夢 × TOKYO × ダンス、ダンサーになりたいという夢を叶えるために上京して、夜のTOKYOに揉まれながら、逞しく成長してゆく少女の物語。が、想像以上に粗くいびつな、良さと悪さが極端な映画だった。
最初の15~30分で強く挫折しそうになった。
もうだめだと何度も思った。切り上げて出ようか悩んだ。なんなんだこの映画は… 冒頭の、実家の父母の制止を振り切って上京するシーンから、猛烈に嫌な予感がしていたが、予感に留まらずそのまま説明過多・使い古されたクリシェ・カメラワークの悪さの三重苦が続き、その苦しみは「ダンス」が主旋律を占めるまで続いた。
ダンサーになりたいという夢を反対され、家を飛び出し状況した少女・ユメ。行き場がないのでネットカフェを根城に、手っ取り早く稼げるキャバ嬢になるも、理不尽な大人の世界に揉まれ、危険な目にも遭いかける。しかし並行して続けてきたダンススクールでのレッスンも実を結びつつあり、技術と度胸がついて、ジャンルを越えてダンサーとして様々な場に挑戦してゆく。そして服飾を手掛けるデザイナーとソウルメイト的な感じでチームを組み、国内の大きな大会に単身出場することを決意、ソロで踊るが入賞もできず・・・
きつい。20数年前の昔に書かれた新人のプロットかと思うぐらいきつい。若者の夢の成就、TOKYOという街の描き方が鉄板の陳腐さでめちゃくちゃきつい。少女、東京、大人の世界、稼ぎ、夢、というプロット、作者がもしも『天気の子』を観ていたら、危機感や絶望感からシナリオを全て書き換えていたに違いないと思うが、どうもおかしい。
どうもおかしい、TOKYO(断じて「東京」ではない)に対する幻想とクリシェが過ぎる。
これはおかしいと思って後に確認すると(観る前に確認しとけよって話ですが)、キャストはほとんど日本人ながら、監督・脚本・編集はカナダ出身の新進気鋭の作者が務め、長編映画は初めてだという。非常に納得した。逆に日本人がこんな映画を作ろうと思っても、作れないと思う。
技術の問題ではない。
今の日本人には、「夢」を追ったり叶えたりする話は描けないのではないか。しかも東京が舞台になり得るのかどうか。極めて懐疑的だ。
私たちに夢なんかあるのだろうか。
この国で「夢」を追うこと、叶えること自体のリアリティがなく、それが幻想の物語であることを思い知りすぎている。一部の人間は放っておいても夢を健康的に構築し、そのフィクションを実現するために上昇的な努力をするだろう。現在進行形で夢のために努力している人間もいるだろう。だがそのことをガチンコで「作品」として描くことが、この令和に有効なのか。昭和~平成初期の「作品」とどうなのか、リアリティの問題とともに検討を要するところだろう。
ベタな事例としてAKB48的な集団は、リアルとしての人間であり現象であり商法でありフィクションとしての作品でもあり偶像でもあった、その重ね合わせの見事さは、3.11後の喪失や不安の中であらゆる矛盾が渦巻く中から立ち上がるに際し、「若い女性」と「夢」の直結回路の幻想を徹底的に構築しては食い尽くした感がある。対極には初音ミクもいたしな・・・彼女を駆動させるのに「夢」は不要だった。さて、残されているのは何だろうか。
日本人の若年層が抱く本当の「夢」は、夢の形をしていないのではないか。それこそ一人の、前向きかつ純粋な主人公に仮託することができない(だからこそAKB的、NiziU的な職業従事者は異常に人数が多い)。非常に繊細で曖昧な状況の中で、うまく折り合いをつけながら、生活を軌道に乗せること、それすらままならないし、夢を抱くこと自体の自己欺瞞をどう乗り越えて生きてゆくかが、現実側のテーマであるような気もする。本作の主人公ユメ(なんて皮肉な名前だ、)にはその葛藤が一切無く、その内面はコンテストで負けたり、次にチャレンジする時の、点としての喜怒哀楽の切り替えでのみ描かれている。ずいぶんシンプルな世界だ。
しかもこのコロナ禍と五輪開催予定との板挟みで、「東京」は完全に、名実ともに「夢」からかけ離れた、「現実」の戦場(あるいは見えている廃墟)としてしか考えられなくなってしまった。むしろ地方都市でくすぶりながらも働きつつダンサーとして身体と実績を作っていく方がリアルだったかもしれない。
作者がリアルなドキュメンタリーを描きたいわけではないことも重々承知だ。だがアナザージャパンとして、物語の「TOKYO」を描いたのだと断言するのであれば、それこそ『ヒプノシスマイク』や『キル・ビル』、もっと過激に『ニンジャスレイヤー』ぐらい飛躍した設定でなければ説得力が出ない。
