「森の芸術祭 晴れの国・岡山」津山エリア編つづき。全9会場のうち4会場を、14時から16時の2時間で回ってなんとかします。余裕が全くない。
太田三郎、リクリット・ティラヴァニ、八木夕菜は絶対に観たかったんです。なんとかならんか。なんとかしました。
- ◆作州民芸館 / 川島秀明、難波香久三、スミッタ・G・S、ムハンナド・ショノ、染谷悠子
- ◆城西浪漫館(中島病院旧本館)/ ビアンカ・ボンディ、江見正暢、ルシーラ・グラディン、ウメッシュ・P・K
- ◆衆楽園(旧津山藩別邸庭園)/ 加藤萌、甲田千晴、森夕香、太田三郎、リクリット・ティラヴァニ
11月某日。あさイチから「津山まなびの鉄道館」「つやま自然のふしぎ館」「城下スクエア」「津山城」を回った。あほほど楽しかったよ。津山のポテンシャルはすばらしい。しかし残り時間があほほど厳しくなった。ああん。
微妙に離れたところに点在していて、車で回らないとだめです。「作州民芸館」と「城西浪漫館」あたりは商店街で、一方通行がなかなか厄介だった。逆走して地元の人に止められた。ああう。外来種都会人の暴力性はこうして地方地元民へ負担をもたらすのであった。完。
この中で唯一、T8「PORT ART&DESIGN TSUYAMA(旧妹尾銀行林田支店)」はタイムアップのため断念した。津山エリアを終えた後は最後の望みをかけて奈義エリアへ移動、「奈義町立現代美術館」に駆け込んだ。ギリッギリで入れた。それでもレアンドロ・エルリッヒは諦めた。選択と集中の実地研修みたいなラウンドとなった。きつい。なんてきついんだ。
この日、前半(レポ④)までは元気だったのに、津山城を終えたあたりで急にガス欠、昼飯に津山ホルモンうどんを食って回復しよと思ったら、閉店だの営業時間外だのに見舞われ、コンディションがじりじり落ちていく。ゾンビ化しながらエナドリでなんとかテンションを繋いで作品を消化していくのであった。旅先で体力が底つきをするの本当にきつい😂 皆さんひるめしちゃんと食べましょうね。
◆作州民芸館 / 川島秀明、難波香久三、スミッタ・G・S、ムハンナド・ショノ、染谷悠子
民芸館の建物全景の写真がない。だいぶ疲れていたことが分かる。駐車場のある裏口側から入ったとはいえ普段より仕事が雑である。がんばろu
会場は2階で絵画を主に展示している。絵画は門外漢なので逆にさらっと観て終わりにできそうですねと思ったら作家5名分あるし地味に面白いのでそんなにチャッチャといかない。
そして観客が割と多い。うそやん。津山でアートで混雑。みんなアートに関心が!! 広くはない通路の壁に絵画を掛けてあるから、撮影のために人が引くのを待っていたが、ひっきりなしに来場者が来るのだ。おかしい客が止まらない。撮影するのに手間取った。みんなアートに興味があったのか・・・。今回の芸術祭、来場者がどこから来ていたかデータが実に気になるだよ。
難波香久三の絵画がまず凄い。2枚並んでいたのが別の作家の絵だと今の今まで信じ切っていたし、モチーフも完全に誤解していたことが判明した。焦っている。
青い肢体を後ろから描いた《大太法師の引越》と、蓑と傘をまとった4つ頭の《山を畏れる自像―くえびこの神と共に》と、これが同じ作家の作品とは思わなかった。カクゾウさん…芸の幅が広い!
