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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】新海誠「天気の子」

【映画】新海誠「天気の子」

天気の話かと思ったら、挑発的なお話でした。僕らはあのとき確かに世界を変えたんだ、と呟く主人公・帆高の言葉は、RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」の詩と相乗して、新しい世代の、政治への参加と革命、そして退出の話として感じるところがありました。 

この二人が主役です。左の男子が帆高で右の女子が陽菜です。東京(世界)を救うか否かの二択をします。以下ネタバレ多数あります。

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特に根拠もないので、一見さんがうけた印象のメモだとお考え下さい。おこられても責任はとれません。

 

 

新海作品のお約束?で異世界に離別する二人ですが、エンディングでは二人は再開します。よかったですね。今後付き合うかどうかは分かりませんが、幸せでありますように。しかし世界(東京の天気)は狂ったままになっています。海に沈んでいます。

 

雨が降り止まなくなり、水の底に大方沈んだ東京の景色。再開する二人。『陽菜さん、僕たちはまだ、大丈夫だ』という確証なき”気持ち”のスローガンを掲げて、END。『愛にできることはまだあるかい 僕にできることは まだあるかい』と繰り返されるエンドロール。その中ではっと気付かされたのは、新しい世代が、天気とともに人の心や暮らしを動かすこと=政治へ参加し、徐々に世の中が変わり、ほどなく革命は成功するも、そこから彼ら彼女らは退出し、自分達の選んだ日々を送ることにした。そして再び世界は暗雲と雨に包まれたままになる。そんな現代の様相を描いた話だったのかなという感想でした。

 

1 あらすじ(粗い)

雨の降り続く東京が舞台です。限られた範囲ながら「晴れ」を生じさせて天気を好転させるという並外れた能力を持つヒロイン・陽菜とともに、主人公・帆高は、お天気ビジネスを始め、世界を「晴れ」=「よい」方向へ導きます。

が、その力を使えば使うほど、陽菜はどんどん空の世界と同化し、普通の人間ではなくなってゆきます。最終的には消滅するらしいと作中で明かされます。古来から「晴れ女」は「人柱」として、命と引き換えに狂った天候を鎮める存在であるという伝承がリンクされます。かたや東京の天候は大災害の規模に達し、大雨により足元は水に浸かり、真夏なのに雪が降る事態に陥ります。陽菜は「人柱」として運命を受け入れ、自身の存在と引き換えに祈りを捧げ、狂った天候を安定させることに成功します。そして人の世界からは消えてしまいます。

 

しかし、陽菜の存在を失った帆高は、世界の安定よりも、自身の身の丈に合った世界=陽菜と共に生きたいという願いを選択し、空の世界から陽菜を連れ戻しに行きます。うまくいって、現世へ回帰した陽菜は天候を好転させる力を失い、また雨は降り出します。それから2年後、東京はすっかり海に沈んでいますが、二人をはじめとするその他の登場人物らは、自分たちの生活をそれぞれに生きています。

 

2 前作「君の名は。」との違い

前作「君の名は。」と比べると、本作は明らかに異質です。

現代の都市生活 × ポスト311(東日本大震災) × 古来からの伝承・信仰 という設定の掛け合わせに、10代中頃以降の青春・恋の出会いと別れを貫く文体は同じですが、受ける印象がまるで違いました。

 

前作では隕石という天災により、岐阜か長野の山奥の町が消滅しましたが、時空を超えて過去を改変することで、危難を回避しました。主人公らも再開できました。結果、誰も文句のないハッピーエンドとなりました。よかったですね。パラレル世界が無視されているので、ドラえもん「魔界大冒険」みたいな配慮はしなくて良い感じです。よかったですね。

 

今作では、世界の問題と個人の問題とが両天秤にかけられています。

陽菜の存在が喪失し、空の国に行ってしまったため、彼女を連れ戻しに行ったところ、無事に再会できました。警察に追われる身でしたが、保護観察処分も解けて、晴れて  安定はリセットされ、世界の問題が垂れ流しとなっています。めでたいのかどうかは、わかりません。どの立場で本作を観るかによります。

