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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【演劇】中野劇団「10分間2019~タイムリープが止まらない~」大阪公演 @HEP HALL

【演劇】中野劇団「10分間2019~タイムリープが止まらない~」大阪公演 @HEP HALL

たいへん珍しいことに、演劇をみました。超おもしろかったです(笑)。「10分経ったら時間が巻き戻る」という「理不尽」をいかに突破するか、というゲームを体感しました。

※以下、ねたばれのためご注意ください。

 

(1)\(^o^)/ 本作の概要 

本作はタイムリープという、時間が過去に巻き戻る現象(正確には、意識が時間を”跳躍”して遡る)を扱った作品だ。2006年初演、2010年、2016年と上演実績を積み、今回は大阪・東京の公演と相成った。

 

感想として、大変スリリングで面白かった。「演劇」という、物理的には一方向にしか時間が向かわない即興の世界の中で、「巻き戻し」という設定の妙、現象の恐ろしさ(笑)を痛感させてくれたことと、その事態解決の模索の面白さがつぼに入った。

 

場所は居酒屋。大学時代の映像研究部の同窓会で、メンバーが集まってくる8時50分から9時までが舞台である。他愛もない会話の最中、9時を迎えるタイミングで主人公・聖子が強烈な頭痛に襲われて意識を失い、暗転、そして8時50分から場が再開される。

主人公以外の登場人物や店員は時間が完全に巻き戻っていて、何も覚えていない。この場で記憶を継承しているのは、ひとまず聖子だけである。

この現象が延々と続く。作中では描写は省略されるが、聖子は通算40回も巻き戻されている。日常景から観客もろとも、「理不尽」なゲームにいきなり投入される。観客がのめり込んでいたのは、本作が優れたゲーム性に基づいていたためだと考えられる。

 

(2)\(^o^)/ ゲーム性 

一点目のゲーム性は、「条件を満たさなければ10分前に巻き戻される」という、シンプルなルールの設定である。裏を返せば「条件を満たせば円環を突破できる」という「攻略」を意味する。

タイムリープの設定は、今や多くの人が共有している「お約束」だろう。作中でもそれを取り扱った映画「時をかける少女」や「All You Need Is Kill」などとエロゲの話題が出る。個別の作品に限らず、ゲームという仕組み自体が一つの大きなタイムリープとも言える。ゲームでは、プレイヤーが攻略に失敗すると、登場人物はセーブ地点にまで戻され、プレイヤーは再び同じ環境・物語を経て、ステージ攻略に挑むことになる。

ちなみにゲームでざっくり言うならば、本作はドラクエ方式の死に方(前回セーブポイントまで戻されるが、レベルや経験値、習得魔法など主人公の成長は継承される。ただし持ち金は半減し、仲間は死亡扱いになる。)に近い。FFシリーズだと主人公の成長は継承されず、総リセットされる。ドラクエでは、プレイヤーは「死んで覚える」ことに加えて「死んで強くなる」ことが可能だ。聖子は蓄積される経験と、毎回の失敗から学んだ解決策を次々に繰り出し、閉塞した事態に立ち向かう。

ゲーム性の高さゆえに、観客は特異な状況もすんなり楽しむことが出来る。ただしゲームと異なり、疑似現実である舞台上では、作中の主人公はゲーム内主人公とプレイヤーとが重ね合わさった存在であり、一人称としての心身を有する。そのため聖子は、理不尽な繰り返しに戸惑い、苛立ち、疲弊し、半ば発狂に近い状況も散見される。コミカルながら、事態は切迫している。それゆえ、円環を破れそうなヒントが提示される度に、観客は感情移入を深める。

 