まず青い尻と腿の絵《大太法師の引越》、これは「10代後半~20代前半の女性作家が、同世代の女性を描いたもので、夏の海で開放的な気持ちになり、スカートを自らめくって腿と下着が露わになった健康的なエロス」の絵としか思っていなかったのだが、正解は「富士山を背負ってきたダイダラボッチが相模原のあたりで休憩した後、富士山を置いていったという伝説をモチーフにした」というもので、うそやろダイダラボッチとかぜったいうそや。嘘だと思うが解説にそう書いてあるのでそうなんだろう。しかしこれは絵画的幻想によって色気を醸し出された性的ギリギリセーフな大人の時間のポカリスエットでこれは10代20代の女子の尻
なにがダイダラボッチや( ・_ ;)
女のかおりがものすごいことに、女
すいませんとりみだしました。
見る角度で腿、尻の陰影と輝きがまた変わっていき、まさに秘められた箇所を覗き見るような蠱惑的かつ背徳的な気持ちにさせられました。恐ろしい絵です。性を知ったか知らぬか分からぬ(と言いつつめっちゃもう覚醒してる)若い女性の肢体を、チラ見して、ガン見はできない、太陽光を剥ぐようにして目をやる感じのシチュエーションが盛り込まれているように思われ、すごいなと思いました。
対して《山を畏れる自像》は、人物像が画面の下の隅にあるし、頭部から頭部が3本生えているし、観音様でもあるまいし、しかし感情がなく、後ろでは高い山々が聳える中を山高帽が風に吹かれている。土着の現実風景に忍び寄るシュルレアリスム。というのも作者は「九室会」(戦前1933年、二科会の中に設置された、シュルレアリスムなど前衛的な絵画の研究団体。吉原治良もメンバー)や「行動美術協会」(戦後、いちど解体された二科会が旧体制のまま再建されることに反対した団体)に属していたのだから、本物である。
スカート(断じてそこは引かない)と富士山、若い女性と男性的巨人・神という形象の重ね合わせと往還は、やはり《大太法師の引越》はシュルレアリスムということでよろしいか。
向かいの部屋では足だけの機械が砂の上に延々と模様を描き続けている。
ムハンナド・ショノ《意味を失うことについて》。
『DUNE』を思いましょう。砂漠の星で香料の採掘探査機が稼働しています。向かいの絵画とえらい対比だが、これも「描く」行為の全要素に対する差異について強烈なコントラストを生じさせた配置として見れば面白い。人/機械、主観/自動、手・絵筆/多脚、平面・カンバス/砂・地面、水平(目に対して平行)/垂直、etc…の二項対比の極地として。
マシンは考え込むように、あるいは省力化を極めた野生動物のようにじっとしていて、時折動き出し、脚を回し体のバランスをゆっくりと変化させ、その度に連続性のある模様が砂地に刻まれては、また上からかき消されていく。これを「描く」と呼べるのか。だが模様と動きに我々は意味を見出さそうとする。作家の意図、計算を読もうとしている。見えざる「作家」という至上の存在を仮想せずに「作品」はあり得ないということなのだろうか? 笑
大きな窓のある広い部屋に来ると、大きな蠱惑的で呪術めいた絵画と、キラキラした飾りが人々を沸かせていた。私たちは光り物に弱い、細密な絵に弱い、いいですね好物を盛り込まれていて。みんな喜んでいます。
南米の部族の宗教&トリップ観を描き出したような大きな絵画は、スミッタ・G・S《幸福》、独学で絵をやっていたアーティストで人物は脇役だったが、2010年代以降の感染症の流行、特に今回の新型コロナ禍ロックダウンによって大きな変化がもたらされ、人間の姿が多く描かれるようになったという。「そこにはマラパール地方の伝統芸能や儀式、それらと自然との関係性も取り入れられている」インド出身の作家ということが分かった。
「人間」と言ってもそれはもう近代化を通過した私達のような姿形のものではない。精霊である。森も、この世とあの世の境が無くなっている。「自然」というものが西欧近代・科学の理解を経て導入されてきたものと根底から異なっている。森が内包し、森に象徴されてきた精霊の次元によって如何なく満たされた絵だ。これは熊野、田辺で南方熊楠を齧ってきた直後だったので非常に刺さった。
