nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R3.3/20~5/30_ミケル・バルセロ展 @国立国際美術館

ミケル・バルセロ。初めて聞く名前だ。

ホームページ等で出回っている広報画像と、実物の体験が違いすぎた。当初は、自然のパワーと個人の感情を掛け合わせた、やや古風な絵画だと思っていた。違った。刻々と移ろう自然の動態と、変遷を経てきた美術史とが1枚の中で力強く結び付いていた。絵の一部が生き物のように立体化しているため、生で観ないとポテンシャルが掴めない。

 

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【会期】2021.3/20(土)~5/30(日)

   

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Webではこのキービジュアルが地面か海底に掘った穴に見えたんです、自然の風景を抽象化して描いているのかなあ、アリジゴクかエビかシャコが堀った穴かなあ、それなら別に観なくてもいいのでは、と結構迷っていた。

全く違った。観に行って良かった。マジで。

 

日本初の大規模個展となる本展示は、絵画を中心としてブリーチ・ペインティング、紙作品、スケッチブック、陶器、彫刻の6つの分野と、ペインティングの記録映像から構成されていた。順路はあってないようなもので絵画をメインに置きつつ自由に見て回る構成で、入口と出口は共通となっていた。 

 

 

 

◆映像から分かった「時間」と「即興」の観念

フリースタイル、スタイルの混合、時系列やジャンルに囚われない自由な縦横無尽の横断、その中にある調律の絶妙なバランス感覚。全体を見終わってその総合的な統御の力と、そこに盛り込む「自然」の力にただただ驚嘆したのだが、未知の作家に対する理解が進んだのは映像のお陰だった。

作品より先に映像から観たことで、ミケル・バルセロという作家が何に向き合っているのか、どうやって作品を作っているのかがスルッと呑み込めたのだ。会場入口前のインタビュー動画ではなく、入ってすぐ左手奥の、パフォーマンス映像のほうだ。

 

そこでは体当たり、全身総当たりで「絵」に、カンバスに向かうバルセロの姿に圧倒される。

上映されていた3本のうち1本と同じものをYouTubeで見つけた。

スペイン語が分からないのであれですが、ミケル・バルセロとジョセフ・ナジの二人が、大量の粘土の壁面に向かって、全身を駆使して行為を刻み込んでいくアクション。二人は素手で粘土の壁をグーやパーでべちべち殴り、よじ登ったり、掴んで投げたり、農工具みたいな大きなヘラで刻んだり叩いたり、思いつく限りを尽くす。

ジョセフ・ナジは美術作家であるだけでなく舞台の振付師だという。道理で、肉体的な、壁に対する一方的アクションだけでなく、粘土の仮面を被ったり、粘土壁に体をめり込ませて一体化したり、「土」との双方向に近いやりとりも多かったことに合点がいった。

しかも、館内で観た時には気付かなかったが、PC画面で離れて見ると、最後はちゃんとヒト型の骸骨が立っているような、絵画的モチーフが描かれていた。まじすか。闇雲に穴を掘ったり切りつけているだけかと…

 

もう2本は、横長の白い紙に水でライブペインティングしていく映像と、国立国会図書館フランソワ・ミッテラン館の全長200mに及ぶ160枚の窓ガラスに粘土でペイントしていく映像。どちらもやはり全身で空間と時間に挑んでいる。そう、「時間」の概念がバルセロ作品には不可欠だ。時間経過により、前者は水が乾いて像が消えてゆく、後者は粘土が固くなって筆致に影響し、日差しの差し込み方によって見え方は大きく変化する。

「即興」という観念が非常に重要だ。ジャクソン・ポロックのドリッピング技法を例に出し、『ポロック言語化よりも・話すよりも速いものを求めていた、自分は思考よりも速いものを探し求めている』と語る。そして描いたものが消滅していくことを「圧倒的な美」と称していた。

 

水で絵を描くパフォーマンスは、「KYOTOGRAPHIE 2017」のイベントでも披露されていた(展示ばかり観ててイベント類をスルーしていたので全く知らなかった…)


この黒々とした筆致ですよ。墨汁にしか見えないのだが、水です。特殊な紙を使っているらしい。そんな紙、検索でも出てこないので特注なのかな。描かれるのは洞窟絵画のような姿の人間たち。適当にローラーでガーッと線を引いているように見えて、後でちゃんと「絵」になっていく。そして消える。

