nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】劇場版 少女 歌劇 レヴュースタァライト

Twitterで本作を劇推しする超熱の投稿を見たというだけの理由で、観に行ってきました。予備知識なく、TVアニメを見たこともなく、ただ「Twitterで凄いと言ってる人がいたので観に行ってみた」というだけで、その後も調査等なし。人体実験レポと思ってお読みください。

 

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自分が何を観ているのか分からなかった。アニメを観ている、だが何のアニメ?? アイドル?演劇?で将来大成しようと懸命になっている十代の少女らの、夢と希望と格闘の話である、はずだ。はずなのだがしかし現実社会が暗転、時空が飛んで、異世界の舞台上で戦闘シーンとなる。

 

私はアイドルや美少女が体質的に苦手で、夢や希望を追う十代の子が苦手で、そんなものを見るぐらいなら、ディスカバリーチャンネルの「サバイバルゲーム」でいい年こいた全裸の男女が火を起こすだけで悪戦苦闘するのを見てる方が楽しいのだが、下記のTwitter投稿に異様に触発されて、その。

 

そんなわけで観たところ、現実の学園生活と異世界への激しい転換、かつ、意味不明な暗喩と直接描写の接続と切断の連続を映画としていた。なにこれ。ほんまなにこれ。

夢・将来を懸けて、聖翔音楽学院第99期生3年生同士9名が「レヴュー」を繰り広げている、それが命を賭した戦闘の形で描かれている、というのがどうやら本作で描かれていた状況のようだった。ちなみに「レヴュー」とは批評・評価の「review」ではなく「revue」、時事的・大衆的な舞台演芸のことだ(語源を辿れば同じの模様)。

 

戦闘は、様式美、見栄切り・口上に特化した、まさに舞台演出・構成の一環としてのもので、交わされる刃も、本当に命のやり取りをするかに見えて、それも演技―比喩的な行為だった。キルラキルを思わせる1対1の刃の対峙(特に主人公と、幼馴染の二人は髪の色や形、ビジュアル的にも似ている)は概ねポーズに終わり、斬撃の鍔迫り合いは命の取り合いのためではなく、互いの意思・威勢・ハッタリ・本音をぶつけるための、舞台上でのアイドルの叫びとして交わされる。刃すら舞台装置なのだった。最後は腹部に刺してたけど、吹き上がったのは宝石のような光だった。相対する二者間の、自我・内面同士の絶対領域なのだろう。

なお、本作の登場人物らは一切「アイドル」という名詞を使わないので不本意だが、あまりに立ち振る舞いと演出がアイドルのそれだったので、そのように呼ばざるを得ない。宝塚とも言えなくもないが。許してくれ。

 

戦闘の確実な決着方法は、マジモードの戦闘時に羽織る舞台衣装(前掲の画像を参照)の、肩の付け根あたりある金色の大きなボタンを武器で吹っ飛ばすことだ。これで「オーディション」勝ち抜きで、その先へと進める。らしい。リアルバトルではないため、実際に何が勝敗を分けているのかは不明。

しかも劇場版なので、これまでTV版で積み重ねてきた勝敗のドラマや力量差も不明。最も醒めてて最強ぽかった主人公が余裕かましてたらあっという間に押し負けたりしたんだが、それはそれで次の戦いに行ったりするので、何がなんやら分からない。昔のDBZのような、単純な直線的撃破ではないらしい。なにこれ?? やはり戦闘=個々人の人間関係の話??

 

しかし本作は、十代の少女らが夢・将来を追っているようには到底見えない不穏さに満ちている。それこそ『まどマギ』的な不穏さというか、鵜呑みにできない感じ。幾重にも張り巡らされた演出上の心理トリックに嵌まっていたのは間違いない。

日常、家庭内と学園生活をベースとしながら、唐突に切り替わる舞台・戦闘シーンは、とかく不穏さに溢れている。これまで見てきた様々な作品のセオリーを反射的に思い出させられる。具体的にはベタながらまどマギ』の連想。暗転し、特殊な空間に移行し、少女らが武装するときには、リアルに命・存在を賭けた戦いの場面であり、事態は不可逆で、何か大きな代償と引き換えに(あるいはもっと不条理な、代償を払わされるだけの)やりとりが発生するのだと予感せずにはいられない。

