2024.10/19(土)「森の芸術祭 晴れの国・岡山」ツアー、時間切れのため蒜山で打ち止めです。1日で回るの全然無理でした。
蒜山の「GREENable HIRUZEN」には川内倫子、上田義彦の作品があるので、見ずには帰れないのですわ。
- ◇GREENable HIRUZEN(グリーナブルヒルゼン)/隈研吾「風の葉」、淀川テクニック
- ◆(ミュージアム1F)/川内倫子
- ◆(ミュージアム2F)/東勝吉
- ◆(ミュージアム2F)/東山詩織
- ◆(ミュージアム2F)/上田義彦
- ◆おまけ)ヒルゼン高原センター・ジョイフルパーク
蒜山は岡山県と鳥取県の県境みたいな、言うならば高原であって、皆も牛乳だのヨーグルトだののブランド名で知るとおり牧場で牛を育てており、つまり遠いんです。いちおう会場は蒜山大山スカイラインの手前で、本格的な高原にまでは至らないが、行けるのか?間に合うのか??
真庭と蒜山、エリア名としては1つにまとめられているが、勝山町並み保存地区から「GREENable HIRUZEN」まで高速で40~50分かかる。問題は、施設の閉館時間(17時)だけでなく、それ以上に恐ろしいのが「閉館30分前で最終入場」という打ち切り設定である。これを厳密に運用されたら、終わりですわ。終わり。着いても中には入れてもらえないというのが最悪のシナリオ。あっあっ(白目)
地方なら運用が緩いのではないか? 希望を胸に向かいます。
◇GREENable HIRUZEN(グリーナブルヒルゼン)/隈研吾「風の葉」、淀川テクニック
結論としては、現地到着が16:20過ぎ、ギリギリセーフ。写真・絵画作品をちゃんと鑑賞できました。ありがとうございました。あせるわ。
16時半以降にも、駆け込み来館する人がいたが、17時の閉館まではギャラリーへの入館がOKされていた。寛容だ。これが都心部なら官僚的な運用がなされ、係員・ガードマンに追い返されていただろう。地方の有難みを実感した。
ただこれも、場合によっては個人経営の飲食店のように「あ~今日はもう品切れやね~」と予定より1時間早く閉められるいうこともありうるわけで(公共施設でさすがにそれは無いと思うが)、地方なら時間に余裕をかませるというわけではない。ローカル幻想の自戒的否定でした。
「GREENable HIRUZEN」、読み方のわからん施設で、何があるのか見当もつかないまま来たのだが、着いたら一層見当が付かないものが建っていた。建物なのかオブジェなのかこれは。
大量の「く」の字が連なっている。くくく。
くくく建築。車中からチラ見しただけで「すごい」と思わせるのが建築の力ですが、これ何て呼んだらいいの。建物の壁と柱に見えていたものが「部分」であり、連続する構成そのものである。建築と呼ぶのをためらい、しかし確固たる呼び名がないため「あの、この、建築、みたいなもの、板」などと戸惑い呼ぶ。
今になって隈研吾が設計監修した「風の葉」という名の「CLTパビリオン」だということが分かった。現地では忙しくてわかっていない。今話題の隈建築だが、2021年7月オープンの新しい物件であるため、Twitter(X)で指摘されているような「木が腐ってボロボロ」「木にカビ」「崩壊」等という状況には至っていなかった。素人なので兆候もわからん。
ともかく、かっこよく、スタイリッシュで、未来志向であることは分かった。未来というのはモダニズム建築・モダニズム彫刻に対する立ち位置のことである。中に入ると、風が通り抜け、木と風を感じる。その「場」とコンテンポラリーな関係を切り結ぶ装置。コンセプトを垂直に立面で実体化し、更に遠目にも素人目にも理解を伝え、喜びをもたらすことにかけては極めて優れているのは確かだ。
