写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】甲斐啓二郎「Charanga」&【トーク】R2.8/8(土)「写真集『骨の髄』を紐解く」(聴き手:伊奈英次)@gallery176

大阪・豊中市の服部天神「gallery 176」にて行われた、甲斐啓二郎個展とトークイベントについて。

前段は展示『Charanga』の感想を、後段は伊奈英次氏とのトークの概略を記録。刺激的な話でした。みなさん、なんしか写真集を自作しましょう。

 

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【会期】2020.7/31(金)~8/11(火)

 

 

 

ちょうど1ヵ月前、「大阪ニコンサロン」での展示『骨の髄』を鑑賞したところだが、その際には4ヵ国・5つの祭事を少しずつ紹介する構成になっており、『Charanga』は最終パートとして登場した。 

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祭りの鮮やかな衣装をまといながら、ストリートファイトの構えで対峙する男たち2人と、少し間を開けて彼らを取り巻く他の参加者らと軍人との対比が不思議な写真だった。「1対1」で、拳を固めて人間同士が直に向き合うフォームは、他の祭事とは全く異なっていた。暴動やテロのような不穏な熱と昂ぶりがにらにらと煮えている点ではどの祭事も共通しているが、他はあくまで集団で動くものだったからだ。その意味で、異質さのある『Charanga』シリーズを枚数増量で見られたのは吉だった。

 

◆展示『Charanga』

「gallery 176」は東京の「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」との交流展に取り組んでいて、今回は第3弾となる。甲斐氏はTOTEMの運営メンバーであり、これまでの個展やZINE出版の活動のベースとなってきた。

 

『Charanga』は南米ボリビアのマチャで行われる祭事「Tinku」を撮影したシリーズ。タイトル名はスペイン語で「吹奏楽団」や「どんちゃん騒ぎ」を意味する。祭で繰り広げられるのは、素手での殴り合いだ。

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階段を上がって会場入口から、血痕を思わせるドラム缶の写真が「Tinku」の騒乱を予感させる。

この祭事は人間同士が殴り合い、血を流すことが目的だという。母なる大地の神パチャママ(Pachamama)に血を捧げて豊作を祈るというが、展示作品15点に写り込んでいる人物らを見渡しても、祈りを捧げている者は見当たらない。

 

乾いた太陽の光が照りつけている。太陽と地面が主役のような土地で、人々が蠢いている。

人々は広場に、おもむろに集まってくる。密度が高まり、熱が高まり、人々の表情は何かに取り憑かれたようにシリアスになる。こういう表情に記憶がある。オイルショックでトイレットペーパーが無くなり狂騒状態となった民衆か何かで、社会の資料集か何かで目元と口元に不穏さを帯びているのを見て子供心ながらに怖かったことを思い出す。格闘家でもアスリートでもない一般人は、体に沸き起こった力の波をどう制御し表出したら良いのかを知らないので顔の細部に強張りや歪みとなって現れるのだろうか。喜怒哀楽のどれにもはっきり分けられないその顔は少し動物に近い。

 

改めて「Tinku」のYouTube動画もいくつか巡回してみたが、殴り合いは信仰や祈願と別の次元で自然発生しているように見える。動画の多くは、踊りと演奏の場面を少々入れて、そこから唐突に殴り合いのシーンが始まり、そのまま終わる。撮り手にとってはそれだけ強烈な体験であり、祭りの前後の文脈からも飛躍しているのだろう。サッカーや野球の勝利に熱狂した民が、大阪ミナミを練り歩いた末、気持ちがどうにもならなくなって、道頓堀川への飛び込みが起きるときの感じに近いだろうか。「Tinku」も道頓堀の飛び込みも、それは「なんとなく」に尽きる。伝統として、定番の約束事としての期待感が場に満ち、その雰囲気に呼応する形での「起こり」があり、勘の鋭い者、手の速い者が突っ込んでいく。

動画だと、録る側も見る側も「殴り合う」二人と周囲を俯瞰気味に記録する、すなわちスポーツや格闘技観戦の視座のフォーマットが踏襲されているのだが、本作の写真では逆に、スポーツ観戦的な視座を融解させている。どこからどこまでが「殴り合い」か分からない瞬間を、観客とも地元民ともつかぬ立ち位置から捉えていて、「格闘」未然のところから「格闘」以降までの潮の満ち引きが写っている。この点がかなり特異である。

 

