写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「in the era of Asia's Post-LCC "ポストLCC時代の  "」@京都芸術センター

【ART】「in the era of Asia's Post-LCC "ポストLCC時代の  "」@京都芸術センター

LCC(Low-Cost Carrier:格安航空会社)に代表されるように、国を越えた都市間の接続コストが下がっている現在、ヒト・モノ・情報の交流や反発が常態化している。その力学がもたらすものは何なのかを考察する展示。

【会期】2020.1/11(土)~2/16(日)

 

移動、接続のコストの低減によって、言葉や文化の異なる人たちが物理的に交わる機会が増加することを踏まえ、そこでどのような社会現象が、コミュニケーションが生じるのか。本企画はアジア4カ国、計7名のアーティストを招聘して展開された。

 

◆ヨシダケンジ『(im)possible dialogue』(2016)

男女2名が会話する動画。日本人男性は日本語で、タイ人女性はタイ語で話し、お互いに相手の言語を介さない。とにかく分からない言葉と身振り手振りを前にしながら力技でコミュニケーションを続けていく。

 

見ていてにわかに面白くなるのが、「言葉が分からない」ところで立ち止まらず、というか立ち止まっても事態が進まないので、何かしら「こういう意味でしょ」ということにして、応答を反すところだ。もう一方通行の変形判で、一方通行同士を投げ合うという形になっている。即興パフォーマンスに近いのだ。

 

何を言っても伝わりそうにないので、共通の話題っぽいところで「タイの人もFacebookなどSNSで手軽にコミュニケーションを取るのですか」といった内容の質問を投げかける日本人男性。

タイ人女性は「Facebook」「SNS」だけを(多分)解し、それ以外は完全に憶測で埋め合わせて応答する。持論を展開しているのに近いが、噛み合わないなりにお互いに考えていることを述べているので、それぞれの発言での意味は通っている。その妙が面白い。

加藤翼が『言葉が通じない』(2014)で、言葉の噛み合わなさをそれはそれとして、一つの共通目標である「肩車をして杭を打つ」共同作業にとにかく集中しようと試みたが、本作では通じない言葉に対して、また通じない言葉を返し、互いに噛み合わないまま噛み合ったことにしているのがシュールなのだ。

 

 

 

◆Prapat Jiwarangsan(プラパット・ジワランサン)Destination Nowhere』(2018)

カッターの刃先でガリガリ削る音が響く。

 

黒い面を削ると人の後ろ姿になっていく。画面が切り替わり、国外退去を迫られる「日本人生まれ」のタイ人青年のインタビュー音声などが字幕と共に流れる。

 

彼は何もしていない。親が不法就労移民であるがために、生まれ故郷でもないタイヘ送還されそうになっている。そしてまたカッターの削り画面に切り替わる。それは名も顔もなき青年のような境遇の人たちを象徴しているかのようだ。入国管理局による外国人の収容問題が浮上した昨今だからこそ、気になる話である。

 

 

◆Prapat Jiwarangsan(プラパット・ジワランサン)『Untitled』(2019)

先の動画とペアで展示、日本人とタイ人の親を持つ若者らへのインタビュー。2つの国における時間感覚、ルーズさや厳密さについて語っている。 

 

◆Wantanee Siripattananuntakul(ワンタニー・シリパッタナーナンタクーン)『The wall of silence』(2019)

タイから日本に来た象「はな子」の足跡や、その存在の意味を再考する。

 

外交ツールの一環として日本に贈られ、日本で一生を過ごした「はな子」の存在は、現在の移民問題外国人労働者の問題などを連想させる。映像は「はな子」の皮膚、体表。25分以上もある映像なので、待っていれば画面が切り替わったかも知れない。

 

他に、象の声を人工的に再現した作品や、タイから神戸を経由して恩賜上野動物園に移送されたルートを想起させるキップのイラストなどが展示されている。

 

 

◆ユカワ・ナカヤス『Dear』(2019)

