写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】R2.7/1_「アメリカン・ドリーマー」「デニス・ホッパー/狂気の旅路」@九条シネ・ヌーヴォX

なぜ今、デニス・ホッパーなのか。

デニス・ホッパーって、ヤク中・アル中の問題児だっけ?」というレッテル以外は何も知らずにいい歳になってた私ですが、何かこう、油断ならん存在として映画史にチラチラ現れる存在とも感じます。引き寄せられて観に行ってしまいました。引力というやつです。

 

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九条シネ・ヌーヴォでは6月あたまから『ラストムービー』、『アメリカン・ドリーマー』、『デニス・ホッパー/狂気の旅』の3本を交代で上映していて、私が観たのは「ラストムービー」以外の2作でした。

見終わった感想として、どうもホッパーの人生としては『イージー★ライダー』(1969)で世界的に爆裂デビューしてからの2作目『ラストムービー』(1971)が非常に重要らしく(映画として非常に斬新でホッパーのやりたいことが出来たが、ハリウッド的には意味不明だったのでユニバーサルの重鎮が再編集を命じたがホッパーが従わず、そこからハリウッドに干され、ホッパーも酒と薬物に溺れるように...)、そこを起点として今回見た2作が派生しているので、一番観ないといけない脊椎的な部分が抜け落ちた感が満載です。ああー。しまった。

 

この2作品、完全な創作ではなく、ドキュメンタリー形式で「デニス・ホッパー」という人物像に迫る映画でした。見終わると余計にホッパーのことが意味不明になった。情報量が多い。

 

1.「アメリカン・ドリーマー」

ニュー・メキシコ州、詩人・D.H.ロレンスの元別荘にて『ラストムービー』の編集作業に取り組むデニス・ホッパーに、ローレンス・シラーとL.M.キットカーソンがドキュメンタリー映画を撮りたいを申し出る。という体裁の演出映画? 

なのであらすじを知らずに見ていると、ホッパーの実生活、実の思考に迫っていく、ように見えるのだが、次第にその言葉や振る舞いがどこまで演技・演出なのか判らなくなり、虚実の混在した分厚い被膜の内で、意味の混沌へと引き込まれていることに気づく。ホッパーは多分、【映画】の文体や制度を破壊したかったのだろう。

 


真実のデニス・ホッパーはどこにいる?映画『アメリカン・ドリーマー』予告編

 

冒頭から家にカメラを招き入れたらフロに浸かっているところだったり、中盤も終盤も女の子を呼んではマリファナを回し、皆トロンとしていたり、バスタブで3Pに興じたり、自分はクンニが好きだからレズビアンだと繰り返したり、ロスアラモスの住宅街で歩きながら服を脱ぎだして全裸になったり、集団と愛について、コミューンの一体感を愛する様子が映され、ずいぶん鋭角で攻めるヒッピーだなあと唸らされる。

が、ヒッピー的な甘さと言うか、自然回帰の牧歌的な友愛の人、という雰囲気は、ホッパー自身の言葉とそして眼の輝きにより完全に否定され続ける。この人はどこまでも「孤高」の「個人」であって、コミューンの中に留まるものではない。

ホッパーは随所で喋り続けていて、その言葉の含蓄というか、深みと輝きがえぐくて、明らかに普通の人物ではないし、独特の理論体系が滾々と湧いている(という効果を狙った演出と編集が効いているのかもしれない)。作家論、監督論、哲学、人生、ブラックユーモア、言葉は次々に領域を跨ぐ。どれも無視できず、「えっ、何、いま何て?」と字幕に惹き付けられてはすぐ次の台詞が来てしまう。DVDで買ってノートに書き出したいぐらいだ。

 