この視座は作者の出自がスポーツ写真家でありつつ、決められた場所からの決められた撮り方に倦んだ時期、イングランドの祭事「Shrovetide Football」を撮影したことで偶然に得られたものだ。それが作品『Shrove Tuesday』シリーズ(2012年、個展)であり、スポーツ以前の「原型」の姿、動きを掴む視座として今に繋がってゆく。

 

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こうして言葉で綴ると簡単な話になってしまうが、「Tinku」は大の大人が殴り合って血を流す祭りのため、やはり動画を見ると相当に危険で怖い。ショーとして完成された格闘技ではなく、一般人が両手を振り回して不器用に人を殴るシーンを見るのは、生焼けの肉を食う時のような、こちらの内側に来る怖さがある。体系化・ルール化される以前の、原初の「力」や「肉体」を見せつけられ、こちらの理性が対処できないのだろう。

 

だが写真・甲斐作品においては、騒乱の空気、力の行使を孕みながら、そこには「静けさ」も同時に湛えている。それは強く透る太陽の光のせいかもしれない。軍人が観客側を取り巻いて乱入を制止しつつ、殴り合いの場に一定の秩序をもたらしていることや、祭りの衣装による伝統的な場としての高揚感が、拳に邪悪を宿らせないためかもしれない。そしてやはり、太陽の光と、それを照り返す地面のせいかもしれない。(それを聖性と呼んだら安易すぎるから、こらえている。)

 

ここに「暴力」以前の「力」を見た感があって、「では”暴力”とは何か?」という問いが不可避となる。反射的に連想されたのが、世界各地で繰り広げられてきたBLM(Black Lives Matter)関連の行き過ぎた破壊・略奪行為であったり、誰が主導したのか不透明な、新型コロナ予防・経済活動制限などに反対を唱えるデモであったり、香港における警察の強権的な武力介入の場面であった。 それらは「暴力」を強烈に孕んでいる(というよりそのものである)。個人の「生」への侵害・破壊であるとともに、何者かにとっての利益に直結した構造を伴うからだ。

 

「Tinku」の騒乱、殴り合いには構造的な力や企みがない。作者が『骨の髄』に編纂してきた他の祭事も同じである。結果的に誰かの身体を傷付けてしまっても、傷付けたり破壊することによって得られる利益、政治が介入しておらず、あくまで身体化された伝統や文化、習慣からの「自然な」起こりである。そのことが写真から伝わるためだ。例えば先日blogでも書いた通り、岸和田出身者がだんじりに熱くなったり、徳島市在住者が夏が近づくと楽器を打ち鳴らして踊りに熱が入ることを、私達は「暴力」とは呼ばない。

 

太陽がまぶしく、地面も空気も渇いている。空気も土もあまりに渇いているから、赤い血をそこに染み込ませて、それを神への捧げものとした。全ての理由や動機は、それだけで十分なのかもしれない。

 

 

◆8/8(土)「写真集『骨の髄』を紐解く」トークショー

トークショーは、参加者を制限し、距離を保つなどコロナ対策を施した上で決行された。

聴き手には、写真家/東京綜合写真専門学校長の伊奈英次氏が登壇した。(甲斐氏は卒業生であり、現在は非常勤講師である)

 

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(1)経歴、スポーツ写真から

まず甲斐氏の経歴が紐解かれ、写真との出会いから専門学校への入学、スポーツ写真家としての活動、そしてイングランドでの『Shrove Tuesday』撮影に至るまでが語られた。

元々はプレイヤーとしてのスポーツ大好きっ子。大学では海洋建築工学を先攻していて、課題でウォーターフロントを撮ってきたら教授に誉められたのが写真の原体験らしい。建築方面には進まず、スポーツ写真家を目指して写真学校に入り、大西みつぐに教わり、人の正面に立って撮ることを叩き込まれた。

好きな写真家・影響を受けた写真家として、スティーヴン・ショアや篠山紀信「晴れた日」、内藤政敏などが挙がった。

スポーツ現場での取材撮影は2~3年で、「文藝春秋」で選手の撮影などをしてきたが、コートの外や通路での撮影が多く、誰が撮っても望遠での同じカットになる。コートの内側に入って撮りたいとの思いが強まった。

 