こうしたアン・ハッピーエンドというか、アンビバレンツ未満に狂った状況のままエンディングを観客に突き付ける形になったのは、一つには前作で寄せられた感想、批評、お叱りの言葉が非常に大きかったようです。メガヒットを叩き出し、国民的ブームとなり、一作家の表現というより公共娯楽と化したことで、従前の新海ファン層の外側から大量のお客が流れ込み、賞賛の一方ではご都合主義だとかそもそも気持ち悪いとか色々とお怒りも向けられ、監督も表現者として牙を剥いたということでしょうか。

 

そして今作では、主人公らの属性が圧倒的に不安定なものになっています。帆高は北海道の島からの家出少年16歳、陽菜は年齢詐称で都内で食いつなぐ15歳、しかも小学生の弟を連れており、両親は不在。バレれば児相コースです。彼ら彼女らにとっては、「市民の味方」の警察も、自身を脅かす存在です。物語の序盤は、東京都内のネットカフェ、ファーストフード店、ラブホテルや風俗店の並ぶ盛り場で放浪と出会いが繰り広げられます。社会人にとっては「日常的」な世界ですが、主役となる少年少女にとってはなかなかにハードな世界です。陽菜との出会いも、食いつなぐため風俗に応募し、ラブホテルに連れ込まれようとしている場面でした。そして帆高は偶然拳銃を拾ったり撃ったりします。ハードです。

こうしたシーンを描くことで、この物語は、青春や初恋に擬態しつつ、若者層の生活・ライフスタイルの苦境とサバイバルそのものを描いているように見えます。前作の滝と三葉の物語は、無意識のうちにこちら側の記憶の核、人格形成に関わるところにある、淡くて、輝かしくて、恥ずかしいぐらいに重要な初恋とか異性との邂逅の部分を相当に刺激するものでした。否定しがたい力があった。

しかし本作では、悪天候からの避難かつ弟連れとは言え、二人はラブホテルに入って一夜を明かす、陽菜もバスローブを脱いで自分の体を帆高に明かすなど、「あの頃やりたかったけど出来なかったこと」が盛りだくさんな割に、初恋や異性の話として体がキャッチしませんでした。プロットは10代半ばの初恋の話だが、読み取り結果は異なる。これはどういうことでしょうか。

 

前作と比べると、帆高と陽菜というキャラクター、及び二人が作中で行っていたことは、やはり我々生身の人間(特に10代半ば以降の)の欲求や希望や暮らしとは、実は微妙に異なるものを描いていたのではないかと思い始めました。そして、「僕らが世界を変えたんだ」という非常に直接的なメッセージが、らしくないというか、身の丈を超えた超常現象を起こしておきながら、そのことを改めて自分の手元に引き寄せるセリフを放ったことに、前作とは異なるし、私たち生活者の感覚ともまた異なる話をしているように感じました。

 

 

3 伝承SFでもなく青春アニメでもない、何か

恋愛や青春あるいは伝承とは何か異なる話、そのように感じる理由を3つ挙げます。

 

1点目は、作中における物事の因果関係や原理について一切説明がないことです。

陽菜の天候を変化させる能力、母親の代から受け継いだその力は、古来からの伝承・信仰をなぞったものだし、新海作品だから説明などなくて良いのです。が、前作がその路線で設定・描写を完全包囲しており、伝承SF(そんなジャンルあるのか知りませんが)として徹底していたため余計な説明が要らないぐらいそう読めたのに対し、本作では世界観のウェイトが、現実の都市システムと生活のサバイバルの方に割かれており、かなり伝承や神話がかなり弱体化しています。

そのため「陽菜が祈れば雨雲を割いて陽が射してくる」という現象は、神秘的な、古来の力を行使しているとは額面で捉えられず、現代社会の暮らしに関わる何事かのメタファーとしての意味を帯びてくるのでした。

設定や出来事に説明がないためメタファーとしてしか機能しないのは、冒頭に帆高が偶然拾った拳銃が最たるものです。お守りとして持ち歩いていたと言いますが、本作が都市と伝承と天気を巡る壮大なSFという話であるなら、そもそもそんな物騒なものを拾わせるという筋書き自体が蛇足な気がします。窮地を切り抜けるアイテムとしてのご都合にしては、回収の難しい代物です。その蛇足を監督はあえてしっかり描いた。理由は明かされておらず、謎が残り、メタファーとしての効果が滲んできます。

 

