nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&ART】manimanium「birth」、キムラユウナ「インターネット葬」@アトリエ三月

【写真展&ART】manimanium「birth」、キムラユウナ「インターネット葬」@アトリエ三月

「インターネット葬」というシンプルかつ衝撃的なタイトル、これに惹かれて真夏の夜の蛾のように、私はフラフラと会場を訪れた。

2階構成のギャラリーで、それぞれ別の個展が開催中。ともに1995年生まれの作家、1階は写真家による女性らの生の表現を、2階はマルチクリエイターによるWeb世界での生の表現を行っている。 

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【会期】2020.7/31(金)~8/11(火)

 

 

 

◆1F_manimanium「birth」

こちらは写真家manimaniumによる、女性の体を捉えた写真群をインスタレーション的に展開している。

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多数の参加者を募って撮られる写真は、不特定の「体」の集合体を模していて、どのパーツがどの部位か、誰の体かを同定できない。個々人も、身体の形状には相違点があるが、装いやポーズは同じくし、共鳴状態にあるところが撮られている。

ここで「デジタル世代の若い女性らが、自分たちのナイーヴな感性を自己演出により表現している」とまとめてしまうことは容易い。書かない方がマシなぐらい容易い。

注目したいのは、なぜこの登場人物たちは「我」や「個」を出さず、集合体の一部であることを押し出しているのかだ。個々人のプライバシー露出に関する問題は度外視して考えてみる。

 

作家ステートメントでは以下のように語られている。

私たちは生き物なのに、プラスチックみたいな美しさを求められる事とか
歳を重ねることを悪く見られたり、傷やシワやシミがタブーになる事とか
そういうことを考える場面に出会う度に、”そのままの私達を受け入れることを、写真の世界で許してほしい”と願い撮影を続けて来た。

趣旨を全面的に受け止めるなら、既存の美の基準、女性としての美を巡る葛藤(男性原理的な支配だけではなく、同性同士の評価や格付けであっても、自意識に埋め込まれた力の構造としても)—―ひいてはフォトジェニックな「良い写真」の支配力から、ありのままの自分達を逃れ入れさせるアジールとしての写真を切り拓くための行為が、この写真群ということになるだろう。 

 

確かに写されている体のパーツは、肉体としての関心をそそる魅力的な部位と、逆に個人の傷や襞の現われた部位とが混在する。それらは美の一般的な基準から外れている。

皮膚、体に刻まれた傷に注目するなら、参照の第一選択は石内都となるのだが、個人に刻まれた生の歴史ではなく、作者の観点はどうやら「今」、生きている現在の一点を論点とし、それを演出的に捉えている。となると、インベカヲリ☆や長島有里枝が第二選択でどうだろうかとも一瞬思う。が、登場人物らの「個」が全く登場しないことによって引用は無効化する。撮り手の主語が判然としないので当然ながらヒロミックスも来ない。広告写真やMVの素材映像、不特定多数の関連画像が一望されるPinterestインターフェイスの方が、まだ引用元として近いのではないか。

 

「個」の概念を持たない、「つながり」の写真であることを認める必要がある、ということだ。匿名的な「個人」どころではない。個々人が自分らしく生きること=自分と同じ感覚の者同士で繋がっている、そんな連結した、一体としての「生」。(個の生存の主張を大幅に脱色した任航(Ren Hang)的なトレンドがあるのだろうか?) それらは一見、別個の花の群れに見えて、実は一つの樹や、一つの地下茎で繋がっているという、これまでの「個」の在り方とはまた異なった植物的な「生」を有した世代なのではないか。そんなことを想像した。

 

植物のメタファー。それは昨年に同ギャラリーでのmanimanium氏の個展で、植物のディテールを生き生きと、ぐっと力強く引き寄せて捉えていたことの記憶から連想されたのかもしれない。そういえば作家名も「ゼラニウム」や「デルフォニウム」といった植物の中性名詞を連想させる。 

 

こうした「繋がり」の成立=「個」の消失、によって成り立つ場・インターネットを巡る話題が、2階の「インターネット葬」に引き継がれていく。

 

 

◆2F_キムラユウナ「インターネット葬」

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細くて急な階段を上ると、真っ白な空間に、ビニールに包まれバーコードシールの貼られた小物が大量に掲示されている。展示会場というより研究室、簡易検査室を思わせる。

展示物はこの透明な、バラバラに解体された情報のパーツであり、カセットテープ、緊急事態宣言下で録られた音声、プレパラート、Webの警告メッセージ、コラージュされた言葉や画像・・・ それらの「部分」は幾ら繋ぎ合わせられても、ある「個」としての総体には辿り着かない。作家の顔や手癖すら見えない。

 

ここで「インターネット葬」とは、インターネットなるプラットフォームや技術、文化を葬る・リセットする儀式ではなく、むしろ生活上・制度上ますます強力になるインターネット内において、私達の「個」が散り散りになってゆくことについて表しているようだ。「私」的な存在はどこにあるのか、ネットやSNS、通話アプリ内に作ったアカウント、それが発する発言、それは「私」なのか。その物的な情報の残響を、日常のWeb環境内からかき集めて試料化することで、実体なき物証を示しているようだ。

その行為は、日々、高速で膨張し続ける宇宙の中で、距離が離れて闇に還りゆく星々の光を捉え、留めようとする、天文学にも似ている。

 

昨今では「インターネット葬」という名称は、ネットを介して葬儀の状況をライブ中継し、遠隔的に参加するサービスにも使われている。一方で、ある「個」がSNSなどWebサービス内で消費され、誹謗中傷の的として祭り上げられ、実際の個人と別の次元で責を負い、リアルの死を迎えるという事件も起きている。

インターネットという場と、個人の「生」と、そして「死」を巡る考察は、人の集まる新たなサービス(そして事件)が生じる度に、より深まり、進んでいくだろう。

 

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以上、「もっと~~すればよくなる」的な、展示やテーマ性に関する技術的な話は色々あろうが、それらを度外視した上で、展示から刺激された考えをまとめた。刺激を持つ表現は大切だ。大切ですよ。洗練も大事やけど、「今」に対する仮説を表に出していくことはもっと大事 (←自分に言い聞かせてゐます) 歳をとると衝動と速度がなくなりますからね・・・

 

インターネットとこっち側の二つの次元は和合しつつ、それらは行き来するものであり、フェイク or トゥルースの問いと認証を闘争のように掛け合っている。「私」はどこに行き、どこにいるのでしょうか。わからん。

 

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( ´ - ` ) 完。