【写真表現大学】H30.10/7(日)ゼミ(個展の詰め、デジタルサウンドへの展開とか)
個展が近づいてきました。この日はゼミです。
これは展示計画の一部です。設営の直前まで来ると、あとはもう作業をどれだけこなせるかになります。タスク管理が重要になり、可処分時間とやりたいことを天秤にかけて、自己対応できないものは諦めるか、お金を払って購入・外注で捌きます。
(1)最近のまとめ
個展に向けた、ここ最近の動きを簡単にまとめます。
◆8月
①展示レイアウト練り
②コンセプト、タイトル練り
③確定分のプリント開始
④フレーム発注
◆9月
①展示レイアウト修正→確定
②額装~追加プリント
③DMデザイン、発注
④コンセプト、テキスト練り
◆10月
①広報(Web展開、DM配布、テキスト確定)
②会期中スケジュール確認、人や車の手配等
③レイアウト図面の再作成
④ストーリー作成
⑤ポートフォリオ作成
→ 10/22~27 【個展】
( ´ - ` )
どれもこれもイラレをやたら使う。
イラレ祭りじゃああ。
わあい。
使い慣れてないツールは些細なことが分からなくて、1時間ぐらい余裕で詰みます。「使い慣れてる」というのは「手放しでチャリに乗れる」感覚のことを言い、Google大先生に質問しては偏った検索結果に苛立つといったこともなく、体の直感レベルでサッと動けるアレの感じです。無論そんな感覚はない。ないのだ。
普段の仕事でも私生活でも夢の中でもイラレは全く使わないので、線を1本まっすぐ引くだけでも「えっshift押しながら引いたらいいの」という、まあその程度の人間なので、上記工程をかたすのに要する手間と、作業に当たるモチベが全然高まらない。モチベは高まらなかった。なので効率は最低だった。お察しください。
判断が出来ないのが一番つらい。
ツールが体に合っていないと「この文字を何フォントのptなんぼでどこ置いて先頭どこ合わせたら最適か」が、パッと分からない。直感的な判断がないと中身を打ち込んでいくなど、先には進めない。それでWordやExcelを開いてゴニョゴニョやった末に、結局まとまらずイラレに戻ってきて一から始める有様。次回には慣れてきて倍ぐらい早くこなせるようになるんじゃないかと思う。思いたい。
この3~4ヶ月でわりと特徴的なのは、もうこの時点では作品の追加制作(撮影や合成)は行っていないことだと思います。2016年度からやってきたことの総括を踏まえて、キャリアの一歩を踏み出すというところなので、トータルでの「編集」と「展開」に力を注いでいます。
しかし結局、使える作品というのは、力のある作品だけなので、展示できるものはかなり限られています。その点ではセレクトに苦労があまりなかった。ないのだ。世の中ままならない。
直近では、会場に置いておくポートフォリオや、作品1点ずつのバックストーリーをどうしようかと考え、進まず、うなり、アブサンを呷っては寝落ちし、くるしんでいます。ドゥアア。ドゥアア。
アビリティ「批評」「評論」を得てレベル上げてきた代わりに、「独創」や「発狂」を付けられなくなったぽいので、ジョブチェンジが必要ですが、発狂ポイントが足りないので、チェンジできず、改めて奈良原一高やメイプルソープやアーバスを読んでポイントを稼ぐ必要があります。ある程度たまると「作家性」の値が規定を満たして内部に設定されているレベルが上がり、技が使えるようになります。そういうことにします。しましょう。時間がねえよ。ドゥアア。
(2)学校 / ゼミ
各自がディスカッションして、次の展開を模索するという形です。
①わたし
\(^o^)/ 展示会場で何とかする話です。
図面を描くと余白が気になりますが、会場の実際のスケール感は真逆で、かなり狭くなります。もはや当日置いてみないと何とも言えない。
アホほど巨大なロール紙やボール紙に印刷して貼り出しまくり、空間を映像工場みたいにしたいところですが、「小松・金村あたりにかぶれたんですか」と言われるのも癪だし、会場洪水型の展示はこけるとただのゴミになるし、私は不器用なので間違いなくこける。
手堅くやりたい。そんなわけで手堅いです。我ながら手堅い。人生観が出ますね。そう、これは人生なのだ。
ここで学校から提案があったのが、「デジタルサウンド講座とのコラボを行いたい」とのことでした。
私の作品世界をお題にして、受講生に実践課題として音楽を作成してもらい、写真と音楽を合わせてメディア展開するという話です。
◆Eスクール「デジタルサウンド講座」
正直言って、どんなジャンルの音楽でも合うと思う。
