nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】監督:キム・ミレ「狼をさがして」@九条シネ・ヌーヴォ

1974年「東アジア半日武装戦線」という名で企業のビルを爆破した集団がいた。今では隔世の感のある話、その当事者らの「現在形」を追うドキュメンタリーである。浮かび上がってきたのは、当時のことを語らせないかのように閉じ込める警察権力の姿だった。

 

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1974年8月30日、 東京・丸の内の三菱重工業本社ビルの玄関前に置かれた爆弾が爆発、8名が死亡、380名が重軽傷を負った。実行者は東アジア反日武装戦線”狼”」を名乗り、爆破を日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃」と宣言した。”狼”に続いて”大地の牙”と”さそり”が現れ、翌年1975年5月まで三菱を合わせて9回の爆破事件を起こし、「連続企業爆破事件」と呼ばれている。

 

この爆破事件はちょいちょい「世界中でテロが話題だが、言うても昭和の日本もたいがい凄かったからな」という切り口で引用されることがある。下記の記事の写真は目にした人も多いのでは。 

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私の生まれるわずか5~6年前まで、日本人は首都の真っただ中で爆弾テロをやっていたのだ。あまりに社会が変わりすぎて実感がないが、そういう国だったらしい。

 

しかし時代としてかなり遅い。「東アジア反日武装戦線」は1972年末、国内で行き場のない時代に結成されたが、60年代後半に国内で湧き起こった学生運動の革命の嵐も、1969年1月・東大安田講堂陥落から、1970年「よど号ハイジャック事件」、1972年「あさま山荘事件」に象徴される通り、一般社会からすれば暴力的に先鋭化した事件でしかなくなっていた。

1970年の大阪万博を起点として「一般市民」「一般社会」は経済発展の波に完全に乗ったのだ。戦争責任、日本人であること自体の加害性の責任を求めての行動は、理念はどうあれ、”罪”というより”詰み”から始まったようにすら思える。本作では「狼」の名は、絶滅したニホンオオカミに喩えられている。彼ら彼女ら「東アジア反日武装戦線」は、既に「詰んでいる」ことを分かりながら、企業の爆破という具体的な行動をとったのではないか。

 

 

 本作はその主要メンバーの姿、声を追う、現在形のドキュメンタリーである。

 


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予告映像の印象とは異なり、過激な宣言・思想と事件の「後」に長く続く、「現実」として、支援者や血縁関係者の声に耳を傾け、高齢となった実行犯らの「現在形」を写し出す作品だった。

事件当時のことは、声明文をナレーションで読み上げるぐらいで、あまり引用されない。2010年代の「今」、実行犯らと関わりのある人たちから言葉を聞き出してゆくシーンが主である。実行犯の多くは刑務所の向こうにシャットアウトされ、姿を見たり声を聴くことができないため、獄中から詠んだ俳句によりその心情を映している。

 

本作の構成や内容は以下のリンクがよくまとまっている。 

 

 

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内容と構成は想像していたよりも、ずっとスローテンポかつ温和なもので、高齢の関係者からの聞き取り・オーラルヒストリーであった。

決行当時は20代半ばだった彼ら彼女らは今や60代半ば、その親兄弟や知人となると、みんな高齢である。とは言え、まだ世代的には元気なところでもあるので、もっと当時の先鋭的な思想について、思い出し懐かしがり、当時何を目指していたか、実現したかった社会が何なのかを語ってくれるものだと期待していたが、全然違った。

 

明確な、分かりやすい言葉はなかった。

主犯格の大道寺将司の行動の原点に、日本の歴史への深く強い反省ー加害者意識があったことは前半で説明されるが、その「加害」の射程は幅広い。まず彼が生まれ育った北海道からして、出身地がアイヌ人の居住地に近かったことから差別を目の当たりにし、日本人によるアイヌモシリ侵略という歴史認識から始まっている。