『ラストムービー』の撮影・編集シーンと絡ませつつ(忘れそうになるが、あくまでラストムービー製作に絡めた監督のドキュメンタリーという体裁である)、屋外で銃を撃ったり、マリファナを巻いたり、屋内で女の子を呼んでマリファナやってテレテレしたり、床に写真を並べてああだこうだ語ったり、一体何で食べて生活してるのか全く分からないが、悠々自適の文化人というか、けれど始終、何か意味ありげなことを、異様に真剣な眼差しで言っている。その声と眼の引力に、どうしても抗うことができない。いわゆるカリスマ性というやつだろうか? 映画を見ているうちに程なくして「この人は何か、真実の地下水脈に繋がっていて、真実から言葉を紡ぎ出しているのに違いない」と、無根拠に確信してしまった。これは、ホッパーの恐るべき特質だと思う。あの深い闇で光を帯びる眼で語られると、聴き入らずにはいられない。チャールズ・マンソンを引き合いに出しながら、人生と映画を結び付けて「演じる」ことを語るくだりとか、どこまでハッタリかは知る由もないが、ホッパーがあの「眼」で語ると、全てが生来的な真実に思えてくる。

 

ちなみにホッパーは、映画監督になる前にはフォトグラファーとして活動していた。『写真を始めたきっかけは、映画は高くて無理だったからだ   だから映画と同じように トリミングはしない』ということらしい。街中の人物スナップ、身の回りの友人知人ら、モデル撮影など、基本的には人物である。本作では写真1枚ずつのディテールはほとんど確認できないので何ともコメントできないが、写真集『Out of the Sixties』(1988)には、1960年代に彼が接していた著名人、クリエイターらと過ごした日々が凝縮されているらしい。見てみたいものです。

 

cinefil.tokyo

 

映画の中では写真について語られるものの、写真論めいたものは、あるようで、ない。写真はホッパーにとって単独の分野ではなく、映画という世界や映画監督としての自分の構築するために不可欠な、映画の手前・映画に近似した手法や武器の一つとして語られている感がある。

だがドキュメンタリー映画を模した創作の映画の中で語られる「映画」とは、どの映画を/映画のどこを指すものだろうか?『革命を考えるときには カメラとフィルムが必要だ』という本作で最も象徴的な一言も、映画が終わり、言葉だけが取り残された後には、どこにも指し示す先が見当たらなくて、一体何だったのかを掴みかねてしまう。

 

音韻と音域の残響だけを与えて、歌詞の意味の記憶が消えてゆく歌のように、ホッパーの言葉はあっという間に忘れてしまった。

本作には特に結論もない。この映画が言っていたことを要約せよ、と言われても、大量の星が瞬いている空を見て、どの星がどれ、などと言えないのと同じように、曖昧なままでいる。「今まで思っていたデニス・ホッパーと全然違う」ことだけは分かった。それは教祖のような謎の説得力と深みの引力を持った人物で、知らないうちに引きずり込まれてゆくばかりだ。

 

ラストは、主題歌『アメリカンドリーマー』の詩の一節(作詞:ジーン・クラーク)が響いてゆく。

アメリカンドリーマーは / 時にペテン師 時に策士 / 時に子供で 時に賢人 / 孤独な魂を抱える とんでもない偉人 / それでもやっぱり アメリカンドリーマー』

 

陳腐な言葉だが、天才と呼ばれざるを得ない人間の、孤独と宿命、連帯や愛への思慕がないまぜになった、自己の内面世界としての部屋へ招き入れてくれた作品だったのかもしれない。

 

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2.「デニス・ホッパー/狂気の旅路」

こちらはよりドキュメンタリーの性質を高めた作品で、ホッパーの死後、40年間にわたって彼を「右腕」として支えてきたサティヤ・デ・ラ・マニトウを語り部として、生前に交流のあった様々な人物を訪ね、回顧とともに当時の映画作品をオーバーラップさせてゆく。生前、ホッパーとの連絡の取り次ぎなど実務的なことは全て、このサティヤが引き受けていたという。本作中でも大量の遺品(資料等)を保管している倉庫を掘り返しながら思い出を述懐しており、一生涯ホッパー専属マネージャ-といった風情がある。

 


