する。(このあたり記録が飛んでいる。描写が少なかったためでもある)

 

「父さんも星になろうとしていたのか」と「川上」は述懐する。

要は、作中の父親は旧来の「革命」に心を動かされた人物であり、足立正生監督の過去の姿を映している。しかし呆気なく自死していることから、旧来の「革命」及びかつての監督は文字通り70年代で自滅し、失効していることをなぞっていると解釈できる。

ただ、「星」という言葉で思いの何かを息子=後世の現役世代は継いでいる、と監督は描いている。

 

その後、銃を鍛え、殺意を練り上げる中で、そして安倍氏銃撃後も、「川上」は「星」を語る。だが「星になりたい」と繰り返す一方で「何の星か分からないんだ」という。普通の生活を取り戻したいとも、母親を目覚めさせたいとも言わない。統一教会を打倒して同じ境遇の人たちを救いたい、ということですらない。安倍氏殺害という目標は明確なのに、それを通じてどうなりたいかは分からないのだ。

まだ現実の山上徹也が語っていない闇の部分はそのまま、作中でも言語化されておらず、「星」という詩のような表象で留め置かれているようである。あるいは政権や権力に銃を向けたいという思いは世代を超えて受け継がれている、ということを描きたかったのだろうか。

 

 

 

◆真のキーワードは?

「思想」である。「世界」とも言えよう。

 

「川上」もとい山上徹也には「思想」が全く無かった。まだ本人の口からしっかり語られたとは言い難いとはいえ、銃撃に至ったのは「人生を奪われた」ことへの怒り、恨み、やり場のない復讐心と見える。本作でもあまりに漠然と殺意と復讐心を口にしているので、「革命家二世」の隣人女に「もっと現実主義になれ」とたしなめられている。

 

一方で「川上」は自覚的に「俺がやろうとしているのはテロじゃない」と言い、もっと個人的な復讐のために銃を制作していることを吐露する。

テロではない、しかし最重要人物の銃撃・殺害によって「星」になりたいという。これは手段と目的が噛み合っていないことを無自覚にも自ら認めているようなものだ。

 

そこには決定的に「思想」がない、つまり「世界」と自分を繋ぎ止めるものがなく、また、今の世界を否定・打倒した後に来るべき「より良い世界」が存在しないことに繋がっている。

そのため本作には、統一教会に支配・搾取された生い立ちと生活しかなく、その円環を 終わらせるための銃撃しかない。それ以外の「世界」が登場しないことが最大の特徴かも知れない。外部が異常に狭いのだ。前述のとおり、他者(女性)との接点が生じても、自ら閉ざしてしまう。無間地獄のように財産と生活と人生を奪われ続ける「現状」だけが続いている。その現状を断ち切ることだけが目的化している。

 

ある意味そこはリアルなのだろう。

昔なら先輩は後輩に「マルクスを読め」と言えたかもしれない。だが「川上」もとい山上徹也は金がなくて大学にすら行けず、非正規雇用、金も学も仲間もない。本や思想はぜいたく品の極みなのだ。ただただ銃の性能だけを積み上げていく様は、経済的・精神的な貧困に晒されている私達現役世代のリアルを映している。

 

 

 

◆「REVOLUTION」、革命は果たされたのか

そんな思想なき現状のみの人物が、かつてのいかなる革命運動家よりも鮮烈に、あっさりと、権力の象徴を撃った。

これは旧世代の運動家、足立正生監督にとってどう映り、どう解釈されたのか。

 

監督のメッセージは最後に「妹」が代弁した通り、権力の否定と打倒を行動に移したという一点においては、十分に「尊敬すべき」なのだが、それは手段としては全く正解ではない。

 

つまり「革命」は果たされていない。

現に、今も統一教会は連日の報道と非難の中でも弁護士を立てて言い訳を続け、自民党ものらりくらりしており、安倍氏国葬はつつがなく執り行われ、献花の列は止むことが無く、菅氏は見事な弔辞を読み上げた。山上徹也の銃撃で何かは大きく動いた。だが現状の体制は変わっていない。それは明らかに「革命」ではない。

 

思想を持たない者に「革命」はない。銃によって権力者が倒れ、何かの堰が破られても、その次の世に来たるべきものを呼び込めないのだから、「革命」とは言えない。

作中で引き合いに出されるブルーハーツの詩のようなもので、それ自体は美しく象徴的でも、権力は終わらない。70年代までならそれでよかったのだろう。だがもう50年近くが経った。もっと別の形で、具体的なやり方が必要なのだ。

 

それはかつての闘士であった足立正生監督が何より承知していて、山上徹也に甘い幻想を寄せたり、その行為に過剰な意味づけをしているわけではない。そのようなことが本作を通じて理解できた。

 

 

◆「+1」とは何なのか。

「+1」とは、「+n」、無数の自然数と捉えたほうが良いかも知れない。旧来の「革命」=銃や爆薬に象徴される暴力的打倒の次に来るべきものとして、個々人が考え、学び、様々なやり方で権力に「No」を訴えよ、というメッセージと解することができる。