彼が最も強く主張するのが、戦時中に日本が植民地支配を行ったこと、戦後は天皇がその責任を問われることもなく曖昧にされたこと、日本は経済発展の恩恵を受ける側に収まったことだ。それを「日帝」という厳しい言葉で糾弾する。他の運動家らと比べて特徴的なのが、加害・植民責任を私企業にも求めて活動した点だ。

三菱重工本社の爆破の前にも、日本帝国の象徴となるスポットを3カ所爆破している。続いて天皇陛下のお召列車を狙って荒川橋梁を爆破する計画もあったが、人に見られて未遂に終わり、この時の爆弾が三菱重工に使われている。

 

革命や思想と書いたが、大道寺将司が反省史観、植民地支配の責任の総括を強く求めるに当たって、爆破という超極端な手段を計画、そして実行にまで移したことについて、原動力となった思想的転回、何かしら飛躍を促した理論があったはずだが、本作ではあまり言及されなかった。爆破活動の先にあるべきビジョン、変革後の社会の姿も全く見えなかった。

 

本作に写し出されるのは、直接的な言明の「後」としての現在形である。何がどうであれ結果として、敵視すべきでない「一般市民」を標的にして傷つけ、殺してしまったことへの悔悟の念が句に滲む。公安やマスコミからもさんざん追いかけられ、自己批判も終わって長い時間が経ち、ただ日々を生きねばならない、誰も「語れない」という「今」が続いていること、そうした現在形の映画であったように思う。

 

本作の主要な、もう一つの登場人物が「警察」機構・システムだ。

 「語れない」のは当事者らが深い傷や悔悟を抱えたという内面的な事情だけではない。今も生きている実行者らを、外界―私達のいる「一般社会」から物理的に完全に隔絶させる、法と警察の治安維持システムが、無視できない実体として立ちはだかる。

 

後半、服役中のメンバーに面会に行くシーンがあるが、面会は果たされなかった。目の前の建物の中に、その人は生きて存在しているのに、言葉を聴きにいくことはできない。まるで死んだことになっているかのように。

2017年に「大地の牙」メンバーの浴田由紀子(えきだゆきこ)が任期満了で釈放される際も、釈放の一週間前から収監されていた栃木刑務所から東京拘置所へ移送されており、釈放の反響を懸念して警備の手厚い方へ移したのでは、と語られている。拘置所から白い車に乗って、20年ぶりに出てきたのは、とても小柄な女性だった。

浴田は「大地の牙」として爆破活動後、一度は逮捕されるものの日本赤軍派による「ダッカ日航機ハイジャック事件」で交換条件として釈放、海外に身を隠していたが、ルーマニアで身柄を拘束される。本物の闘士だ。映像からはそんな雰囲気は微塵もない。

 

大道寺将司は2017年5月、多発性骨髄腫により東京拘置所内で死去したが、その後、彼の下に届いた沢山の手紙が家族の下に送られてきた。本人には渡していなかったのである。

 

塀の外側から寄せられる声を遮断し、交流を断つ。死刑囚でありその必要はもう無いから? 闘病中だったから? 凶悪な思想犯であり影響力が不安だから? いずれも理由にはならない。ならないはずが、そのように手厚く隔離保護されている。

「国」というシステムは、一度「普通の人」として扱わないと決めたら、二度と人の世には戻さないのだと分かった。映し出される拘置所の建物はまるで、当事者らが持病なり寿命で、当時の革命や運動に関わる言説、証言が自然消滅するのをじっと待っているように見えた。

 

それは2021年現在の、出入国管理局の施設内でオーバーステイ等の理由で収監された外国人が人権のない劣悪な扱いを受け、スリランカ人女性・ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったこととオーバーラップする。

 

言説や証言を物理的に遮断して隔離し、自然消滅するようただ厳重に保護している。そのシステムが作動しているのを見た。そんなドキュメンタリーだった。

 

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( ´ - ` ) 完。