(2)『Shrove Tuesday』で得られた、作者の身体性

イングランドの祭事「Shrovetide Football」を撮りに行ったのは、当初はフットボールの原点のドキュメンタリーを撮る目的だったという。しかし帰国後、撮り終えたベタ焼きを見た甲斐氏は「何じゃこれ!??」「自分が撮ったのかどうかも判然としないベタ」と、見事に期待を裏切られた。

その不思議な視座は、前段の『Charanga』で先述したとおりだ。立ち位置の溶けた視座である。

 

これを伊奈氏は「スナップの宿命」と評した。意図しなかったものが写り込むことは、リアリティの根源であるという。

ここで伊奈氏がスポーツの「起源」へ少し立ち返る。中世には「気晴らし」を意味していた行いが、人間と動物を分化するものとして、次第に独立した身体文化となる。近代がまさにスポーツが野蛮から理性への転換期であり、フェアプレイの精神が生み出された。現代では更に、スポーツはナショナリズム、戦争と切り離せないものとなる。リーフェンシュタールオリンピア』(映画、1938年)を参照のこと。

 

すなわち本作に写っているもの=「祭り」とは、野蛮と理性、近代化される前の、橋渡しの部分ということになるだろう。

 

甲斐氏は「興味のある対象は、疑問がありつつでも撮る」「撮りたいという直感は信じたい」と語る。コンセプトありきではなく、まず撮りに行き、撮った後の結果を見返して、何が見えていたか・見えていなかったかを謙虚に、「写真から教わるつもりで」振り返るという。伊奈氏も「我々写真家は、頭はそんなに良くないから」と自嘲しつつ、行動先行、コンセプトやリサーチは後から来るものだと同意した。「何らかの察知能力」が先立つのが、写真家であると―—。

 

「ほとんど当時者だよね」と伊奈氏は写真を評する。甲斐氏はマミヤの65㎜(中判)で、祭りの空気感に身を任せて突っ込み、参加者の目線で撮っていて「僕の身体性までも写るだろう」と語る。

だが撮影期間は短い。『Charanga』は、祭り自体は2~3日、殴り合うのは1日(夜通し)であり、作品にセレクトしているのはほぼ1日のカットだという。日本の祭りの場合は4~5年かけて撮るが、それでも祭り自体は1日で終わってしまう。その短い撮影時間の中で作品に昇華し、展示を重ね、本格的な写真集が編まれた。

 

(3)写真集にまとめることの意義

www.shinjuku-shobo.co.jp

 

最新の写真集『骨の髄』は、2020年3月20日新宿書房から発刊された。ブックデザインを鈴木一誌が担当している。ここに至るまでに、『Shrove Tuesday』(2013)『手負いの熊』(2016)を自作のZINEとして発刊しているが、例えば前者は、30万円で500部刷って、自身の活動をPRするための名刺代わりに使ったという。

 

「写真集は日本ではほぼ売れない」「が、借金してでも作るべき」と伊奈氏。写真家であることを語れるものが、写真集の他にはないので、先行投資と考えて取り組むべきとのことだ。聞いてて胃が痛い。

「写真集があるのと無いのとでは雲泥の差」「まず評価の俎上に乗ってこない」と二人の見解は合致。聞いてて胃が痛い。。学校でもこの3、4年、同じこと言われてるんですよ。いたた。胃薬。

 

伊奈氏が評価されたのは、最初の写真集『WASTE』(恐らく1995年、自費出版の方)を出したからであって、それは郵便局の保険が満期になった時に100万円というまとまった額が入ってきたからとのこと。写真集があったから、アメリカでの同名の写真展に繋がり、展開が広がったという。

 

今はZINE、和綴じなど、フォトブックを安価で自分で作れる手法があり、DNPや「しまうまプリント」などのサービスも豊富。なのでまずは「写真集」を作るべき、というお話であった。ただやはり出版社、デザイナーなどを巻き込んでちゃんとしたクオリティの写真集を作るとなると、それなりの額の負担にはなり、在庫も家に積み上がるし、覚悟がいる話ではある。胃が痛い。しにそうだ。ううう。

 

伊奈氏が「あなたは貧乏だからこんな写真が撮れるんだよ」と突っ込んだ(絶賛した)のが全てであり、とても面白かった。我々写真家は貧乏なんですよというベースラインが、関西在住の自分には何だかよく沁みた。当然、写真集を買った。大先輩の近藤和敬氏のテキストをちゃんと読もう・・・。 

 

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( ´ - ` ) なんかいい夕方でしたね。

 

完。