「ワイルドスクリーン・バロック!」と開幕(戦闘)宣言を繰り返すトリックスターであり進行役のキリンも謎だし怖すぎる。地下鉄から否応なしに戦闘の舞台に転換される。なにこれ。「列車は必ず次の駅へ、では舞台は?」知らんやん。怖いわ。そうして現実社会の描写からシームレスに移行する。当人らの合意によってではなく、メンバーの誰かがレヴュー(=対決)の意思を仕掛ければ巻き込めるということか? スターになれた1人を除いて他の子らが廃人になるか現実世界に帰ってこれなくなるのではと不安になる。

 

最初、本作は、本作の世界・社会の裏側(コア?)に「演劇」の血生臭い舞台が格納されてるの? 少女らが命を賭して戦うことで、「現実」が正常稼働しているのか?と思っていた。まどマギ的な発想で。そういう構造ではなかったが、あながち大外れでもなさそうだ。

観客の存在だ。

作中の舞台(戦闘)には観客がいない。誰からも切り離されたところで少女らはレヴューを繰り広げる。だが中盤でそこが「舞台」であり、スクリーン内部から見た時の外=観客席であるこちら側=観客に気付く描写がある。

見えない観客の存在を想定しながら、没頭される仲間との命のやりとりは、その熱い本音の死闘、アイドルが「スター」の座を巡って争う終わりなき戦い(演技・演出だけでなく人間関係の機微も含めて)を、無名の観客が消費することで、この世界が回っていることの証左なのだろう。

 

テンションの高いキリンだけがそれを熱い眼差しで牽引する。そもそもそれ以外に男性的存在がいない。多感で未来に開かれた少女らの聖域であり、男性性の関与しない――いかなる既存の権力構造も立ち入れないところで、それは繰り広げられる。

キリンは逆に自身を糧として差し出す。アルチンボルドの絵画を模した、野菜の複合体となって、揚げ句に自らを焚き付けとして投じたいと言う。燃えるキリンと砂漠の取り合わせはダリのそれだし、あくなき蕩尽の果てにアイドルの熱戦を観たいとするのはヲタの信条だろう。

もっと言えば、既存の権力はそのレヴューを外側から凝視している私達であり、私達が観客としての欲望から関与・参加する以上、アイドル的存在である彼女らはキリンの掛け声とともに舞台が幕開けることに抗えない。夢や希望だけでなく私生活、悪感情、過去のいきさつ・運命の出会いなどすべてをひっくるめて、それは舞台の外側から消費される。

それを織り込み済みのもとで少女らは戦い、作中で本当の社会の「オーディション」へと歩みを進めていく。エンドロール終了後に少しだけ流れたカットでそのことが伝わった。

 

 

主人公の立ち位置が分かったようで分かってないです。

進路希望も特にないし、虚無的な声と表情の場面も多かったから、他のメンバーと違って明確な「私」のなりたい像がなく、ただ5歳のころに出会って演劇の道に引き込んだ黒髪の友人のことを追い続けてきたんだろうなと思った。思いがピュアすぎて逆に真空状態になったのか。

「ワタシ再生産」という電飾のアイコンが終盤何度も登場する。それが主人公を生かしているテーゼであるとすると、本作は徹頭徹尾、自分による自分の為の自己突破の物語であって、男子の目から社会や世界を極小化させるセカイ系」に反する「ワタシ系」とでも呼ぶべき格闘であった。生きるのってたいへんですね。がんばってください。

 

なお、作中では「演劇」という言葉で全て言い表されており、進路希望でも新国立第一歌劇団やフランスの名門への入団希望、とかなりオーセンティックな業界の名が出されるが、本作での「レヴュー」バトルはアイドルのライブに宝塚的な舞台を掛け合わせたものを行き来する世界観で、古典・伝統のそれではない。

演歌、任侠、デコトラ、何でもありの舞台を展開し、多彩な光を放ちながらその歌は自分自身への賛歌、もしくは近しい相手へ向けられた想いであり、まさに「ワタシ」がいかに生きていくかということをSF×アイドル舞台演出的に掛け合うライブ感のアニメーションでした。アニメの形をしたアイドル舞台ライブ。

 

 

良いアニメ映画だ。アニメが今いちばん勢いがある。

 

と思ったら実際に声優さんらが実演でも生の舞台でやってるんですねこれ。すごいなー。メディアミックスを超えて、最初から同時並行で拡散的にやってるのか。世の中進化したなあ。 

 


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 ※ちなみに本作で繰り返される「ワイルドスクリーン・バロックという造語について、ワイドスクリーン・バロックというSFのジャンル・傾向:設定盛り盛り世界観のスペースオペラ、を援用しているのではということを、下記ブログではSF作品の歴史から詳細に論じている。これは面白い。

 

the-yog-yog.hatenablog.com

 

SFはいいぞ。

 

( ´ - ` ) 完。