 

本作のストーリー、「川上」の閉塞感、「妹」のメッセージ、そして本作の緊急上映の意図を顧みても、選挙やデモ活動、あるいはあらゆる表現活動を通じて「NO」の声を起こすことだと解することができる。

 

山上徹也自身にとっても、あの銃撃は「革命」ではなく「真実の告発」の変形版に近いものであろう。むしろ救いのない無間地獄としての現状からの「救済」を求めた「通報」のようなものであったと解釈すれば、逆に銃撃から導き出せる山上の声とは「権力者はもっと権力を正しく使ってください、監視と規制の権能をもっと強めてください」と濫用できるものになりはしないだろうか。

そっちにいけばそれこそ思想も世界観も、銃も要らない警察社会を歓迎すべきということになってしまう。もはや銃撃という行為だけでは「革命」と呼べない以上、まさにこの映画の制作や上映といった表現行為こそを「革命+1」の旗として打ち立てることが主眼にあったと解するべきだろう。

 

 

◆「写真」はどんな役割を果たしたか

本作で「銃」と並んで「川上」を銃撃実行者に駆り立てたのが、写真である。

 

安っぽく、何もない部屋の壁に貼り出された多数の顔写真と、PCから流れる安倍氏の演説(恐らく統一教会関連のセレモニーの様子)が、「川上」の行き場のない状況に確かな感情を与え、憎悪と復讐心を形を募らせ、それらに目標を与え、具体的な行動の標的を与えた。

 

それ以外に本当に何もない男である。

全てを母=統一教会に奪われてきた男に残されたのが、写真だったのは皮肉だ。母、統一教会の教祖、岸信介、そして安倍晋三の顔写真が、何もない無力な「信者二世」を「行動者」に育て上げたと言っても過言ではない。銃は、手段に過ぎない。やり場のない現状に感情を与え、形のない感情を決意に高め、実行に高めたのは、銃弾の向かうべき先としての「的」、写真に他ならないのだ。

 

手製銃の試射の際にも、写真は標的として使用される。内面の精神性も外部の繋がりも持たない「川上」にとって、「写真」はこの上なく重要な仮想を与えたのだ。

そして決行の日、「川上」は部屋の全ての顔写真を取り払う。本物の人間を狙いに行くのだし、もう戻ってくることもないので、「写真」は、不要となる。

 

中でも安倍晋三については徹底していて、「自分にはない全てのものを持っている人間」として、幼少期から青年、そして現在の姿まで各ステージの写真を貼っている。そんな表象を憎んでもどうにもならないのだが、どうにもならないことを無理筋で押し通すために「写真」は機能しているようだ。心根の優しいボクサーが対戦相手を無理矢理憎むために、四畳一間の部屋に顔写真を貼ってぶん殴るような・・・。寺山修司めいた発想だが、このあたりの写真の使い方は、どこか古めかしく偏執的であり、カロリーの高い作業に思われ、もしかすると足立正生監督が現役時代に同志の姿として見たのかもしれない。

 

ただ、写真は表象にすぎない。写真は学も人付き合いも組織も何も与えない。そのため前述のとおり、「川上」は思想を一切持つことができなかった。銃と復讐心と標的だけがあって、それらは幸運にも警備とSPの隙によって結び付き、成果を得られた。しかし元首相が死んだだけに終わったとも言える。

 

また、実物の人間との繋がりではなく「写真」越しに一方的に高めた内的な感情に沈み込んでいく構造というのは、「川上」の逆サイドにいる母親・統一教会信者が、教祖のお写真を頼りに、崇拝とお布施を重ねていることと対比される。

 

「写真」越しに、一方で「川上」は銃と銃弾を練り上げ、もう一方で母親は現金という実弾を積み上げた。その両者は別々の「写真」を見ているから映画の中でも現実にも交わることがない。

「妹」は写真を介在させずに生きている。そのため二人ともまた違った関わり方をこの世界に有することができる、という示唆に繋がっている。

 

写真とは何なのだろうか。

 

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( ´ - ` ) 面白かったですね。粗削りで、キャリアの浅い劇団の演劇のような映画でしたが、ものの8日間ほどで撮影を終えてとにかく作ったと聞くと、恐ろしい力だと言わざるを得ません。

 

事前に言われていたとおり、山上徹也に対する神格化や美化はありませんでした。むしろ、彼の限界と冷静に認めつつ、さらには監督自身が経てきた革命運動自体の限界や反省なども織り込まれたうえで、今・何ができるかを言おうとしている点が面白かったです。

 

 

なお、本作上映前の宣伝で、同じ統一教会」と「信者」関連の作品として『belief』が紹介され、これも気になりました。

demachiza.com

 

これはガチもんですね・・・ トレイラー見ただけで胃腸が重い(><) 

 

 

( ´ - ` ) 完。