2点目は、都市・社会システムの描かれ方です。

本作では現代の都市のシステムがしっかりと、みっちりと描かれています。警察・刑事が最初から最後までひたすら登場し、登場人物は皆さん警察から逃走し、抗い、捕まります。また、天候が狂うにつれてインフラが機能を停止してゆく描写は見事です。交通系インフラが一気に運休へ表示を切り替えるシーンは、昨今の異常気象・災害と密にリンクしており、興奮させられます。こうした都市の活写(=資本主義社会のドキュメント)は、宮崎駿には出来ないことの最たるものでしょう。

しかし、都市・社会システムのティテールをリアリティを以って描いているがゆえに、リアルでない描写が際立ちます。警察の取調室から帆高が走って脱出する、追跡を躱して逃げ続ける、代々木会館の屋上の社を目指して、運休中のJRの高架線路上を駆け続ける、などの活劇です。その道中、いたるところで保守作業員が多数、復旧作業に勤しんでおり、また沿線からも多数の一般人が走る帆高を目撃しています。しかし帆高は誰からも積極的な阻止を受けません。警察署から代々木会館までは無事に到着できました。

どうも、陽菜は「祈る」ことで悪天候を止められ、帆高は「想う」(愛する)ことで社会のシステムを一時停止させられるようです。なぜ「想い」の進行によって、社会が一時停止させられるのか。原理は謎ですが、ただのご都合とは思えない違和感とメッセージ性があります。この、「想い」で止まる現行の社会システムという舞台自体が、重要なメタファーなのでしょうか。

 

3点目は、「天気」の描かれ方です。

作中の裏の主役は、天気です。都内に垂れこめて去ることのない雨雲は、本当に去らない。そしてその前後の理由は全く説明されていません。旧来のアニメであれば、原因が示され、何かしら対策が打てるので、それを解明してその首謀者なり病巣をぶっつぶしに乗り込む、世界の裏設定を解読して避難する、などという物語になります。本作では、民も政府もお手上げです。というか政府は一切出てきません。天気だけがあります。

この世界では、皆、気象がおかしいとの認識はしているけれど、何とかしようとも言わないし、何もしません。本作の副主役は、終わらない悪天候と、それに抵抗する発想を持たない民、と言えるかもしれません。同じポスト311の東京を描いた「シン・ゴジラ」と全く異なるのが、誰もこの異常事態に何もしないことです。唯一登場する公権力・警察が、首都浸水の渦中で最も力を入れたことは、帆高・陽菜とその弟の身柄確保でした。

 

いつまでも続く悪天候の理由のなさと、こうした民の受容の在り方は、「天災」=人智を超えたものだから、超常の力でしかどうにもならない、と額面通り読んで構わないとは思います。しかしこれまで述べてきた全体的な違和感、単に超常と伝承の話ではないのではないか、都市生活や社会の話とリンクしていないか、と考えると、天候は、閉塞しきった現代の雰囲気、沈滞、先の見えなさという、社会の様相そのもののメタファーと感じられます。温度や風速、雨量といったパラメーターは、経済的な浮沈とも読み替えることができるかもしれません。

逆に、陽菜が人柱となって猛烈に晴れ渡った際に、都市の向こうの空に現れた巨大な積乱雲は、キノコ雲のような姿で、頂点の台座は光を帯びており、手の届かない巨大な帝国のような姿をしていました。光の中には、天気の国に行ってしまった陽菜がおり、帆高はそこを目指します。社に飛び込めば行けるというのも凄いんだが、まあ時空が繋がってるんでしょうね。

 

 

4 天気という「状況」、天気を動かすという「政治」

以上の3点の理由・仕組みによって、「天気の子」が語っている物語とは、「天気」=この国の総合的な「状況」の暗喩であり、天気を動かすということ=「政治」への参加と捉えることができるかもしれません。

 

陽菜と帆高は、誰にも手の出しようのない「天気」=誰も興味も持っていない閉塞した現代の状況に、極めて直接的に介入し、原理は分からないけれども「晴れ」もたらす存在として活躍します。