なるほど確かに動物・植物・人間が境界を混線させながら混ざり合う中でも、古代・伝統文化を保護するのではなくどこか現代社会に通じていて、薬のカプセルらしきものも見られる。耳や、目と睫毛のついた花?実?が手元に集められているのは、まさにSNS、Webコミュニケーションの業も思わせるし、五感を断たれているのが現世・物理的世界との接続回路を切られた=精霊的世界に深く入っていることも想像させる。色んな読み方ができる。読みましょう。
作者名が書かれていなかったのでまた別の作家の作品と思っていたが、この窓のキラキラ、もしかしたら絵と同じ作家だったのか? で今調べたら、蜷川実花の「クリスタルガーランド」だった。え。
宝石のおもちゃには蝶の細工が混ざっていて、絵の森との関連はあるが、あまりに絵のテイストと違っていたので、さすがに別の作家だろうとは思った。こちらは完全に日本人のセンス、小さく細かなものに儚い美を込め、美を見出す感性がある。蜷川実花と聞いてたいへん納得した。いうたらガーリーな世界だからな。近年の大規模展示ではインスタレーションとしてクリスタルガーランドをもっと大規模に提示しているようだ。らしいな~~らしいことをやってまんなあ~~。ベタを真っ直ぐ全力でやる、そこが蜷川実花が最強であるゆえんだ。
一転して渋いのが織物。「作州民芸館 関連民芸品展示」として「作州絣」がある。
絵柄の幾何学的さ、藍色がまろみを帯びていて、上品で良いですね。昔は高級な絹織物が作られていたが、17世紀初めころから綿織物が登場し、揃って作られていたと。だが明治時代に他産地の品に押されて絶滅状態に。戦後昭和30年代に東京で人気が出るも、また再び時代の変化から絶滅の危機に。
詳しくはこちらを。
かわいい女子の絵がありますよ。川島秀明《Guide》《Stream》。フェミにブチ殺されそうな紹介文だな。ころされう自覚はあります。kawaiiは正義なんや。勿論かわいいだけではない。なぜ本作にカワイイ風味が導入されているかから入っていくと良いかもしれない。
カワイイのは女子にとどまらず坊主の男性、そして周囲の樹々や風景も含めてタッチの丸みが「かわいい」に総称される風味と感じる。まろみが強い。日本画というものの系譜か?
で今調べていたら東京都現代美術館でやっていた「日本現代美術私観: 高橋龍太郎コレクション展」(2024.8/3-11/10)で作者の絵には出会っていることが判明した。しかし作風が全く違っていて、そこにあった《rose》(2006)は画面全体が女の子の巨大な顔で丸い両目がこちらを見ていて、小さな鼻と口は猫のように控えめ、細い線の髪の毛は薔薇の花と合わされ、漫画のように全く平坦に記号化しつつなにを考えているか分からない女子の陶酔的な憂げが前面にあった。顔の(記号の)絵画。
対して今回の2作は2023年作で最新の傾向となる。平坦で漫画寄りに丸みのあるタッチでありつつ絵画として計算された構成を伴うところは共通している。だが「カワイイ」が、かつて人物の内面に抱えられていた闇のような自意識であったのが、今作では達観というか空気や光のように内外問わず溢れるものとなっている。坊主頭の人物は作者自身なのだという。そういえば平山郁夫も梅原龍三郎もなんかまろみの「かわいい」感じがあるの、あれ何なんすかね、なに(永遠の謎)
奥にはもう一つの「作州民芸館 関連民芸品展示」として小林博道《昆虫(竹細工)》がある。昆虫標本だ。「つやま自然のふしぎ館」で大量の標本を浴びてきたため反射的に反応してしまう。
皆さんミヤマクワガタとノコギリクワガタの区別はつきますか?顎をみてくださいね。「長い年月をかけて囲炉裏などの煙にいぶされて飴色(茶褐色)に色づいた煤竹を使って」「鋸や鉈で適当な大きさにして、さらに彫刻刀で削るなどして一匹一匹丁寧に作っている」すごい。
小部屋で染谷悠子の作品、《知でなく意ではない。》《トワイライト》など5点。
大気や雲の渦や、花、星雲を思わせる絵だ。実際その通りで、作者が岡山で見た山や星、空や水が描かれていて、岡山県矢掛町(プラネタリウムや星空公園がある)での長期滞在や美星町の天文台で見た星空がモチーフになっている。
