nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R2.8/6_ディスタンス ~間隔と感覚~ @あまらぶアートラボ「A-Lab」

新型コロナ禍でにわかに注目されるようになった新しい標語・生活習慣「ソーシャルディスタンス」。この「距離」というものに対して、4名の作家が様々な観点からアプローチする。

※鑑賞無料 

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【会期】2020.8/1(土)~9/22(火)

 

 

 

「A-Lab」は2015年秋にオープン、使用されていなかった旧・小田公民館城北分館をリノベしたものですって。存在は知っていたけれど、微妙に生き辛くて ちがう 行きづらくて、今回が初めてです。さぼってました。すいまへん。

徒歩だと、阪神尼崎駅から15分、JRは20分。この猛暑でテレテレ歩くアホはあまりいません。あっ。私あほや。ほほほ。暑かった。しんでしまう。

 

 

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これは完璧なる公民館ですよ。アートの展示会場とは思うまい。 

 

2階に上がると、ザ・公民館の窓口があり、そこでコロナ対策でプロフィールを書くなど手続きして、鑑賞です。

すぐ横のフリースペースに、アート・写真関連の書籍が陳列されていて、色々とセレクトが刺さり過ぎるのに、「ミオ写真奨励賞」の歴代パンフレットがあって、それだけで1時間使いそうになり、危のうございました。やべえ。おもしれえ。やべえ。あっ知ってる人が色々いる(略

 

 

◆木藤富士夫(全14点、サイズ可変)

1976年生まれ、全国のレトロで独特な公園遊具を撮り集めていることで知られる写真家。B級スポットやレトロ物件のブームと時期も相まって注目され、メディア露出も多い。

 

とにかく写真のサイズが超巨大で、壁そのものを遊具化するぐらいの迫力で、本企画でダントツに目立っていた。夏休みのファミリー向け恐竜博を思わせる。

 

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部屋の中央にも写真パネルで囲いを作って更に1室増設し、立体・空間インスタレーションの度合いを強めている。

ちょうど昨年・2019年8月末に「大阪ニコンサロン」で展示があった。当時は整然と直線的な配置ゆえにあまり印象に残らなかったのに対して、本会場ではぐるりと円形に並び、立体感、オブジェ感が増した。このぐらい巨大なパネルで隠さないと、この部屋の内装の公民館ぽさが強すぎ、写真の展示は難しいだろう。展開に成功している。

 

夜間に公園を長時間露光で撮影、それもライトの位置を何回も変えて何百枚と撮ったものを1枚に合成するという手法のため、遊具は人工的な生き物として闇に浮かび上がっている。ライティング等の工夫によって、写真の文体は「公園」という舞台設定をそのまま前提としている=写真自体が「夜の公園」の置換になっているため、その映像が映えるためには展示の場も公園として再構築するしかない、という循環論法になっているのかも知れません。 

 

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本作と「距離」との関係があるとすれば、恐らく遊具の制作年代、時代との距離感だろう。新型コロナとはあまり関係がないが、夏の展示としては妙にしっくりくる。遊具も、それを眺める私達も、夜の公園で所在ない時間を過ごす者同士、というシチュエーションはやはり夏ならではだ。

しかしSNS時代になって、公園に「誰か」が目的もなく佇むことの困難さは、極端に増大した。とにもかくにも、不審者案件である。実際に作者も、撮影中に何度か通報されているという。そうした「公共の場」を巡る背景・現場を孕むものと見るとき、これらの作品は確実に、時代や人の心の「距離」というテーマに連なっていくだろう。

 

 

◆上坂直(うえさか なお)

1991年兵庫県生まれ、ロッカーや収納ケースを使ったミニチュアな空間を作り出す造形作家。本企画では3作品を展示。

・『個人的聖域群:川口』

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小部屋に衣装ケースが置いてあるが、その中が住宅を玄関から見た間取りになっている。見事だ。衣装ケースはマンションの比喩となる。私が小学生の頃は、「欧米人から見れば、日本人の住まいはウサギ小屋、と言われるらしい」という言説が飛び交っていた(誰から聞いたんだっけか?教師か?忘れた。)が、ウサギ小屋どころか衣装ケースだったようだ。いや、お見事です。だが清潔で整理整頓の行き届いたカプセル的な空間を最適化することは、日本人の性に合っているのかも知れない。 

 

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ディテールが面白いんですよ。生活の根っこが写し出されている。出す前のゴミ袋を描写したのはとても素晴らしい。あと靴の種類と数でどんな人が住んでいるかを想像させるところも見事。靴箱を置かず、靴を玄関に出しっぱにさせることで生活感を喚起させている。

 

・『所在譚』

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地域の色んなアートイベントに行きましたが、まさにこういう、ちょっとした「間」を活用して、ちいさな存在の声を醸し出す作品には、癒される。都市空間の茶の湯的な。須田悦弘を都市空間のハードウェアに寄せていくとこういう感じになるのかも。土に還らないパーツの群れを再配置することで見えてくる、余白と存在の美というか。都市の路上スナップも近い(ベクトルは逆方向)だろうか。

 

・『Drawings』

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ケント紙に鉛筆で描かれた図形。空間と平面の行き来、単個と集合体の行き来がミニマルに込められている。上記2つの作品も都市のパーツだと捉えればこのように、統一規格の部品のようでもあるし、「その先」へと奥行きのある空間(唯一無二の個体)へと続いているようでもある。