作中での描かれ方は凄くて、とにかく陽菜が祈れば雲を切り裂いて、まばゆい陽光が射し込みます。祈り方も、初回は苦労していましたが、その後は極めてライトです。祈れば晴れます。晴れが訪れる描写はとてもドラマチックで、依頼者のみならず、周囲の誰もが喜んでいます。観ているこちらも冷静ではおれません。光の映像美、さすがの新海マジックです。

 

陽菜の力の原理は分からないけれども、力を行使することが気味悪がられたり、権力や民と揉めるシーンは一切ありません。「X-MEN」とは違って、この世界の民は緩いです。「晴れ女」が、あくまで民意に適ったものとして描かれていることが重要です。Web+現場の「民意」を巻き込み、その願いに応じる形で「晴れ女」の力は求められ、行使されてゆきます。作中でも帆高が、「晴れる」こと自体が人々の気持ちを動かし、願いを叶えることだと気付いて語っています。

つまり「晴れ女」を求め、支持し、受け止める「民意」が草の根的に発生し、それが広がってゆくことで、天候=世界の状況を変えてゆくことが描かれています。それを意識的に推進したのが帆高です。

 

「晴れ女」を広めたのは、帆高の活躍に依るところが大です。陽菜が晴れ女としての資質を明かしたことで、食い詰めた二人(15,16才なのでまともな職にありつけない)が食べていく手段として、Webにお天気ビジネス依頼用ホームページを立ち上げます。東京は雨が降り続けているため、様々な事情から「晴れ」を求める人たちによって、徐々に依頼が舞い込みます。1回3,400円で次第に話題となり、依頼が殺到します。ただ貰っている額がまちまちなので、このビジネスは「気持ち」です。これらの企画、運営、コスチュームやWeb制作などの演出は全て帆高が行い、陽菜はその神がかり的な力を現場で行使します。

そして大掛かりな花火大会での晴れ祈願を依頼され、都内を見下ろす巨大なタワーの上から、陽菜は祈りを捧げ、神々しい太陽の光が差し込みます。打ち上がる花火の数々を縫って、平面画を保ちつつ3次元的に描いていくカメラワークが神秘的です。

 

この成功への過程は、例えばSEALDsに代表されるような、従来とは異なるところから現れた新しい世代の人たちが、311以降、福島第一原子力発電所事故以降の日本に現れたことを連想させます。彼ら彼女らが、太い”三バン”(地盤、看板、鞄)を持たずに、地の民の声として、手作りで活動を開始し、徐々にWebと現場の両輪によって・草の根で支持を得てゆき、いつしかスターダムの舞台へ導かれていった過程と重なり合うものを感じました。

 

こうしたムーブメントの特徴として、特定の立場や主義を訴えるよりも、極めてエモーショナルな「想い」の連帯と共鳴を打ち出していたことが思い出されます。

プラカードのみならず鳴り物が多く登場し、ライブが催され、様々な文化人が登場し、「政治」というよりも「表現」、「想い」の表明とその波によってこの国を変えようとしていたように記憶しています。そこでは知識や論説、主張の競争によって政治の土俵に上がろう、バッヂや椅子を獲得しようという目的よりも、想いや気持ちを伝えよう、この国を変えようという「想い」が共有されていたと思います。

知識や議論よりも、想うこと、想いに共鳴することが重要だという雰囲気がありました。帆高が陽菜奪還のために、ひたすら走り続ける姿が、それに重なります。想うこと、愛すること、愛するがゆえにただ行動すること。政治を超えた想いと行動、それが新しい時代の「政治」だという、あの当時の動きと重なるものがあったのです。本作の楽曲提供者のRADWIMPSもまた、右・左の主張というより、素朴な「想い」から楽曲「HINOMARU」を発表し、世論がワーワーしていたように記憶しています。

 

私は残念ながら311後、SEALDsが台頭していた当時のムーブメントには参加したことがなく、特にフォローもしておらず、身の回りに参加者もいなかったので、このあたりの話はザルであり、大穴です。当時の新聞、テレビ、Webから受けた印象での想像の域を出ません。しかし、作中で16歳の男子高校生に、都市のシステムを停止させながら疾走させ、「自分達が世界を変えたんだ」とわざわざ言わせることの制作上の動機は、何だったのでしょうか。この国を一時期席巻していた新しい「政治」の当事者が、当時の活動を振り返っているかのような、逆の意味で観客を置き去りにしたエモーショナルさを感じた次第であります。

