nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】H30.8/19(日)研究ゼミ3 & 作家クラス「作品制作」

【写真表現大学】H30.8/19(日)研究ゼミ3 & 作家クラス「作品制作」

10月下旬の個展に向けて、計画をやっていきます。

 

私って、考えもなく好き勝手に散らかして生きている印象が強いかと思いますが、意外と地味なことを地味にやっています。ご覧ください展示プランです。地味です。山にも登らず、Illustratorで線を引く夏でした。うわああ。

 

 

( ´ -`) 研究ゼミ3(畑館長)

ゼミ生が遠方にお勤めだったり、消息不明だったりするので、最近は生徒2人体制です。

しかし太陽がよく、梅田の光と影からモンスター召喚がいい感じにキマったので、遅刻しました。あうあう。いやモンスターがこう、いっぱい。

 

〇鷹岡さん:最新作のおひろめ

窓辺で枯れゆく「花」から「命」を表現した鷹岡さんですが、最新作では、窓に掛けられたレースのカーテンを撮ることで、そこに漂う「光」そのものを見つめています。

 

今回は、「花」より昔の作品、窓辺の「静物」――瓶を撮った作品も同時に公開されました。ジョルジョ・モランディの世界を写真でやっておられた。

 

しかし写真は、被写体のモノとしての遠近と、モノの質感がはっきり出ますね。絵画と真逆で、モノの性質が際立っていました。さすがは複製技術。

 

この3つの作品は、自宅の窓と自然光というシチュエーションは同じながら、

・「瓶」:20C前半_モダニズム、物質主義の時代

・「花」:20C後半_命や環境問題の時代

・「光」:21C現在_環境を超えた時代(問題の系が単純化できない時代)

 

という、大きな時代の区分と対になっていると館長から指摘があり、まさにその通り、綺麗にルーツが分かれていました。 

これは、作者が真摯に表現に向き合ってきた結果、美術史の階段を順序立てて登ることに繋がったのだと思いました。

「生活の安定あってこその表現ですから・・・」「そこを蔑ろにはしたくないんです」専業主婦として生きてきた人生から見つめる、日中の窓に差し込む光は、豊かでした。生活を大事にし、表現行為を大事にしている、どちらも大事なものとして尊重する、心の豊かさのようなものが、いずれの作品にも溢れています。「私の眼は主婦脳ですね」名言です。ぎゃはは。

 

私は、「専業主婦」という生き方をしてこられた方の「眼」を知ることは、今こそ重要だと感じています。

現在、主婦であり続けるという生き方を選ぶことが、非常に難しい・あるいはその必要がなくなったという状況(金銭的にも、キャリアデザイン上も)があり、解体されゆく立ち位置であろうと思います。その「主婦脳」は、主婦にしか享受できない時間の豊かさの中で、主婦しか見えない豊かな光を視ている、という事実を、一度私たちは冷静に受け止めてみるべきだと感じるのです。生産性や経済性、あるいはジェンダーでは語れない世界が見えてくるのではないでしょうか。それは「主夫」の時間への希望にもつながるものです。

 

 

〇私:個展に向けた展示計画、DM案

鷹岡さんと志を同じくし、「生活を守りつつ、表現もしっかりやる」という、暮らしの作家同盟みたいな境遇の私ですが、おつむがゲームなのでビジュアルの気品は段違いです。ぎゃはは。

 

先日の澤田知子ポートフォリオレビューの結果を踏まえて、個展に向けた計画、テーマ性の再検証を行うことで議論をしました。

 

澤田氏にはっきり見えていて、私にはまるで見えていなかった、被写体たちの「命」の観点。

都市とか社会とか日本を語っていたら、目の前の「命」を見落としていたということになっていたらしい。盲点でした。論述の射程距離を拡大してきたことで、逆に作者個人としての生理を手放していた、ということになるのでしょう。これはむずかしいなあ。そうなるわなあ。偽名使って一人二役しますか?? ねこ七郎とか。

自分にしかない脈動を、再び全身で掴みなおせば、何かが出来るんじゃないかなという感じですが、スマホGoogle生活により言語野が著しく落ちていて、苦労です。ことばってなんですかおいしいんですか。だめだ。1週間ぐらい辞書を精読したい。

  

「評価する側は、作家がどれだけ成長するかを見ている」というお話を聴きながら、しめやかに今月のゼミは〆です。

 

成長曲線のピークが存命中に来ない人間がいたとしたら、理論上最強だということになります。山沢栄子はそうでした。ルネ・マグリットも。鷹岡さんはそういう作家であると感じます。年々徐々に力を増して、コンテンポラリーな時代性を帯びていく。いいですね。終わらない夏のような作家になりたい。暑苦しいすか。はい。

 

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( ´ -`) 作家クラス「作品制作」

いい加減そろそろ顔を出さないと、私が何の人か分からなくなるので、出します。

 

出ました。

 

毎年毎年、年齢も性別も専門領域もばらばらの生徒さんが、卓を囲んで合評をしているわけで、たいへん喜ばしい限りです。写真という接点がなかったら、電車内でかばんが当たって「、チッ」とか舌打ちしたりされたりするだけの関係で終わっていたかもしれません。ヨカッタ。

 

〇私の個展企画についてプレゼン

そういうわけで「みなさん個展を目指しましょう」という話でした。

 

かくいう私も、学校に入って最初の一年目は、なぜ個展をやらないといけないか意味が分からず、「さっさと写真新世紀に応募した方がええんではないか」等とぼやいていたのですが、今思うと自殺行為でした。やらなくてよかった。勝てるわけがない。ないよ。事務所にデモテープ送りつけるなら、せめて人前でオリジナル曲を歌ってからにしろという話です。