 

◆本多大和(ほんだ やまと)

打って変わって、こちらのアクションに応じて返してくる光や映像を楽しむ、双方向性の作品。

・『Mr.Facebox』

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冒頭で書いた、写真集やらがおいしい図書スペースで展開されている。

鬼の頭部の形をした箱は、回り込むとスマホが自撮りモードになっており、こちらの顔をスキャンさせるとアバターが生成される。こちらの表情によって目や口が動いたり、幾つかのパターンから選ばれる。

アバターは箱の外側に表示され、皆で楽しめる。 

 

・『メイト』

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部屋の床に複数の色の光が当たっていて、その上に立って飛び跳ねると壁面のライトが反応、アクションに応じて動いてくれる。メイト(仲間)だ!

たのしいけど、暑い真夏に飛んだり跳ねたりすると死ぬ・・・。あと、独りでやるより複数名でやった方がたぶん楽しい。 これは友達力とか家族力が養われ、何もいない人間は、婚活をするか政党でも立てようかを思案し始めます。しません。

 

 

会場の一番奥に和室があります。さすが元・公民館。 

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( ´ - ` ) これで急須と湯飲みがあったら旅館や。

 

テレビモニタでは、出展した作家さんらが登場して作品の解説など。

卓上にはこれまでの展示に関するパンフと、上坂直のポートフォリオ

 

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 大洲さんだ。

『作品に映っているものは風景』『人を主な被写体として写し出すことはしていなかった』 なるほど・・・

 

◆大洲大作(おおず だいさく)『Standing』

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というわけで大洲氏の作品。部屋のど真ん中に、実際の鉄道列車に使われていた車窓が吊り下げられていて、後ろから映像が投影されている。

大洲作品と言えば「車窓」です。その場を仮想的に車窓化=移動空間、テレポートさせてしまう演劇的な要素がある。昔の列車の窓はこういう洗濯ばさみのようなツマミを掴んで窓の開閉を操作しました。というのも冷房が完備されたのって結構最近で、80年代半ばに国鉄、私鉄ともに冷房化が進んだという。手動で開けて、風で涼んでいたわけですね。

平成の世は冷房なので、事故防止などのために基本は窓を閉めっぱになり、窓の開かな車両も増えたが、新型コロナはその常識も一転させた。窓を開けさせ、外気を取り込ませるよう仕向けるという、公共交通の空調における反転を起こしたことも見逃せません。

 

それは本作と関係ないのですが、私自身が昔は鉄道好きだったこともあって、大洲作品は記憶に残ってます。2019年の静岡県立美術館「めがねと旅する美術展」で出会ったのだった。体は「ここ」にいるのに、「車窓」という装置を介するとその前提が揺さぶられるのが面白い。

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さて本作は15分31秒の動画になっていて、しかも今回の新型コロナ禍における「ソーシャルディスタンス」を最も強く表現していて、非常に切実なものがあった。

 

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作者 ≒ 私は、車窓の内側にいる。車窓の外側、線路の向こう側という物理的にかなり断絶されたところに、作者の仲間である様々な美術関係者らが登場する。駅のホーム、通過する踏切や歩道など、それぞれの生活の沿線上に立つ登場人物らは、無言・無音である。距離は、縮まらない。ただその人達の名前と肩書きだけが表示される。そして思い思いの身振り、ポーズ、表情で、作者の乗る車両・カメラに向かって、コミュニケーションをとる。

こちらからは何も返せるものがない。流れ去ってゆくのを見つめるだけだ。やがて写真の重なりの中でその像はフェードアウトしていく。しかしそれが、あの緊急事態宣言下で厳しく制限された「日常」であり、コミュニケーションだったと思い返す。スマホやPCの画面内、矩形の中の、圧倒的距離の向こう側に姿を見せること、そのこと自体が何らかの「伝達」であったと。

新型コロナ感染拡大がなければこの動画は、ノスタルジックな色調で仲間を紹介するだけのものとしか映らなかっただろう。遠く離れた者同士が、距離をそれ以上詰めることをせず、互いに安否確認を取り合うように流れ去ってゆく。それが何人も続いていくと、ああ、そうだ、私達は直接会えない世界に、足を踏み入れていたんだった、そんな実感が蘇ってくる。

 

幸運だったのかどうかは分からないが、新型コロナ感染者数の過去最高がどんどん更新されている現在、政治・経済上の色々な配慮のためか、私達が会ったり話したり、コミュニケーションをとること自体に、以前のような制限は掛けられていない。(時間の問題かも知れないが。) 

あの自粛、ステイホームの時間がもっと長引いていたら、どうなっていただろうか。個人的には、コミュニケーションのあり方、表現のあり方を根底から考え直す手前のところで自粛が解除され、かつての「日常」へとめでたく回帰した感がある。

それが良いのか悪いのかは 分からない。時間の経過とともに、3月~5月に感じていたはずの色んなことを、また忘れていく気がする。本作はそれを忘却させず、揺さぶるものがあった。観られてよかった。

 

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「3つの密を避けましょう!」

 

 

( ´ - ` ) 一人で来たんでゼロ密なんすわ。

 

ははは。

 

 

 完。