「CLTパビリオン」が一体何なのか、これも今調べて分かったが、一般社団法人・日本CLT協会によれば「Cross Laminated Timber(JASでは直交集成板)の略称で、ひき板(ラミナ)を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料です。」とある。プレハブ工法で工期を短縮でき、木を重ねているので断熱性・遮炎性・遮熱性・遮音性を有するという、見た目以上に高性能な凄いやつのようだ。
中は空洞、空間である。天井はガラス屋根が入っていて雨は防げるが、四方は空いていて風が素通りする。高原に近いし日も暮れているので寒い。やはりオブジェである。だが建物に準じた空間がある。
使われている木材、もといCLTパネルに特徴がある。それが何かを私は知らない。「岡山ひるぜん別荘ピーターパン」HPより引用する。
CLTパネル1枚は、7枚の板(厚み210ミリ)が組み合わさり、全て真庭市産のヒノキが用いられ、パネル枚数にして360枚、約235立方メートルが使用されています。日本らしさとともに開放感が表現されています。
CLTの魅力を伝えるシンボリックな存在として、2019年12月14日の開業から、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を経て、2020年秋までの1年間を通じて晴海の地で運用されます。
その後、使用されている木材の生産地である岡山県真庭市の国立蒜山公園内に移築され、観光や文化の発信拠点に生まれ変わります。
ようやく前後関係が分かったが、2020年、東京2020オリンピックに合わせて東京の晴海に建てられていたのだ。それを蒜山に移設したと。五輪が1年延期されたので微妙なアレだったとは思うし、晴海の都市景に溶け込んでいる姿も見てみたかったが、まあ広大な蒜山の方が主役を張れて幸せだったと思う。これ以上に高い建築物がない。事実上のスターである。やったね。
少し間を空けて、巨大な猪のオブジェも立っている。日用品の廃材が積み重なって集合したボディ、淀川テクニックの作品である。
目が魚だ。廃材も鱗っぽい。瀬戸内国際芸術祭で作られた宇野港の「宇野のチヌ」が想起される。
ここが気合いの入ったアートスポットであることが分かった。もう少し暖かくて日照時間の長い時期に堪能したい(この日は寒かった)。。
紹介の順番が前後したが、ミュージアム。木がふんだんに用いられつつ、大きなガラス面で中の展示がよく見えるし、展示空間側からも蒜山の空と緑が見えて、開放的だ。良い空間だった。
◆(ミュージアム1F)/川内倫子
「川内倫子と蜷川実花はどこで何を見ても大体同じ」という乱暴な通念が個人的にある。そういうレッテルや勘違いは良くないのだが、展示・新作発表の度に、常に真っ新な心で向き合っているかと言えばかなり嘘になる。両者とも平成写真史のパイオニア、固有の文体の開発者であるがゆえに、不文律とも言える文体に強く貫かれているために、多少の変化、「その後」の変遷を度外視できてしまう。してはいけないのだが多少飛ばしても支障がない、そのぐらいゼロ年代初頭に重要な仕事を成してしまっている作家であり、そうであるがために現在形は常に目測で軽く見積もられてしまう。自ずから原点からの延長線(延長戦)として、相対的な変化の有無、大小を問うばかりにならざるを得ない。
だがしばらく目を離していると、その力の大きさを思い知ることになる。目測が甘かったと反省する。
本作は見事だった。世辞ではない。
岡山県に訪れて撮影したシーンの数々が実に艶めかしく、今そこでまさに生起している命のように感じられたのだ。誇張ではない。
蒜山の山焼き、北房のホタル、新庄村の不動滝、岡山市のはだか祭りなどを撮り下ろした新作36点のプリントが展示されている。
手法的には従来の作品から変わるものではなく、光と生気に満ちていて、「感動」という具体的感情のクライマックスを来す手前の、原初的な情動を湧き起こらせるところで広がりを持たせた描写で留めている。端的な単語でありながら限りなく広い情動を持つところの語彙で語ってくる。「M/E 球体の上 無限の連なり」展で実感した、地球規模の世界風景を岡山でやっている、しかも反復ではなく深度を徐々に深めて、発展させている。