特徴的な雲の描き方を支えているのが墨絵の表現、特に「筋目描き」という技法で、白い線が残ることで雲の層状の膨らみ、奥行きが出ている。マイクロポップ以降というか、ゼロ年代以降の日本の絵画として、身近な存在や光景やそれらとともにある作者の主観を扱い、部分的に抽象化・記号化し、白抜きの余白とともに線と塗りで構成する作風を感じるが、それが「自然」という途方もなく大きなものへ向かっていて、写実的な油絵よりも軽いタッチに見えるのに存在感の厚みと奥行きはとても深い、そんな世界観になっている。
館の1階はカフェと物販になっていましてね。おやつを買いました。椅子に座って休憩している暇がないので、移動しながら何か糖を齧りますわ。地元の人や素材から作られた菓子ってすごい好き。コンビニで済ますのは避けたいですね。
野菜と菓子と駄菓子、謎の品ぞろえに和みました。
◆城西浪漫館(中島病院旧本館)/ ビアンカ・ボンディ、江見正暢、ルシーラ・グラディン、ウメッシュ・P・K
大正6年築、津山で最も古い病院建築。中身も含めてこれは良い建物でした。「中島病院」自体は一般的な病院建物(110床)として今も営業している。
NHK朝の連続小説「あぐり」ロケ地ですって。1997年前期の作品。いややわあ生まれてないから知らへん。うそ言いました。美容師の話で、野村萬斎が出てたんやて。で死んじゃうんやて。へえー。岡山県と山梨県が舞台になったんやと。へえー。
また人がいっぱいで、駐車場も大きくないから待機の車が樹液を巡るカブトムシみたいにお見合いしておる。アートで盛り上がってるのか観光の一環なのか分からないが…。
入口のところでかなり古風な手作り万華鏡を並べている。江見正暢の作品である。江見写真館の5代目代表だが、本業のかたわらで40年以上ステンドグラスの制作に取り組み、万華鏡も作っていたという。
この万華鏡が特徴的なのは、普通は筒の中に細かい紙片が入っていて光に透かす仕組みだが、鏡体の先にステンドグラスを網目にした円形の皿が2~4枚重なって付いていて、皿を回すと筒から見える色と形が次々に移り変わるという仕組みだ。
紙片がキラキラしているのではなく覗き込んだ視界全体がステンドグラスとなって形を変えていく。非常に豪華な体験である。量産できない一点もの万華鏡、江戸時代に西洋から伝わった歴史的な逸品と言われても疑わない。
津山市内にある江見写真館がそもそも1873年創業で建物が素晴らしいんですがこれは。
津山市がすごいということがだんだんわかってきた。城と駅だけで終わってたらあかんかったんや。館内も素敵ですよ。大正時代の近代建築は軽やかだけどどっしりした安定感があるなあ。
階段に写真が掛けてある。忘れてたけどこちら元は病院でしたね。病院の歴史を語る、狙いなき「本物の記憶(写真)」、アートを食い破って超えたのを感じるひと時だ。
2Fに上がり、部屋を覗き込むと、苔がすごいことになっていた。
ビアンカ・ボンディ《森林浴》である。おそらく元・病室の3部屋をぶちぬいて床に苔、天井や壁からはドライフラワーが大量に溢れている。
難しい理屈や理念は抜きにして癒されますね。「森林医学」がテーマになっているから当然だろうか。病室と森が調和すればヒーリング効果は単純に言っても2乗!そういう原理ではないがそういう感じがして、こう。でね森林医学というのがある。実際、森林は浴びると心身がリフレッシュされる。
ここではまた別の作用があったと思う。空間が役割・目的を奪われて別の何かへ転化されていく、人間と自然・外界とを離すという近代的空間が森に還る、要は発酵や浸食を洗練されたやり方で提示していて、そこにファンタジーがあるのだと思う。
実際にはこれら植物は近代的な衛生管理によって虫が湧いたり建物を侵さないように調律が効いている(でなければ会場はただの廃墟になる)、何の医薬品が入っているか分からない古い薬瓶と同じように、実質的には実用できない=無害/無毒な存在として世界観のイメージを掻き立てる技術=アートとしてこれらの苔やドライフラワーは管理されている。「森林」「セラピー」は幻想的癒しなのか?それはまあそう。ガチ自然は近代以降の人間と競合関係になる。
そこに津山市街地の過去の写真が提示されるあたり、山と水田に囲まれた死自然豊かな土地だったことを想起させようという感じ。近代化と「自然」はどう折り合うのか?その接点というか、都市化への欲望の均衡をどうとるかを考える際に、森林に象徴される自然からの癒し(というイメージ)への欲望が自然を求める力になる、ということは言えそうだ。神社の鎮守の森とかそうやんね。はい。