大胆に誤読していただいて構わないような世界観なので、「どうぞ煮るなり焼くなりしてください」状態です。EXILEとかドリカムとか星野源はちょっといやです。生活苦を踏み台にしたHIPHOPも相性が悪いです。マリリンマンソンとかダークに狙い過ぎてもかっこ悪いかもしれない。私の作品には人間・人生の喜怒哀楽、生きることの悲しみや乗り越えが皆無だからです。とことんサブカルなんだと思います。それなら和のサブカルでBABYMETALに振ったほうが面白いかもしれない。ゲームで8bitも美味しい。ザナドゥまで遡ると上品すぎ、FCの女神転生Ⅱとかは最高(以下略
尺や展開、空気感の問題とかがあるから、会場でそのまま流すのは難しいかも知れないが、Webで展開するのには音楽がないと厳しいので、音楽ほしいです、音楽ほしいです。みなさん作ってください、何ならスライドショーごと作ってください(依存
ドリカムとか星野源とかでなければ大体合うと思います。星野源にうらみはないです。
②鷹岡さん
新展開がいい感じにエンジン掛かってこられたようで、作品がたくさん出ました。
「命」のテーマの続編、命を産み出す源泉である「光」を撮っておられます。自宅の出窓から差し込む自然光が、レースカーテンを透るときに姿形を伴うところを写真によって捉えた作品です。
光は、24時間365日で表情が全て異なるため、光を撮ることは、言わば時間の彫刻を刻むような仕事だと言えます。しかし抽象画と同じく、何をどこまで抽象化し、何を残して語らせるのか、その引き算は量子力学のように非常に微細で、ごく僅かな要素が結果に大きな影響を与えてしまう。例えばプリントの余白の「白」、レースの「白」、光の「白」、額装のマットの「白」、それらは全て異なる「白」なので、そうした強弱、関係を踏まえた上で「光」を主役にしていこう、そのような話でした。
( ゚q ゚ ) たいへんや
( ´ - ` ) 「和」のゲルハルト・リヒター。がんばってください。
〇堀川さん
「デジタルサウンド講座」を半期で卒業したので、あと半年は写真のゼミに来られるということに。元々、広告代理店で仕事をされていたりし、プロっておられるので、
作品『Bonsai』で 「A' Design Award and Competition」、2018年シルバー賞を受賞。盆栽に和装の女性が乗っており、盆栽という世界の鑑賞方法――オブジェであるとともに風景であるという二重性を踏まえた上で、「自由に観ようよ」という提案がなされている。
これは、日本人が自国の文化であるはずの盆栽から、年々「盆栽離れ」を起こしていることを契機に作られたシリーズであると話を伺った。その理由は「盆栽」の観方を我々がそもそも知らないというシンプルなものだが、更に言うとその事態を引き起こしているのは、「盆栽」の観方に暗黙の制限が掛けられているのではないか、ということだ。
この点がまさに、私がこのポートフォリオを拝見したときに「?これ何の作品ですか?」と首をひねった原因とリンクしている。私はこれが、「和」を誇張した美女のポートレイトなのか、もっと言えば、盆栽を極端に用いた諧謔なのか、いずれにせよ盆栽でそこまでポップに寄せることが、果たして良いのかどうか判別しかねる、という初期印象を抱いた。
しかし説明を聴くと、盆栽には決まった観方があり、写真にしても撮り方は自由ではなく、指定があるのだという。多様な世界を孕んでいるにもかかわらずだ。若い世代は、その伝統の不自由さ、ある種の権威的なあり方に興味を失って距離を置き、「盆栽離れ」が起きているようだ。
一方で皮肉なことに、「これは伝統的なものなのだから、ポップな態度は許されない」という、教育的に固められた思考が、まさに生き生きと脈打っていることも判明した。盆栽には歴史的なルールがあり、ルールの通りに接しないといけない(しかしそれを遵守したところで何も面白くもないのだが)、という思考に囚われている。そのことを堀内氏の作品への反応と、プレゼンに対する反応から発見したのだった。
被写体に選ばれている盆栽や着物は、非常に高値が付いた、評価の確かな品であることも、一見諧謔と見えるこの作品の投げかける問いに強度を与えている。つまり、我々は質ではなく「型」で物事を「判断」しており、その根拠は「なんとなく、そう決められている(あるいは許されていない)から」という、お粗末なものだということだった。ぎゃはは。
( ´ - ` ) 面白かった。
書いていて戻り興奮したので長くなりました。
帰路は学校から「搬入棒」という、展示の設営に便利な棒を借りて帰ります。2mある。わあい。凶器だ。振り回すとあぶないので、振り回さないようにします。振り回さない。おれはふりまわさないぞ。
( ´ - ` ) 完。