nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2024.5/25-6/14_みょうじなまえ「I'll give you a name」@N project

バタイユ「非生産的消費」、ポップな花、記号合わせ ― アイデンティティーの同定を巡る営為。

 

 

先に京都のグループ展を見ていた。

京都の四条と五条の中間あたりに立つアートホテル「BnA Alter Museum」で開催中だった、アーティスト・イン・レジデンス企画成果発表展「AIR3 SCG」(R5.10/14~R6.6/16)にて作者の作品に出会い、「家族」の在り方について問いを投げかけられた。ミニチュアの家や柵を置いたり退けたりし合う「家」の陣取り合戦のような映像作品と、それまで姉とパートナーとの3人暮らしだったがレジデンスで京都に出てきた間に残してきた2人が険悪な状態に陥り、更に事態は…という、作者の身に起きた「家族」を巡るエピソードが、非常に刺さるものだった。

安定的かつ永続的に「あって当たり前」「かつ、平和」と思っていたものが、実は緊張感と絶妙な綱引きの力関係にあったことを思い出させられる内容だった。

 

明確に思い出せないが、みょうじなまえ作品には他にも、これまでどこかで出会っていたはずで、アート関連の展評なりを読んだことがあった。フェミニズムの文脈から男性優位の目線で囲われた「家」「家族」について、解きほぐして疑問符を投げかけるようなスタンスだという薄っすらとした理解がある。アーティスト名からしてその通りで、与えられた性と名が何であるか、誰がそれを与えるのか、という記入欄になっている。

 

だが「AIR3 SCG」で作品に接したとき、「フェミニズム」という言葉が一周回って邪魔に思えた。もっと性に囚われないレベルでの人間関係を扱っており、他者と呼ぶには近すぎ、親族として包むにはもっと微妙な距離の遠近を伴う複雑な関係、そんな中で「私」(=作者)にとって「家族」はかけがえのない場所であり、また作者自身はその一部であり、そのため関係性の在り方に当事者として悪戦苦闘する・・・これはフェミニズムというよりも、社会生活、人間関係の泥臭くもコアな本質を全身で描き出す関係性の試行と思考の表現なのだと知った。

 

本展示「I'll give you a name」も、ギャラリー入ってすぐに目に飛び込む知育玩具のような木のおもちゃの家で、反射的に察するところがある。――フェミニズム的観点からの「家」「家族」解体作業、男性優位の枠組みの批判と解除。だが家の形と合わないパズルの図形は性別の強弱・善悪を問わない(そもそも「みょうじなまえ」という氏名が既に性別を無化している)ままに、もぎり取られた花のように部屋の片隅に置かれている。

 

後に「花」パレスチナガザ地区から由来していることを、奥の部屋の映像作品で知る。本作の問いかけはもっと深くて広い。「私が私として暮らしていること」「その安全圏での暮らしの中から知らない他者を想像してしまうこと」について問うものだ。

 

映像作品で言及していたのは恐らく下記リンク、2013年4月の記事だろう。パレスチナガザ地区は欧州への輸出のためにカーネーションなどの花の栽培を行ってきたが、イスラエルによる禁輸措置のために花が出荷できず、仕方ないので家畜の餌にしたという内容だ。

www.afpbb.com

 

ガザ地区ハマスイスラエル、などという言葉を見聞きして真っ先に、反射的に思い浮かぶのは2023年10月の音楽祭襲撃以来、果てしなく続くイスラエルからのパレスチナへの徹底的な軍事攻撃であり、パレスチナ側で輸出品として生産されていた「花」に焦点が当てられるとき、なおさら喚起されるのはパレスチナの一般人の暮らしである。

 

何も知らない人たちの暮らしや生存について想起が及ぶときに、半自動的に働くアイデンティティーの同定とは、これまで与えられてきた政治的な情報とイメージが元手となっている。ただでさえ縁遠い中東の国、日本にとってはアメリカをはじめとする西欧諸国との付き合いもある中で、「パレスチナ」を巡る位置取りはシンプルではなく、庶民の生活のことは知る由もない。

パレスチナ」という名称と、恐らく敵対する西欧諸国側のメディアから与えられた映像イメージ映像:ミサイルで蹂躙された瓦礫の街、血を流す被害者、安全を求める避難者ら、それらに合わせられるイスラエル側の釈明・表明… とがあまりに緊密に結び付いている中、様々なフォルムで表出された「花」は、無意識のレベルでなされるアイデンティティーの同定を揺さぶるだろうか。あるいはその奥へと歩ませるだろうか。

木の家(キューブ)の内側で枯れて散った花々は、「だいたいこんなもんでしょ」という安全圏からの想起とレッテル貼りを食い破って、現実の状況へとイメージを強く引き寄せる。

 

ただし本作のステートメントで第一に言及されているのはバタイユの「非生産的な消費」である。本作はパレスチナに限った話ではなくアイデンティティーの付与、レッテルによって型にはめること、その流通など幅広く全般的に扱っており、その一部としてフェミニズム的な指摘も当然のように包含されている。

枯れて散った花だけがひどく現実的で、それ以外はどれもポップな色味と形が前へとせり出した姿が特徴的で、特に中央の図形の穴の開いた箱(キューブ)はまさに意味や生産を成さない遊戯行為そのものと、表象からして「非生産的な消費」を体現している。

 

「非生産的な消費」とは何か?

「生産的消費」、すなわち一時的な損失を伴うも生産に繋がるような消費、何かを生み出すために労働力や原材料を消費すること、に含まれない各種の多様な消費が挙げられていて、芸術や供儀、そして戦争が事例として挙げられている。

奢侈、葬式、戦争、礼拝、荘厳なモニュメントの建設、賭け事、芸術、倒錯的な性活動(つまり生殖の目的からはずれた活動)のことなのだが、これらの活動はどれも、それ自体のなかに目的をもっているのである。

バタイユ『呪われた部分 Ⅰ 消尽』(1933))

 

旧来の経済学において重要視されていた、人間が労働し生産性を高めるための消費から、消費そのものが生産において目標となるようなもの(=蕩尽、消尽)が、バタイユのいう「非生産的消費」の肝となるが、作者が引用するのは経済学的見地というよりも、戦争も芸術も宗教も正・負ひっくるめて「消費」として同列に並べる、「非生産的」さの領域の幅広さ。

ゆえに思考と想像の広汎な可能性があり(戦争と経済と芸術を無作為に並べて自然と相関させ想起することが可能となる)、同時に、そうする限り私達はあまりに大きな「消費」の枠組みに囚われたままであることに注目したためではないだろうか。

 

作品にはジェンダー、貨幣、交換、生と死、ポップ、大量生産と消費、記号、照合、引用、様々な諸要素が並置され提示されている。冒頭で紹介した花とパレスチナガザ地区の話題はコアな要素ではあるが展示は反戦的な主訴を持たない。アイデンティティーを巡る日常的な想像と創造の営みという「非生産的消費」がどこまで連綿と半自動的に繰り広げられているかの問い掛けである。

 

作品の見た目のシンプルさポップさに反して、非常に挑発的な問いかけだった。

 

 

( ◜◡゜)っ 完。