舞台は京都の織物職人の日本家屋だろうか。男女二人の日本人が織物をしたり、チャーハンを作ったり、それを食べる様子を、日本語を解さない海外からの3名の若い男女が観察し、話題にする。

 

大きな部屋の壁面に、15分の動画が3チャンネルで投影される。

中央の画面はアブストラクトな街の雑踏の人々である。終盤、フリー素材のような、様々な年齢、人種の顔写真に目まぐるしく切り替わり、シャッフルされる。国を越えた、無数の匿名の誰かを指し示す(指しきらない)。

 

左側と右側の映像は、同じ家の中の状況を時間差で映し出すが、左側の画面では外国人3名の顔が白くボカされている。白いだけではなく、中央の映像に呼応し、雑踏のアブストラクトな顔なき群衆に接続しているらしい。

右側の映像では、その3名の顔は見えているが、声が部分的に欠落する。左右の同じ場面を異なる編集で時間差で見せるのだが、字幕が全く同じだったかは検証していない。ただ、具体的な表情、個人の情報がつまびらかにされていることが、安心感とともに、また別の異様さを生じさせる。

 

シチュエーションが異様なのは、こうした欠落の仕掛けのためだけではない。

海外勢は日本人の2人を徹底的に観察し、話題にするが、日本人は一切関知せず、チャーハンを作ったり食べたりしている。話題はもう食器のことからチャーハンを食べるペースのことから、不干渉と過干渉が矛盾したせめぎ合いにある。そのギリギリの不干渉っぷりは、ドラえもんの「石ころ帽子」を被った状態で人の生活に立ち入って観察しているような状況だ。

 

タイトルの「Dear」の真意は何だろうか。

海外勢の観察と話題はかなり食い込んだもので、日本人2名の一挙手一投足に注目してコメントし、そして写メを貪欲に撮り、更には自撮りの中に投じてしまう。「観光」の主観と傍観をマイルドかつ暴力的に研ぎ澄ましたような光景である。

 

私には、日本の全体が海外向け観光資源として投じられた際の状況を暗喩しているようにも見えた。相手は好意的だし、親し気であるが、体験型という形で穏やかなノリで消費されてゆく様子を表しているように見えたのだ。

 

 

3連のうち左側の映像で、海外勢3名が家に入ってくる際のシーンでは、引き戸を開けて顔のないグループが入ってくるので、まさに、日本の外側からやってくる不特定多数の観光客を強く連想させた。

 

タイトルの「Dear」とは、こうした観光的な、一方通行同士が交錯する場としての穏やかな「交流」の温度感のことを指すのだろうか。一方的に向けられる「親愛」の念は、噛み合うものなのか、どうか。

 

 

 

 ◆Mong-iane Wu(モンジェン・ウー)『Plantation, Kyoto, 2019.11.01, No.01/02/03 』

『Dear』と同じ部屋に展示される作品。和紙なのか布なのか、不思議な質感がある。そして写真としては不完全で、ドローイングのような白い線と背景の黒が大部分を占め、中央の日本家屋と周辺のものだけが光(色)を帯びて、浮かび上がっている。手書きの線ではなく、トーンカーブを反転させているのかも知れない。

 

解説を見て初めて知ったが、「プランテーション」シリーズでは鉢植えが重要な意味を持つらしい。私有地と公道の境界を示すと同時に、本作では台湾で撮影された鉢植えの写真を京都の町並みに持ち込み、日常風景に気付かれないほどの異化をもたらし、その様子を撮っている。

 

意図に気付かなかったのが残念である。 

 

--------------------------------------------------------

 

この学校、歩いてるだけで楽しいんだよね。時代を越えて残ってる物件は良い。

 

作品全てを回りきれてはいないが、大体は観れたです。他者とのコミュニケーションを積極的に考察していてえらいなあと思いました。私自身がディスコミュニケーションの王道みたいな生き方をしているせいもあって、いやあどないしましょうか。

 

どないしようか、

 

 

( ´ - ` ) 特に考えもないので完 。