本人も「私が最後に行ったのは、絵画制作と思われたい」と語っている。アクション性にだけ注目されて評されたくはないようだ。再現できず、凍結もできず、2分で消えていく痕跡とイメージだが、確かにそれは「絵画」であって、作家の身振り手振りはそれを生み出すために費やされている。残らないものもまた「絵画」なのだ。

 

こうして、バルセロの即興性、時間に対する意識-消えゆくものへの強い関心をこれでもかと理解したわけだが、それを踏まえつつ、では結果的には美術館で後世に残る(遺される)絵画や彫刻を作ることを主要な活動としていることは、どう考えれば良いだろうか。

 

結び付いたのは、大地や海や太陽の光や生き物らと物質レベルで混交するような、「自然」(地球)との深い繋がりである。

 

 

◆「自然」が受肉する

全作品を通じて、モチーフは「自然」だ。

自然を題材にしてとか自然と向き合って・・・というレベルではなく、自然という存在が、絵画という肉を得て実体化してくるような迫力と勢い、重厚さがある。海の波、大地、風、太陽光、人智を超えたところからやってくる事象・・・それらが受肉する。

《緑の地の盲人のための風景Ⅱ》(1989)《事象の地平》(1989)は地面の砂に風が吹き付け、刻々と表情を刻み続ける様子を真上から見ているようだ。小波のうねり》(2002)は大海を真上から見下ろした際の、無限に広がり無限に続く「波」の営みをパンフォーカスで淡々と表している。波の一つ一つは画材自体を固めて隆起させていて、ミニチュア模型のように恐ろしく緻密な、平面の立体造形ともなっている。《飽くなき厳格》(2018)《時を前にして》(2018)で描かれる海は、青の深さが闇を伴い、圧倒的な、人間では測り知れない地球の力を見せつける。

陶器の類はもっと分かりやすく、器の曲面が突起となり動物の体を成す。壺と自然のキメラで、互いの境界が混ざり合っている。描く・描かれるの関係になく、作品の主体として「自然」が組み込まれているのが、とてつもなく特徴的だった。

 

「自然」が概念ではなく、生身の実体を伴う力として在ること、これには生まれ育った環境も深く関わっている気がする。バルセロは1957年にスペインのマジョルカマヨルカ島)で生まれ、年表を見る限りは30歳近くまで島が活動のベースとなっている。沖縄本島の3倍ぐらいの広さで、年間300日以上が晴天、澄んだブルーの海に囲まれていてリゾートスポットとして知られている。なおかつ、80年代以降はアフリカのマリ共和国にたびたび滞在しており、バルセロの生活・人生にはとにかく自然の力、それも太陽と海と大地の強い風土が共にある。

そのことは作品の世界観、人間という種族の時間感覚を遥かに超えた、悠久の時のスケールを相手にしていることと無縁ではないだろう。フランス南部のショーヴェ洞窟には3万年以上も前の壁画が遺されているが、地球のスケールからすればそれは一瞬の出来事に過ぎない。風や波や光が刻み続ける形と模様もまた、一瞬で移り変わって消滅と生成を繰り返す。地面や岩や樹々に動物が刻み付ける足跡や傷、生活の痕跡もまた自然の中に埋もれてゆく。

バルセロの絵画にはこうした地球スケールの時間軸が常に併存し、あるいは主として描かれているように感じる。だから即興が重要なのだろう、「永遠」からかけ離れた人間が出来ることは、その瞬間性を受け容れ、全力で生きることだけだ。

 

◆やはり、闘牛

それを象徴するのが「闘牛」だ。スペイン、パワフルで情熱的な画風、抽象性、と来ると、パブロ・ピカソの連想が来て、闘牛が来る。スペインに対する認識が「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」のレベルで大変申し訳ないが、やはりというか当然のように、闘牛がしっかりと描かれていた。

 

本作のキービジュアルとなった《とどめの一突き》(1990)はまさに、陽に照らされた円形の闘牛場を上から見下ろしていて、牛と闘牛士の二つの黒い影が赤い点と共に交わる。ピカソも闘牛には尋常ならざる情熱を抱いていたというが、作品を見ると動物(野生)vs 人間(理性、文明)という単純な二項対立ではなく、勝ち負けの競技の枠にも収まらない、もっと人類の存在へ根源的に関わるものだと分かる。