 

なお、作中で重要アイテムとして登場する拳銃ですが、本作が新たな世代による「政治」への参加、「革命」を巡る物語と考えると、旧来の「革命」のモチーフではないかと思われます。昭和の学生運動あさま山荘事件の頃に掲げられた「革命」は、熱を帯びた末に非常に先鋭化し、ゲバ棒、火炎瓶、ハイジャック、身内での粛清までに至りました。それらの暴力性と、体制を突き崩す最大の希望などが重なり合う象徴が「銃」であると思います。本作では、裏社会や警察の暴力には「銃」は対抗できるが、それ以上には何も出来ることがない。旧来の主義・「革命」では効果がない、「想い」と行動でなければ現代には有効ではない、とわざわざ示したように感じた次第です。

 

本作はスピリチュアルでもセカイ系でもなく、政治的である。いや、政治退出的である。政治への参加と革命の成就を振り返りながら、終わらない「狂った」日常が続いていくこと=政治からの退出以降を描いた作品であると感じました。

 

 

 

5 監督の想い

これらの文脈から察すると、陽菜が消えてしまった現象はどうでしょうか。

彼女の行使する「晴れ女」の力が極限に達し、存在が消えてしまう現象は、彼女の存在が完全に公的なステージに移行したことを表したのだと思います。何故なら、彼女は「人柱」と言いながらも、死んだり消滅するのではなく、「天気」の世界で生きていたからです。「消えた」というのは、あくまで帆高や弟や、警察の主観にとっての現象です。一般の民の生きているステージからは居なくなっただけでしょう。

眠ったような状態で生き続けていた陽菜は、「晴れ」=安定した世界を維持するための象徴やエネルギーという、抽象的な概念のような存在になったことを表していました。

それは例えば、政治家や、超有名なアイドル、アーティストなどとして確立されて、逃れようのない「みんなのもの」になった状態と解釈できましょう。陽菜は完全な「公人」と化したのです。なんでそうなるかは、天才がどうしようもなく天才であり、世の中に出る人はいつか出てしまうのと同じで、どうしようもないからです。ただシンプルに、帆高と飯を食ったり、警察が追い回せるような存在ではなくなったということです。

 

帆高が誕生日祝いと告白を兼ねて贈った指輪が、空から落ちてくるシーンは、陽菜が帆高と対等な存在ではなくなり、完璧な雲の上の人となってしまったことを告げています。そのことの重大さに帆高は気付きます。ただこの感触は、一般人にはなかなか経験がないので、単に「好きな人がいなくなった」としか感じられないかもしれません。私にもありません。残念です。

 

 それを帆高はまた、一人の名もなき民の域に引き戻しにいきます。世界はもともと「狂っている」から「狂ったままでいい」と断言して、陽菜を連れ戻しました。監督すごいなと思いました。

その結果が、民の目線ではハッピーエンドだけれども、都市や社会のレベルでは滅亡です。陽菜の想いはどうだったのか分かりませんが、少なくとも一般民の代表者である帆高は我々のエモーションを直接的に代弁している存在であり、「晴れ」の成就(=革命の成功)を自身の「気持ち」でひっくり返すというすごいアレです。それが今の社会の現状に直結してませんかと。

 

ここには新海監督の何か深い思いや怒りなどが込められている気がします。はっきり言えば、リアル界の民の想いや願いに応えた結果がこうだぞ、「これはお前らが望んだ作品だし、お前らが望んで生み出した日本だぞ」という直截的なメッセージに感じられたわけです。

宮崎駿は民の愚かさと怠惰を毎度嘆いて怒り、庵野秀明はEVA初代で収拾のつかないバッドエンディングをぶちかまし新海誠は東京を海に沈めて民を幸せにした。いやあ、全方向的に挑発的でした。そういう意味で面白かったです。

 

晴れ=革命成就までの帆高は、新しい時代の政治というエモーションへ参入した者たちのメタファー、陽菜奪還を決意して世界の安定を棒に振った帆高は、新しい世界を捨てて、自分たち個人のエモーションの内側へと退出した私たちの民の「気持ち」のメタファーなのではないか。などとうっとりしました。初恋とか青春を擬態しつつ、挑発的だなあと思いました。

( ´ -`) 完。