二点目のゲーム性は、主人公・聖子の課題解決のプロセス、すなわちゲーム攻略の妙である。

ノーヒントで放り込まれた理不尽さに抗するために、聖子は様々な工夫を実践する。中でも最大の見どころが「無駄話のカット」である。

本作が優れているのは、日常会話がいかに「無駄話」から出来ているかという、話法の構造を踏まえている点だろう。コミュニケーション上は無駄なものなど無いのだが、僅か10分間で事態を解決しなければならない当事者にとって、「無駄話」は最大の難敵である。観ていてこっちがハラハラするぐらい、全く意味のない(通常は意味があるが、非常時には全く要らない)言葉の応酬が怒涛のように押し寄せる。

この無駄話、聖子にとっては厄介極まりないノイズだが、当人らにとっては一期一会なわけで、極めて大きな「理不尽」となって立ち塞がる。可能な限り情報を先回りで手渡し、不要・不測のシーンを減らしてゆく、課題解決のシーンが一番の見どころで爽快なのだ。ただし逆に別の不要なフラグが立ったりして、その予測不可能さがまた痛快だ。

 

(3)\(^o^)/ ゲームの「攻略」

以下に「攻略」のプロセスを振り返る。

最初の段階として、聖子は超常現象すぎる事態に狼狽しつつ、自身の置かれている理不尽な状況が「タイムリープ」という、名前の付いた現象であることを突き止める。言わば、状況把握と現象の定義のために費やされる。この労により聖子は、タイムリープがSFなど創作上の設定である、すなわち「ゲーム」(=攻略可能な世界)であることに辿り着く。

次の段階として、ゲーム攻略のための情報を収集・整理する。更なる情報を得るために、必要なイベント発生のフラグ立てを模索する。フラグ立てに失敗した回では、時間内に必要な人物が登場しない、情報が得られないなどの「詰み」となる。実際に聖子が「”今回は”捨てた」と投げ出すシーンが見られる(これが実にシュールだ)。

聖子以外の登場人物はタイムリープ現象を共有していないことから、2周目以降は同じ行動を繰り返すだけの存在、主体のない、ゲームのサブキャラと化してしまう。放置すると延々と脊髄反射で、その場のノリで盛り上がって時間を消費してしまう。よって聖子独りが制限時間内にフラグを立てなければ、次の展開が発生しない。このプロセスもハラハラする。

なおこの段階では、「タイムリープ」という現象の当事者( ≒ 被害者)であることを周囲に訴えても、理解や共感が全く得られない(当然だが)。そこで聖子は諦めを付け、やり方を大きく変更する。自分は当事者だと訴えることをやめ、「タイムリープものの創作をしているので力を貸してほしい」と、「協働」へ論理をすり替えるのだ。見事だった。

 

3段階目にあるのは、登場人物らが負うドラマ(過去、物語性)の発露とその対応だ。

ゲーム攻略の条件は、当時の映研メンバーで、当時のタイムリープをテーマにした作品構想を映像化すること、すなわち表現の呪いを解除することだった。が、このことが判明するあたりで、最大の難関が訪れる。過去、現在の人間関係、事故…登場人物らの生身の人間としてのドラマである。

中盤、聖子はもう一人のタイムリープ当事者である男性と偶然出会い、急速に攻略の糸口を掴み始める。それまで理解不能なマイノリティに過ぎなかったタイムリープ経験者が、場の主導権を取り返してゆく。事態の予測不能性は次に、サブキャラだったはずの他の登場人物らに降りかかり、個々人のドラマが明らかになる。

ドラマはゲームと相反する。ドラマは基本的に過去に基づく文脈であり、個々人の主体を伴う。つまり攻略という概念が当てはまらないのだ。

個々の事情はコアで、まともに向き合うとどれも10分で解決できない話ばかりだが、聖子はそれらに深入りせず、前を向いて「映像作品を作ろう」という話にメンバーを団結させることに成功する。そうして円環は解け、呪われた9時の一線を無事に突破することが出来た。

 

(4)\(^o^)/まとめ 

かなりネタバレしているが、相当省略している。詳しくは本作を実際にご覧ください。

 