闘牛場の地面は世界の始まりのように、白く、光に満ちている。神聖さがある。同じ構図の《午後の最初の一頭》(2016)はもっと強烈に、競牛場の建物すらも消し飛び、暗黒に青白い光が渦巻き、対峙する牛と闘牛士だけが小さく影で映っている。神聖を超えて、時間の概念が生まれる瞬間に見える。

生命のぶつかりと昇華、人間の始まり、時間と空間の始まり・・・絵からは多くの意味が見出せる。それは牛の姿を覆い尽くして抽象化するほどに、執拗に銛が刻み込まれた《銛の刺さった雄牛》(2016)と共鳴する。背景は黄色一色でエネルギーに満ちており、地面は赤く血の生命力に染まり、背や腹は赤い肉を晒しながら、雄牛は泰然と立っている。人の営為を全て受け止めてきた歴史そのものであるかのように、静かに真横から描かれている。

「闘牛」に象徴される人と自然との関係性、そしてバルセロの絵は、人類が自然に対して体当たりで関係を築いてきたこと、信仰に近い・だが神に対してとはまた別の念を持ってきたことなどが描かれているのかもしれない。

 

 

◆絵画史を呼び起こす

バルセロの絵画作品が凄いのは、個人の感情や感動に留まらず、主観主義や表現主義への単純な傾倒を感じさせないことだった。自然を愛する純粋で無垢な表現主義的な画家は無数にいる(美術史上というよりむしろ身近なレベルで)が、どんな前例とも似ていない。前述のとおり「自然」が強力に組み込まれているためでもあるが、それだけではない。

絵画史上の様々な表現様式、著名な作家のスタイルを取り込んで引用している。その引用元が豊富なため、個人を超えたオリジナリティが発せられているのだ。

このことは図録やWeb画像ではピンとこない。小さい複写画像ではむしろ、自身の個人的情熱を描いているように見える。が、現物を見ると主義や流派では括れないことに気付かされ、「一体この作家は何者なんだ!?」と畏怖の念を覚えるようになる。

 

年表には、影響を受けたと思われる先行作家の名が多数出てくる。ジャン・フォートリエ、ジャン・デュビュッフェ、ヴォルス、パウル・クレージャクソン・ポロック、デ・クーニング、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマン、ジョアン・ミロ、ジャン=ミッシェル・バスキア・・・いずれも納得で、実に色んな画家の面影を想起させられた。

極厚に絵の具を塗り、筆致が走り、曲がり、止まって出来た隆起、瘤自体が造形美を持つ作品も多かった。メディウムの物質性、凹凸自体を活かして絵画の中で彫刻的な試みを行うのは日本の具体美術協会吉原治良などの作品でも顕著だったが、一体どこまでバルセロ作品に美術史へのリンクが潜在しているのか分からなかった。だがメディウムの盛り上がりを魚の頭や海の波など、更に具体的な造形へと作り込んだ例は他に知らない。

かたや、水彩絵具で即興的に書きつけられた「紙作品」は鮮やかな平面で、現地の人々の姿と風土を端的に重ねたドローイングは熟練のデザイナーの仕事を想像させる。アフリカ、タイ、インドでの滞在時に描かれたそれらは現地の光と空気をふんだんに吸っている。

《水浴するひとたち》(2019)《開花》(2019)に描かれた、オレンジや黄色など土の色で人物のシルエット全身が描かれ、体は半透明の光体でその中に点や線が走るさまは、杉浦邦恵の代表作《電気服にちなんで Ap2、黄色》(2002)の直立する人のシルエットの中で光が輝いている姿を連想させた。直接の関係はないであろうイメージをも想起させる力、一体この作家はどこまで射程距離があるのかと計り知れなかった。

 

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2021.4/23(金)の晩に、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県で、3度目となる「緊急事態宣言」を発令することが発表された。期間は4/25(日)~5/11(火)。2回目の宣言時には美術館や博物館は通常営業していたが、今回はより強い人流抑制を図らねばならないとのことで、公的施設は足並みを揃えて臨時休館を決めた。国立国際美術館も例外ではなかった。

これまでの例でいくと、当初に予定した期間通りに宣言は解除されず、2~3週間は延長されるだろうが、バルセロ展は会期中に再開できるだろうか。

 

( ´ - ` ) 完。