廊下を渡って向かいの部屋で、ルシーラ・グラディン《Chromatic Unfolding》《Goldenrod Tautology》。織物だなあ。
織物、編み物に関心が薄いのと知識がないのであれだが、作者は様々な分野の専門家とチームを組んで植物園を運営しており、伝統的な織物や神話・民話を通じて染色に用いられた植物を研究している。特に在来種の植物を用いて染色する実験を行っており、様々な地域にて自生する植物 × 伝統的な織物との組み合わせは、その土地の文化的・生物学的マッピングになると。
たぶんしっかり説明を聴いたらもっとちゃんと入り込める作品。どこから採れた何を使って、何の織物と合わせてどうしましたとか。織りや染めも平面に「情報」を載せて宿らせていく作業なので、本質的には写真や絵画に通じるところがあるとは思う。
昔使われていた暖炉がすばらしいです。
( ´ - ` )
最後の部屋は資料室みたいになっていて雰囲気が異なる。横に長い絵画、展示ケース、資料解説パネルという組み合わせ。
パネルは岡山県の気候、地質から、地域ごとの森林の特徴など、県の森林を巡る概要がまとめられている。「県北の森はほとんどがヒノキの人工林である。過去400年にわたりこの森は伐採と植林、荒廃と回復をいくどとなく繰り返してきた。たたら製鉄のための木炭の材料として活用され・・・」キュレーター・長谷川祐子のイントロダクションは、この芸術祭全体が根ざす「森」の存在を指し示している。これもっとでっかくして色んなところに貼ろうや、
wikiを高級にした感じで良かったです。喧嘩売ってるわけではなくwikiで満足せずちゃんとした資料というのがこういうちゃんとしたあれで
資料全般で言及されているのが、岡山県の森林=乱伐・荒廃からの回復という歴史だ。しかし「今から約400年前、県南一帯はすでに広大なはげ山が多数存在し、大雨が降る度に山崩れや洪水が頻繁に起きていた。」ぬう。自然って違うジャンルの自然を食いに行くというかぶっ壊しにいくから放置しとくと基本的に荒れるんですよね。人間は自然を破壊している一方でめっちゃ自然を安定状態に支えていたりもする。
ここでウメッシュ・P・K《点を中心に回転しながら深みへ》。またインドの人か。どこから連れてくるんやろ、国際的ビエンナーレとかで見つけてくるのかな。
「インド最南部、豊かな生態系を誇る西ガーツ山脈とアラビア海沿岸部に挟まれた細長いケララ州で育ったウメッシュの幼少期の体験をベースに、想像上の地理、儀式、神話を絵画的フィクションとして物語る」です。「瞑想的」とも説明されている。光の渦が何であるかは問わない、そのインスピレーションを催させるところに「森」の存在感がある・・・森とは精神的な場所・存在のことを指すのか? 確かにそれはそう。なお樹々の描画が凄いです、僅かな塗りの厚み調整によって立体感がやばい。
更に畳みかけてきて津山 × 洋学 × 植物学、ボタニカの歴史を振り返りましょう。「津山洋学資料館」から資料の出張です。ヒーリング、スピリチュアルだけでは許さない多角的な攻め(守り)がいいですね。
一枚、真っ黒な絵?写真?が掛けてあり、自分の顔しか映らないので何か分からず放置していたが「これ、新見エリア/ふれあいセンター満奇で見た写真家さんの森?」と言われて「あっ、」となった。杉浦慶侘の森の写真作品である。サインで判明しました。
この部屋、鑑賞時にはややめんどくさい(体力と時間が)が、後で振り返るとかなり重要な一角であると気付いた。「森」を雰囲気で終わらさないのがね。森ってなんなんですかね。
こちらも1Fに物販がありまして、楽しいんだけれど、今回は時間と体力がないので、ざっくり目視して飛ばしました。野菜はデフォなんだな。
野菜なあ。いいんだけど運搬調理その他私にはどうしようもないので手が出せない。いい・・なあ、
◆衆楽園(旧津山藩別邸庭園)/ 加藤萌、甲田千晴、森夕香、太田三郎、リクリット・ティラヴァニ
めちゃくちゃ焦りながら次を回ります。大丈夫か時間。
※15時半です。
※あと1.5時間しかない
どうすんのこれ。エナドリを飲んで体力をつなぎます。深刻にしんどなってきた。でも「衆楽園」の庭園は池がでかくて木が高くて癒されます。ギンヤンマは・・・いませんね(※11月です寒い