とにかく本作は笑いの要素が強いのである。よく笑わせていただきました。では鑑賞者は何を笑っているのか/ 笑わされているのかというと、日常における「無駄話」のあまりの多さ、そのナンセンスさにシニカルな笑いを惹起されていると思う。

 

本作があぶり出す「話」(会話、発話)は、粗々でまとめると、①手続き、②反射、③情報、④意思、⑤意志、と考えられる。

うち①と②は基本的にゲームの足を引っ張る阻害要因であり、③を得るためのコストカットの対象である。だが③も、初回は重要でもそれ以降は繰り返しのコストと化す。④は、同じ目線に立つ人間がいないと疎通が成立せず空振りとなるが、仲間を得た時には前へ進むための原動力となる。

この①~④を巡るやりとりが秀逸で、場の手綱を緩めた際の①と②の散らかり具合は全くひどい(笑)。案の定ひどく、笑いを誘う。それを20回30回と繰り返されている人がいたら実際発狂すると思う。その禁断のシュールさが笑いになる。

 

⑤がまさに、タイムリープの円環を解く鍵である。未来へ向かって踏み出すこと、その決断を共有することが、呪われた10分間からの解放(=新たな創作活動 / 次の呪いへの踏み出し)となる。 

中野劇団は、社会人により構成される劇団だという。詳細は分からないが、表現活動に100%。120%、200%専念したいという夢と、食い扶持の確保のためという現実との兼ね合い、葛藤は多かれ少なかれ、踏み越えてきたのだと察する。今もその問いは尽きないかも知れない。それゆえにこうした、20代前半に滾らせていた熱いものが無意識のうちに呪いと化すこと、その呪いを解くには、社会人であろうとも表現活動に踏み出せば良いではないか、という物語を生み出せたような気がする。

作中で奇しくも「自分たちが大学時代はフィルムで映画を撮っていて大変だったが、今はスマホで誰でも映像が撮れる」と感慨深げに言うシーンがあるが、まさに現代は、「表現」と生活を両立できる時代であるという伏線にも読める。

 

 

(5)\(^o^)/ 真・まとめ ~育児・自立との相関性~

しかし本作を観てつくづく感じたのは、これは育児、子育ての話と類似しているということだった。

 

タイムリープ、10分間、居酒屋に固定された場面などの設定からすると、演劇論・文学論によって語られるべきであろうし、優れたゲーム性からは、ゲームの文法によって語られるべきなのだろう。

が、私には、終わりなきリセットとリプレイの円環の中で毎日を過ごさなければならない「母」(=大人の女性)が、現代において直面している社会的・家庭的課題を戯画化しているようにも見えた。

周囲の登場人物は、基本的に全く使い物にならない。記憶のリセット、反射的な驚きと笑い、コミュニティへの帰属意識と愛着、事態への完全な無理解、それらの果てしない繰り返し。全ては子供の生態である。

この事態は、「主体」を持った女性独りが奮闘しても、打開不可能であることが描かれているのではないか。子供への理屈による説得は通じず、怒っても無駄。疲れ果てても無駄。何をしてもミニマルなサイクルが繰り返される。休息の暇もない主人公の様子は、とても生々しい。

 

事態を救えるのは、同じ痛みを負いながら女性の側に立ち、ニュートラルに事態を見つめられる経験者である者(=大人の男性)に他ならないことも、本作では示されている。

物語中盤で登場するもう一人のタイムリープ当事者の男性はまさに、育児の痛みを経験・共有している最中の「男性」として機能する。設定上とは言え、バニーガール姿や口紅を落とし切らない姿で毎回登場し、また、タイムリープ発生時に彼が尻(肛門?)に激痛を覚えるのも、女性の痛み(性的消費の対象となること、出産や生理の痛みを身に負うこと)を共有し引き受けていることのメタファーだろう。作中の人物が急いで移動してきた際、この男性の股ぐらをくぐりぬけて来たというエピソードもまた、出産のメタファーと映る。