 

私の作品について簡単に説明すると、「ウォーカー・エヴァンズ奈良原一高の魂を借りて、ミニマルアートを見出すような眼で都市を撮ろうとしたら、手に負えない昆虫や化け物が出てきたので、これはもうゲームのせいだと観念した」「こんな日本に誰がしたんだ、ということで東松照明の魂を借りて、自身の生活空間まで掘り返したら、よけいにモンスターが出てきて、これはゲームのせいだと観念した」ということです。全部ゲームのせいだ。FF、ドラクエロックマン、いずれも最高でしたね。時代に感謝。

 

実際には、幼少期から図鑑で膨大な量の生き物を読み込み、毎日ひたすらトレースして絵を描いてきたので、「生命」「生命体」なるもののデザインが体に染みついており、私自身が生命の簡易アーカイブみたいになっているわけです。それが後にゲームの攻略本で同じことをやったので完全に混ざっております。全部ゲームのせいだ。ありがとうスクウェア、エニクス、カプコン、諸々。

 

他の生徒さんの様子も少々。

(現行のテーマタイトルをお聞きしていないので様子だけ。)

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〇金村さん:竹の表面に浮かび上がる白い模様

 

( 'o')雨の日だけ模様がでるんですって。知らんかった。

雨の日にのみ現れ、そのメカニズムは謎のようです。水をぶっかける程度ではダメだそうで。竹の表面が無作為のキャンバスとなり、不定形の天然絵画が現れる。その表情を撮っていこうという、かなり面白いテーマです。

フレーミングを絞り込んで、スタイルを決めていこうという話でした。

 

最近、家の周りの田畑や竹林が徹底的に宅地造成され、身近な竹林がほぼ全滅したことを思い起こされ、悲しみの苦い味が口中にただよいました。なんちゅうことするんや。竹を見る機会がなくなったなあ。身近なものほど非日常になる。竹を振り返ることで、郊外の住宅街というものを考える、よい機会になりそうです。(全てを都市で考える習性があります。) 

 

〇薮田さん:人と、人生で最も大事にしているものと。

 大事なものは何ですか。

作品を見て焦りました。

人物と、その人にとって最も大事な「もの」(※モノに限らず、空間の場合もある)の2枚組構成という、3重、4重ぐらいジャンルをまたがるものになっていて、広汎な撮影技術が必要です。ある程度まで技術力が高まればこなせますが、そこで目の前の人物をいかにして語るか、実力が問われそうです。

しかも機材は、買ってまだ日が浅い中判デジカメ。被写界深度がシビアだそうです。

 

畑館長より「アウグスト・ザンダーの人物写真がなぜ緊張感があるか。それは1枚で収めているからである」「この作品も、あえて2枚に分けなくても、1枚で緊張感を持たせた方がよい」との指導がありました。

そうか1枚にしたらいいんだ。目からうろこでした。手数を減らす策はなかなか思いつかない。

 

2017年・KYOTOGRAPHIEで、ヤン・カレンの作品にしびれたことを思い出しました。フジのGFXがどこまで凄まじいか。あれはすごかった。私の財力では中判買えないのでがんばってください。。

( ´ - ` )ノ  

 

〇小川美陽さん:思い出を全て覚えるために、ネガフィルムを燃やす。

 

記憶とは何なのかを問う活動でした。

既に台湾でのグループ展に出品。

留学先で撮った記録のフィルムネガを、ろうそくなどの炎・熱であぶり、それをスキャニング&色補正して、変形したネガ自体とそれに写っていた像を作品とする作家です。それも、「全てのことを覚えていたいから」という激しく前向きな気持ちで、モノとして仮保存された記録(メディア)を炙って変性させてしまう。

 

フィルムネガなので、一点物の記録で、燃やせば当然、替えはききません。なんちゅうことしはるんや。

しかし、今分かったんですが、ネガを完全に燃やしてしまって、灰にしているわけではなかった。「燃やす」という行為があまりにショッキングだったので、やや動揺していました。

この一連のアクションにおいては、「記録」は、仮死状態としてのストックの状態から、再び生の体験へと再生する。無数のコマからこれぞという印象的なカットが選別され、緊張感に満ちた炎の儀式によって、エネルギーを注ぎ込まれる。それは再び、一期一会の体験を「記録」に強いる(炎がネガをどのように変形させるかは、神のみぞ知る領域)。

その結果は、「作品」へと昇華され、作家の満足のいく限りは、延命的に残されることになる。ただしこれも、作家活動の堆積によって「作品」の数々が「記録」へと退化していると見なされた際には、再び厳しくエネルギーを注ぎ込まれることになるだろう。この作家は、眠ることを許さないのだ。覚え続けなければならないから。しかし人間は覚え続けることができない。よって、何らかの儀式が必要になる。だが、儀式そのものもマンネリ化することが許されないかもしれない。記憶を巡る過程の中で、儀式がどのような変化を遂げていくのか。大変興味深いです。

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( ´ - ` ) 皆さん相変わらず個性の結晶体みたいな方ばかりで、生きててよかったなあと思います。多様性ばんざい。

 

茨木はなおも再建中でした。

そういえば地震があったのだった。新たな「装い」のように見えてしまい、肝心の記憶が抜け落ちています。

私にとって「記録」とは、この世とのはかない接点の確認作業のようなもので、確認手続きがとれた後は、別の行為としてこれら(撮影や記述)があります。これは記憶に残りません。予期もしていません。たぶん自分の認識したその先の世界が見たいがための行為(=撮影や記述)なのだと思います。わあい。

 

( ´ - ` ) 

人前でここまで喋れたら良いんですが、だめなので、世界と筆談していく所存です。あうあう。