自然が最高ですよ。「京都から作庭師を招いて造営された廻遊式庭園。京都御苑内にある仙洞御所を模して造られました」とある。御所模し系は強い。日本人の心にある原風景を突いてきます。えっ原風景とは?また厄介な話が出てきたので気付かないふりをして「樹がたかいねえ」「夕日がきれいねえ」と機械のように発語しています。
作品は主に建物内で展開されているようで、余芳閣(左)、迎賓館(右)を回りましょうね。結論から言うと、余芳閣は小さめの作品が1品ずつ紹介でサッと見終わり、迎賓館は大広間にデカ布で松の絵が迫力と、対照的な展示空間となっている。
賑わっています。中高年が多いんや。うそやん。なぜアートが津山で中高年こんなに注目を・・・(まだいまいち合点がいっていない顔)
余芳閣2階、森夕香《リゾーム》。
衆楽園の池に自生する約千株の睡蓮をモチーフとし、水面下の茎~根の部分が人間となっている。「視覚では捉えることのできない、植物の生態と人間の身体性の繋がりを模索している」とあるが、睡蓮が信仰やら庭園美やらの長い歴史を経て、水面下で人間を模し、人間に近づいていっているように見える。
違い棚に置かれている陶器は甲田千晴《枯鳥(Kocho -withered-)》、これは鮭の切り身がチーズ化して木に寄生している、わけではないが遠目には鮭の切り身が溶けているように見えて中毒性があります。あほなこと言うてますが「溶けるよう」な質感、器の底が自発的に開いたような姿が、自然界の動植物と、土から作られた陶磁器との関係性を表しているように見える。
ほんと見事に鮭チーズで・・・おいしそうなんや。
その下には、加藤萌《微睡みを》が、か、かわいい、、
「原形を粘土で制作し石膏型を取り、漆と麻布を重ねて造形する乾漆技法を用いて制作」されたとあり、この技法は国宝・阿修羅像でも使われていると出てきました。艶がすごくないですか。眠そうな顔が本当に本物。この赤い膨らみは体の一部なのか何なのか?
「寒い日に、山の紅葉の下で丸まってまどろんでいる狐を表現した作品」「上半身に新見市で継承されてきた神代和紙を貼って漆で彩色し、下半身に透き漆を何層にも重ね、秋の木漏れ日を表現している」ちょっとまってくれ技術が理解を超えてきた、なんですか透き漆、なにそれ、どういう、
1Fは太田三郎。出ました。これは推しです(謎の圧
いつもの切手とか種子の作品とだいぶ違った、まさかの素朴な庭木の写真で焦った。モニターは動画ではなく止まっているようだ。どうしたらいいのこれ。だが時間を扱っていることが分かった。モニタ画面は写真のスライドショーで、徐々に柿の木の葉と実が変わってゆく。
時間がなさすぎ(自己責任)、スライドの移りがかなりゆっくりだったため程なく中座したが、「太田の自宅付近の庭に生える柿の木とみかんの木の成長を約1年かけて定点観測し映像に収めた《庭の情景》(2024)、柿の木が秋に実をつけて熟し、地面に落ちてゆく様子を映像に収めた《FALL》(2024)」と、木が育って実がなって地面に落ちるまでの「時間」が表されているらしい。前者:木の成長は不可逆、一方通行の時間で、後者:果実は毎年毎年繰り返されるサイクルの時間であることが面白い。観てないけども。すんません。
しかし現代美術でコンセプチュアルな太田三郎が自身の生活圏にある身近なものを写真・映像化するとは思わなかった。
迎賓館の大広間に行くと、和食料亭のような巨大な暖簾と、舞台上には椀が並んでいる。リクリット・ティラヴァニ《無題2024(水を求めて森を探す)》だ。会場で飲食物を提供するパフォーマンスで知られるティラヴァニが暖簾とは。
衆楽園の庭園に植わる樹木のシルエットを、真庭市の染色家・加納容子とのコラボで制作し、麻生平(あさきびら)の布で染めている。もう一つの影・庭園がここに生まれている。舞台上の椀はこれまた残された「影」とでもいうのか。
解説によれば「ティラヴァニのアイデアをもとに、津山市のbistro CACASHIのシェフ・平山智幹と津山市のスーパーマーケット・マルイと共同開発した、地元食材を使用した、作品としての弁当」とあり、やはり会食パフォーマンスがあったようだ。いいなあ。なんか食べたいんすけど(飢え)。
お膳の提供は「株式会社つるや」、あのつるやグループさんですよ!わあい。2回行っただけでファンになってる。
合ってるやんね?