このタイムリープの男性は、他の男性らの騒ぎを見事に、不器用ながらもきちんと鎮め(毅然とした態度、強引さ、時に下手糞な苦し紛れの嘘も駆使して)、本題である「タイムリープを解くこと」に場をまとめ上げている。彼の奮闘は、子育ての難しさと、困難にも体当たりで挑んでいく父親を思わせる。

彼はこの場において、部外者である。映研の主メンバーの兄弟ではあるが、映研とは無関係で、同窓生らとは何の面識もない。そして表現とも無縁である。血縁だけは有しているが、同じ目線を何も共有できない存在という立ち位置は、まさに父権、大人の「父親」として機能する。(それゆえかこの男性は、一切無駄口を叩かないし、ラストの大団円の中、車座にも加わっていない。)

 

つまり、大学の映像研究部という帰属先は、「子供」の領域を意味すると言えよう。

なお、ラストには第3のタイムリープ体験者である男性(映研のメンバー)が円環の解除によって場に登場するが、彼はずっとトイレに閉じ込められていて、延々何時間も排泄をしていたという。これはまさに乳幼児である。

同様に、突破口を切り拓く最大のヒントをもたらす映研の男女二人組については、恋愛関係にある。が、周囲には自分たちの居場所や関係を隠しており、呼びつけられたり趣味の話に釣られて初めて場にやってくる。しかも男性側は女性に妻の存在を隠しており、実質的には不倫関係だ。二人はただ大声でわめき合う周囲のメンバーよりも、数段「大人」としての立ち位置を獲得しているが、セルフィッシュでナイーブな関係性は、心は子供だが性的には一歩進んでいて、家に帰ってこようとしない高校生を思わせる。なぜこの2人だけが若干大人として描かれるかというと、映研時代の作品構想を数日前に二人で先んじて映像化してみた(という口実のプレイかも知れないが)からだ。

 

彼ら・彼女らは、表現・制作という呪いにかけられた子供たちである。では、解呪、すなわち「大人」になるとは、何か。

表現をすることである。

表現を志した人間は、表現を全うしない限り、それからは逃れられない。つまり、いつまでも自立した「大人」にはなれないという、強烈なメッセージを孕んでいると言えよう。

 

表現とは、作品の社会化である。

形に出来ていなくても、作るための一歩を踏み出すこと、社会にコンタクトすること、その行為自体が不可欠だと本作は言っているようだ。作中では、映研時代の写真をまとめたアルバムをめくっていたところで、当時の主人公自身が書きつけた言葉が目に留まり、恐らくそこから10分間タイムリープの呪いが発生した。

 

理不尽なゲームの攻略。表現行為と、今をどう生きるかというテーマ。そして家庭や子育ての問題。これらが折り重なって、居酒屋という日常の場がスリリングに練り上げられている。

 

私は自分の家庭を持っていないが、折に触れて周囲から聞く「家庭を持つこと」、特に育児に関する苦労やその攻略法は、本作の描写、演技と何か重なるところがしばしばあった。その意味で、タイムリープというよくあるSF設定を用いながらも、現代の家庭・育児マネジメントに関わる社会的なテーマに重なり合う作品だと感じた。

 

タイムリープ当事者の男性一人が、聖子よりも先にタイムリープを抜け出したことが発覚するシーンがある。その際に、聖子の見せた見捨てられ感は、先に子育てを卒業した夫に対し、妻が見せる名状し難い表情を思わせ、ぞくりとした。

 

あー面白かった。なみだでた。シンプルに非常に面白いので、鑑賞に当たっては、めっちゃ笑っていたらそれでいいと思います(笑)。みんなガンバ好きすぎやろ(笑)。 イニエスタ。 

 

HEP FIVEは10代ぐらいの若い女子が多かったので、おばちゃんはそそくさと逃げて帰りましたとさ。ウボァー。

 

( ´ - ` ) めでたし。