写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【KG+】「Play - Play a playback mark」(再生ー再生マークを再生する)川瀬賢二 @Lumen gallery (ルーメンギャラリー)

【KG+】「Play - Play a playback mark」(再生ー再生マークを再生する)川瀬賢二 @Lumen gallery (ルーメンギャラリー)

観客は「作品」を探し求めて、作品の上をタップする。

【会期】2019.5/7(火)~5/12(日) 

 

◯に横倒しの△が合わさった例のマークを見れば、誰もが「再生」させようと指でタップする。この、デジタルが内在化された習性は、もう止められない。

作者の企みは、私たちに深く埋め込まれてしまったWebの身体性を刺激し、引き出させることにある。ゆえに作品は固形の美術品ではなくトリガーとして提示される。

暗い会場の床から伸びたアームの先に、固定されたタブレット端末が光り、食虫植物のように来場者が触れるのを待っている。 

写真展と呼ぶには一見、奇妙なこの展示において、「写真」は制作プロセスに過ぎず、なおかつインターフェイスの疑似餌として機能する。「作品」に辿り着こうとして鑑賞者はタップを繰り返す。だが玉ねぎの皮を剥くように、私たちは「作品」に辿り着けない。ひどく薄いインターフェイスの界面を彷徨う。 

これらの〇と△が映し出された画面は、ただの写真である。動画は再生されない、もしくは静止画に擬態した動画が流れる。さらには、表示される再生マークは全て、Web側ではなくこちら側の世界で手作りされた、再生マークを模したオブジェクトだ。作者はこちら側の世界において、大小様々なサイズの再生マークを仕込む。窓に貼り付け、床や廃材や他人のガレージに設置し、作者自身で手持ちしては、その光景を写真に撮る。それらの写真が液晶画面を介して見られる時、インターフェイスのルアーと化す。

私たちの指先はいとも簡単にルアーに喰い付く。来場者は、自ら能動的に鑑賞しているつもりでいるが、その実、インターフェイスの訴えかけに誘い込まれていて、身体がいかに出来上がってしまっているかを試されるのだ。

 

本作の面白いところは、画像が自身の不完全さ、自らを「偽」と明かす点にある。

何枚か「写真」をめくっていくうちに、タブレット中央に表示されている再生ボタンが、どこか形がいびつだったり、背景との重なりが微妙であることに気付くだろう。確信犯的にチープな手作り感を残したマークは、程なくして偽物であることを鑑賞者に気付かせる。性的なサイトの埋め込み動画のフェイク(ただのリンクやポップアップ)のように、不鮮明なマークを思わせ、明らかな釣りである。

風景をWebアプリケーションへ転換させる企ては、完璧に擬態するのではなく、程よく・計算高くスキを残して見せることで、Web世界と物理世界との「ズレ」、私達の反応の「ズレ」を生じさせる。前者は風景とWeb画面との分節をブラし、後者は「おかしい」「これはボタンではないかもしれない」と薄々気付きながらも、次の画像を期待しタップする指を止められないと、理性と習性とをブラす。

二つのズレにおいては、眼前の光景をWebの動画コンテンツと見なしてゆく動きと、Web動画から再び現実・物理的な光景へと引き戻す動きの両方が拮抗している。その揺り戻しの力に酔うことを、鑑賞者は「面白い」という感想に置き換える。

 

作者によれば「写真をプリントで見るよりも、モバイル画面で見た方が再生ボタンとして感じられる」そうだ。

一見、頓智の効いたアイデアマン、CMプランナーのようなクールさがあるが、考えてみてほしい。近所に住んでいるいい歳をした男性が、白昼堂々、顔よりも大きな再生マークらしきものをかついで町内をウロウロしているところを。しかもクライアントもいない。

 

不審と言うより、もはやテロリストである。

 

こちら側(物理)と向こう側(Web)との間仕切りを混乱させ、リアリティの秩序を脅かす実践者としての側面に注目するならば、作者の行為は挑発、かつてのハプニング的な、「アクション」の性質も否めないのではないだろうか。行為は写真の外側で行われ、しかし写真でしか記録・証言できないものとして刻まれてゆく。

だが行為は公共の場において演じられるのではなく、観客の指先と液晶面の間で発生する。アプリケーションを押しているのか、作品を押しているのか、デバイス自体を押しているのか。押して動いているのか、押しても動いていないのか。境目はだんだん怪しくなる。

 

そうして、鑑賞者のタップの行為だけが浮き彫りになる。作者の手を離れた、極めて私的でミニマルな行為――Web習性の抽出こそが、川瀬作品の見どころだろう。

今後、作者が何を挑発してくるかが楽しみだ。日常生活の多くは、アフォーダンスを超えて約束事の洗練と列挙によって成り立っている。約束事と機能から宙吊りになった刹那、まるで猿のように、私たちの動作と肉体は取り残される。

だがタップ行為を引き起こすのは、Webのインターフェイスのデザイン性や、Web生活で培われた習性だけではない。その奥には、明らかな釣りの再生マークを、それでもタップし続ける原動力があろう。目の前にある三角マークの指す方向、まだ見ぬ次の映像を「見たい」という、見ることへの飽くなき欲求がそうさせているのではないだろうか。

 

その欲望こそ「写真」の真の姿であるように思う。

 

 

( ´ - ` ) 完。

 

 

ちなみにすぐ隣の「galleryMain」では、須田一政《犬の鼻》展示中です(5/19まで)。

わあい。 

( ゚q ゚ ) 明らかにいい。いい。なんでこんな日常のスナップが「濡れて」いるのだ。どうかしている。凄い。

 

( ´ - ` ) 完。