映画『デニス・ホッパー/狂気の旅路』予告編

アメリカン・ドリーマ』に続いて、こちらの映画も情報量がとにかく多い。映画監督、俳優らが出てきて、当時の作品の思い出を語るのだが、出演者を見るとヴィム・ヴェンダースデヴィッド・リンチエド・ルシェ、ジュリアン・シュナーベル、フランク・ゲーリーなど、超大物が並ぶ。途中で記憶がない。

ホッパーと言えば『イージー★ライダー』と『地獄の黙示録』、『ブルーベルベット』ぐらいしか知らないので、もう全然ついていけないのだが、さきの『アメリカン・ドリーマー』と同じく、「麻薬中毒で台詞が覚えられなくて監督と揉めた」的な、よくあるデニス・ホッパー談、デニス・ホッパー人物像を深い所から根こそぎ更新してゆく。

 

確かに、大麻やコカインを乱用していて薬物中毒にあったこと、アルコール依存症も併発していたことは根深い問題としてあったようで、右腕サティヤもさすがに「このままいけば、死ぬか監獄行きだ」と、更生施設に行くことを迫った。施設に入れたら入れたで、早速ホッパーが何かを叫び続けていたので施設からサティヤに呼び出しの連絡が入る。駆け付けて本人に聞いてみると、「サティヤが壁に埋まっていると思った」ので、名を呼び続けていたという。完全に妄想に侵されていたわけだ。そんな状態でよく俳優業やっていたな・・・。 

それでも第一級の著名人らによるホッパーの回顧談は、「ヤク中」「アル中」の姿を一気に突き抜けたホッパー像へと、桁違いの深みを与えていく。勿論、故人を振り返るときには、全ての証言はリスペクトに満ちたものになるのだから、当然といえば当然だが、「500年に1度現れる類の天才」などと称賛され、作中の登場シーンや何かこの世の真理めいたことを語っているカットが挿入されると、やはり桁違いの人物だったのかなと思わされたりする。私は演技や映画制作の分野の現場を一切知らないので、そこで崇拝される傑物の特色を知らないし想像もできない。できないのだが、デヴィッド・リンチが『ブルー・ベルベット』について「彼は、全く完璧にフランク(役名)だった」と称するのを聞いて、何かゾワッとした。なんだ、この感じは。

 

面白いのはこの映画の構成で、「今」―ホッパーの死後に、語り部であるサティヤと訪問先の人物らが回顧するシーンは透明感と奥行きのある、グレイの効いたモノクロで映し出され、「昔」―ホッパーが生きて動いている時の映像はカラーで映され、通常の認識とは逆転しているのだ。現実と追憶、記録と創作とが逆転したような構成である。

最後のシーンは、南米ペルーの高山帯に戻ってくる。それは『ラストムービー』撮影の舞台である。原住民に処刑されて転がる映画のシーンと、今の光景とが何度も切り替わる。締め括りでわざわざ引用されるぐらいなので、『ラストムービー』がホッパー人生上でいかに重要な作品だったのかが分かる。観逃してしまったのが悔やまれるが、次に観られれる機会は果たしてあるだろうか? 

 

そもそも『ラストムービー』自体が、映画の中で撮られる映画と、それを真似て暴走し現実化してゆく「映画」から成る二重構造の映画であり、それを引用している本作が語る「現実」或いは「映画」とは、ホッパーの「死」に立脚していなければ、またしても壮大な迷路のようなフィクションとなったかもしれない。

 


『ラストムービー』『デニス・ホッパー/狂気の旅路』予告編

 

いや、さきの81分で、デニス・ホッパーの言葉と瞳に既に惑わされているから、もうフィクションだろうがノンフィクションだろうが、この101分は、実に迷宮入りもいいところだ。タイトルに従うなら、デニス・ホッパーという傑物の狂気に分け入るということになろうが、それはすなわちデニス・ホッパーという一人の人間をここまでに高め・追い込んだ「映画」という恐るべきものの狂気について、その魔性の片鱗を物語っているのかも知れない。 

 

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( ´ -`) 完。