nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】記憶と空間の造形 イタリア現代陶芸の巨匠「ニーノ・カルーソ展」@京都国立近代美術館

柱なのか、彫刻なのか、建築なのか。どこまでも「その次」へ接続するモジュールの作品。 

【会期】2020.1/4(土)~2/16(日)

 

( ´ - ` ) 私の苦手な立体、彫刻系の展示です。ちゃわん、日本画、彫刻のたぐいは、ぶっちゃけ苦手分野です。勉強してないだけなんですけどね。がんばろう。誰やねんニーノ・カルーソって。がんばろう。

  

美術館前に置かれた宣伝ディスプレイでは、ガチンコのモダニズム色、産業機械的なスピード感といかつさがあって、1920~30年代のいかつい美術が並んでるのかなと思ったりします。全然違った。

 

エントランスを入ったところ。宮殿の跡のような、神殿の複製を作ろうとしているような、柱の作品ですね。白いのが特徴ですね。展示エリアはこの1階地上部分、2階(階段の踊り場)、3階展示室で、うち1階・2階部分は撮影が許可されている。ありがとうございます。うれしいです。

 

なお本展示に音声ガイドはなく、作品解説はスマホアプリ「カタログポケット」をDLして音声で聞くか、文字で閲覧するかになる。

<★link>カタログポケットHP https://www.catapoke.com/?mict_code=10

<★link>本展示ページ https://www.catapoke.com/viewer/?open=1ff3f&lang=ja

  

( ´ - ` ) 建築家の展示なのかと思った。

でもそれにしては柱とかジョイントの部分ばっかり置いてある。柱の職人? いやエントランスの広告と全く違うやんか。いかん、くるしくなってきた。なので、まず1階はサッと見て、3階でカルーソ人生をちゃんと踏破してから戻ってくるのがよいと思われます。

以下個人的な感想など記録。

 

展示室内の写真がないので、ニーノ・カルーソについて粗っぽく言うと、まさに「接続」によって増えていく「モジュラー」の作家です。単体では、一個の彫刻であり、今後、上下左右に接続されることが期待される部分でもある。しかし、幾つか繋ぎ合わせても、接続面がむき出しになっているので、まだそこから更にパーツを付け足すことが期待される。全体と部分との重ね合わせで終わりがないのが特徴です。

そして作品の形態も、「彫刻でもあり、柱でもあり、建築でもあるし、壺でもある」といったもので、ジャンルを越境して隣り合う形状へ染み出していきます。「これは皿だ」「壺だ」「鋼鉄板を組み合わせた立体彫刻だ」とはっきりしていたのは、制作を始めた初期・50~60年代の頃まで。1967年に「モジュラー・エレメント」を作成したあたりから、一個であり群体、縦横無尽に繋がり続ける造形へ向かいます。染み出す彫刻、と呼ぶのがふさわしいでしょうか。

 

◆「ガーデン・エレメントのアイデアスケッチ」(1970)

 

◆「公園ベンチのエレメント」(1974)

どうですか。電気屋さんのマイナーな一角にありそうな装置、壁のパーツの連続など。凹凸がどの面にもあって、どこまでも「次」を接続して連続してゆけることが特徴です。まさに「エレメント」。これが「彫刻」なのか「製品」なのか、「建材」なのか、完結した「作品」なのか、何であるとは断定できない。「接続」の可能性へ思考を掻き立てる作用があります。

この時期の作品はデザイナーとしての色合いが強くて、滑らかでスマート、ニュートラルな姿をしています。黒川紀章のやっていた「メタボリズム」、中銀カプセルタワーの発想に近いと思いました。生物的ですね。

 

しかし作者は次第にシチリアの歴史、古代ローマの建築に関心を抱き、時空間に連結する「柱」としての形態へ移行します。

 

◆「エルマ ― 両性具有」(1993)

◆「白いエルマ2」(1998)

制作年代がだいぶ違うので作風はまた異なりますが(70年代のものは前後左右の凹凸がもっとあったように思う。)、イメージということで。見ての通り柱ですが、パーツの接続で作られています。頭頂部を外したら、柱なのか部分なのか分からなくなる。もしかしたらもっと上に積めるかも知れない。それをこう、やらない。やりすぎずに止める。こうした、部分を繋ぎ合わせて組み上げられた「柱」の作品が代表的になっていきます。

現地の、古い石畳のある公共の場に、古代を思わせるデザインを伴いつつ、モジュールから成る現代の物体が立つわけです。写真があったがあまり違和感がなかった。カルーソ作品の重要なところは、完成がないこと、つまり、作品として完結しないところで、接続可能性を見せていることが肝です。「柱」を柱として定義を固めない、その場の環境や歴史に接続する、ということが言えるでしょうか。

 

◆「アーキスカルプチャー(セジェスタ)」(1988-91)

この門とも柱ともつかない作品のように、「門なん?柱なん?建築なん??なんで途中で止めてるん??でもこれ以上増えたらおかしいかも?」という形態で展開されます。この時、カルーソ作品は街の建築的な諸要素に接続し、同時にその古代の装いから歴史に接続し、鑑賞者に時代を超えた世界を見せることになる。

「余白の美」によって見る者の想像力を催す、という手法はデザインでも写真でも日常的に聞くが、モジュラーのジョイント機能によって想像力を刺激するというのは聞いたことがなかった。すごくないですか。

 

全方向的な接続性が遺憾なく生かされたのが、80年代に再度手掛けられた「壺」シリーズでしょう。確かに中央や天地の造形は、言われてみれば「壺」なんだけれども、側面の造形は「彫刻」、勝利の女神ニケをあしらったり、壺の本体と思わしき胴体も柱である、ということはこれは全体としては小さな建築物ともとれるし、平面的に見ればエンブレムにも見える。

滋賀県立「陶芸の森」(信楽町)の野外モニュメント『風と星』もそうで、カルーソは設計に携わりましたが、公園のトイレ・休憩所ぐらいの大きさがあり、モニュメントというより円筒形の建築物と言った方が似合ってます。とはいえ、建築物には当然あるべき屋根や壁を大きく部分的に欠いており、その穴に凹凸を組み合わせると「次」に拡張しうるジョイント的な作品です。雨風が防げず、しかし中に入れる円筒状、これは何という名詞で呼ぶべきでしょうか。周囲の間を埋めろ、「次を接続しろ」と言ってくるようなモニュメント、趣旨は大きく違えど、岡崎乾二郎『あかさかみつけ』シリーズを重ね合わせた次第です。

 

ラストの、90年代後半~00年代の柱、壁面の作品は、70年代のものと構造は同じながら、より古代の宗教観が反映され、表面の模様は暗号を刻んだようになっています。接続可能性という機能を際立たせたモジュールから、太古の文明へとアクセスする装置になっていた。

 

そんな感じで面白かったです。

 

◆「エルマ ― 両性具有」(1993) 

 

 ◆「記憶の旅路」(1974)

悩んだけれども図録は買いませんでした。安かったんですけどね。写真で見ると、あくまで単個の造形作品として尊重して撮られている。また、写真であるから一方向からの視点でしかカルーソ作品を見ることができない。しかし実際のカルーソ作品は、360度に対して「その次」が存在する――静止しない、接続可能性のパワーを秘めていた。写真ではそれが死んでしまう。私がこうして撮った写真も、そう。改めて、立体造形物の難しさと魅力を知った次第であります。

 

( ´ - ` ) 完。