古い器が出てきたということは、何か歴史文化的な財を持ってる可能性が出てきたなつるや。古い建物とか所有してるかもしれぬ。
庭園の残りを見ますよ。はよ行かんとやばい。
庭園。普通に良い。
あずまや。これも良い。
これが来ないと作家説明が難しいんで現物を出してもらえてよかった。しかし切手そのものを使うのか。
あ。鶴と亀。何かの数字を足すゲー。それが鶴亀算か。え。どうやるの。
やりかた書いとる。「鶴と亀の頭数の合計は30である。足の数の合計が80のとき、鶴と亀の各々の頭数を答えよ」
小学生時代は落ちこぼれて暗黒だったので反則を使うぞ。
2x + 4y = 80
x + y = 30
⇒鶴20、亀10。
ああっこの作品の全体像の写真がない、演算結果が分からない!
で他の問題でもやってみたら、切手1枚が鶴・亀それぞれの頭数を意味し(鶴は2羽写ってるが1頭と数える)、問題の答えがそれぞれ展示品の切手4 × 5枚=20枚における鶴と亀の内訳に対応している。長らく算数から遠のいている私は計算できず「鶴は2羽描いてるからどう計算したらいいか分からへんねえ~」とごまかし、事なきを得た。小学生に負ける学力。
作品と庭(の自然)とが対応しているのだった。
最初に鶴亀算おもいついた人、鶴と亀の様々な要素から足の数だけ取捨したのかと思うと恐ろしいな。世界を数字で見るにもほどがある😶
風月なんちゃらという庵もみましょうね。読めん
「風月軒」ですって。
あっデカ暖簾。すなわちリクリット・ティラヴァニ《無題2024(水を求めて森を探す)》続編です。ここの解説では先述の染色家・加納容子のキャリアについて詳述されていた。
1947年生まれ、東京に出るが家業を継ぐため勝山に戻り、家業の傍らに制作した暖簾が近隣の人の目にとまって、依頼が増え、1996年には「かつやま町並み保存事業を応援する会」が発足され、町並み保存地区の家の軒先に暖簾が付けられ、勝山は「のれんの町」として知られるようになったと。
真庭市のふるさとの町並みを加納容子の暖簾が彩る・・・?
あっ。
ここで見た暖簾の作者か!!!
今書いてて繋がりました。おい作品鑑賞中なにしてたんや私(白目
レポートを書かないと鑑賞物の前後左右が繋がらないということがわかりました。おそろしいな。観て回るだけではあかんねやね。
ティラヴァニは2023年に加納容子の工房を訪れ、その技術や美学や依頼者との関係を評価し、作品制作を依頼したと。
ここに展示されているのは1997年に加納容子が工房をオープンして以来、工房の玄関に掛けられてきた7枚の暖簾で、日焼けによって良い風合いが生まれている。
よい空間でした。ゆっくり茶でも飲みたかったな。
津山エリア最後の「城東むかし町家」は長くなるので、奈義エリア(奈義町立現代美術館)レポに移しましょうね。終わらんぞこれ。つづく。