まだある。
キャストの使い方がひどい。キャバクラ店長としていやらしい人となりを演じた高嶋政宏は別としても、主人公の父母を演じる麿赤兒と黒田育世は、その素晴らしいキャリアと能力があるにも関わらず、チョイ出で使い捨てられている。全く生かせていない。
この2人なら実家を飛び出る等の説明シーンを全て廃しても、主人公に想起として舞踏のシーンを複数回挿入すれば「断ち難い血縁」は表現できたと思う。この二人を両親に使う以上は、親子のもっと深い遺伝的な縁として絡めることも出来たろう。ベタな展開だが、主人公から遠ざけてきたはずの舞踏という人生の選択肢を、二人から受け継いだ主人公の血肉は次第に目覚めてゆき、人生が塗り替えられ、主人公は戸惑い揺れ動く…といった風にも。
だが他のキャスト、協力者らは面白かった。
実際にダンサーとして国内外で活躍する人や、それぞれのクラブ、アンダーグラウンドな現場に携わる人達が登場するので、東京の夜の構造を支える強度は保たれていた。
冒頭に「良い面と悪い面が極端」と書いた、良さの面というのは、そうした「東京」の夜のシーンのドキュメンタリーとなっていた点だ。
主人公がダンスを夢から生活へと急速に血肉化していく過程では、ダンススクールとクラブ、アンダーグラウンドの現場へ積極的に身を投じていくが、ここは創作や憧憬ではなく現実の場が映し出される。全体から見ると、物語創作のパートと現実寄りのパートが滅茶苦茶に雑に繋がっていて気持ちが悪いので、これが監督の狙いなのか、力不足によって現実の空気が勝った結果がドキュメンタリーぽくなっただけなのかは分からないが、しかし良かった。SM・フェティシュバーでの踊り、ハードコアの鳴り響く中でのパフォーマンスはとても良かった。鍛えられた現場の人たちの立ち姿は良いものだ。
音楽がいい。現場の生き血をそのまま持ってきたような、鮮度の高い音と光が炸裂する。それが目当てで観に行ったところもある。
主人公ユメはこの時、よきナビゲーターとして観客を東京の様々なジャンルのシーンへと誘う。正直言って、夢や自己実現や諸々の説明を削除しても、このダンスシーンの質感と陰影と音楽の幅広さをうまく繋いでいくだけで「作品」として世界観が出せるのではないかと思う。一曲あたりもっと長くて良い。ずっと光と音を繋ぎ合わせていけばいい。ちゃんみながどれだけヤバいか、Hospital Recordsのドラムンベースがどれほど美しいか、ハードコアがどう脳髄に優しく伝わるのか、それらに人間はどう身体を合わせていくのか、肉体は何を応答させるのか。こうした音楽の陰影と重量と速度感そして身体の反応はYouTubeやiPhoneの平面的な再生では絶対に伝わらない。映画館という立体空間にはそれができる。だからそれをやるべきだと思う。
こうした諸々のことを、主人公ユメ:仲万美(なか ばんび)は一身に引き受ける。配役としての演技をしながら、終盤では長いソロのダンスを繰り広げる。シナリオとカメラワークが滅茶苦茶なので仲の演者としての演技力や雰囲気がいかほどかは分からなかった。
それはある意味で正解で、主人公ユメのキャラに起因している。先述のようにユメには、こちらが感情移入できるだけの内面や個性が特にない。ダンサーとしてデビューし、大きな成果を得たいという漠然とした、しかしシンプルで強い欲求だけで生きている。初期ドラクエの勇者のようにニュートラルなのだ。
それは周囲の様々な関係者らの個性を引き立てていた。各現場の内部へと観客を招き入れるナビゲーターとして機能していたこと、すなわち本作にドキュメンタリー的要素があったということと結び付く。これは繰り返しになるが、作者のキャラ構築が甘いための予想外の結果なのか、仲万美に固有のニュートラルさ:ダンサーとして長年活動してきた身体能力、周囲の状況や流れに合わせられるという資質ゆえなのかもしれない。
もしも仲万美という個体が、ダンスに対して尋常ならざる執着や欲望を孕んでいたとしたら、どうだろうか。監督の思惑やシナリオを食い破るぐらい露わになったら面白いだろうと思う。あのカメラワークではその発露は捉えられないかもしれないが・・・
それは「なぜダンスがあるのか」という問いに繋がっていくからだ。ある種の人間には、体の内側にビートへの猛烈な反応を示す何かが埋まっている。それが何なのかを知りたいと思う。
色々悶絶しながらの2時間だったが、「日本人にとっての夢とは何か」と「なぜダンスは踊られるのか」という問いを得たので、よかった。
( ´ - ` ) 完。