「KYOTOGRAPHIE 2024」での展示が小粒でまとまり過ぎていたことに、実は不満を感じていたことにも気づいた。そして「川内倫子はやっぱり怖い作家だ」と心の襟を正した。世辞や媚ではなく実際これはやばいと気付いた。手を太陽にかざす、水に手を触れる、眼を風や空にやる、それだけのことと地球の物理的な運動とをダイレクトに結んでいる。
なぜそれが可能となるのかが分からない。引いて、会場風景の写真で見ると、エモい光景に、バズる定型句に見えるだろう? 実体は違う。それらはサムネ画像やスマホ画面とはわけが違う。圧倒的なスケール感でこちらの身体を呑む。はっきりとした形のある感情や感想になるもっと手前の情動がそのままに続く。言葉になる前の溶けだすようなまさに光や炎や水滴のような、粘体や溶体、プラズマ様のものが、写真と「わたし」の間に巡るのを感じる。だから怖い作家なのだ、川内倫子は。
◆(ミュージアム2F)/東勝吉
なんだか異様な迫力のある絵だ。コミカルだが鬼気迫る。田中一村の目を備えたアンリ・ルソーというのか、どうにも標準的な絵画ではない。キャリアはなんと林業(木こり)、引退後の老人ホームにて83歳で本格的に絵筆を握り始め、新聞や雑誌の風景写真を参照して風景画を描いた。
「長年の林業経験に基づく独自の視点で自然を捉えた表現が特徴的である」とある。これについてはさらに詳細な解説がほしいところだが、なんせ構図としての収まりはよく、配置はしっかりとすっきりしている。
しかし樹々、植物の描写は確かにどこか奇妙だ。記号的、約束事の絵ではない。プレパラートの外へと這い出てゆく小動物のように意識の枠から脱していく生き物だ。これという定型の処理ではなく、種々の微生物が細かく震えながら姿形を変えるようにして描かれている。これが植物に対する「独自の視点」ということだろうか?
草間彌生の平面 × 揺れ動くような網点の異様さにも通ずるものがある。記号的「点」ではなく物理的かつ心身に迫る存在としての「点」。自他の境界を破るように繁茂してくるもの。その泡立ちが感じられた。そして妙に角ばった輪郭がルソー的で、コミカルだが怖い。世界の切り取り方/迫り方に独自の、私達にとっては不慣れなエッジがある。魅力的だ。
◆(ミュージアム2F)/東山詩織
恐ろしい作家を知ってしまった。だまし絵的な、神話を記した経典の挿絵のような、永遠に無限回繰り返される幾何学模的な庭園のパーツとコマ割り、遠近感の折り畳まれて狂おしくなった平面の中で、一枚の世界の中で複数の連鎖・反復するシーンの数々。時の流れが完全に停止している。遠近法が入れ子構造で同時多発的に自己増殖と縮小化を繰り返している。
同じ1日が完璧に繰り返されているのか。全体としては移ろいゆき変化していく様々な日々があるのか。だが日々の中には区別はさほどなく幾つもの分岐と連続が示されるのみだ。ほんわかした色味のタッチだが、その実、見る者を引き込んだら容易には帰さない引力構造が満ちている。連続性のうねりの中へとこちらの視線が吸い込まれて出てこれない。
時間。繰り返される日々を薄く細かくスライスし採取したシーンを重ねて並べて、コマ送りのフィルムカットを並べるように細分化されて止まった時間が流れていく。凍結しながらも漸次、流れていく時間。だが時間や空間、認識を科学的にカットアップしたり解体・再構築を迫るものではなく、科学の逆側へと至った領域である。営みはそのままに、静かな神秘を感じる。宇佐美圭司をもっと神話的に寓話化したような世界がある。
神秘的と感じるのは幾何学的な時のスライスの調理と盛り付けのためだけでなく、人物が白いはんぺんのような精神概念体として描かれているためだ。自我、過去や未来といった時系列を失った/超えた、人型の何か。恐らく私達よりも高次のところにいるであろう存在をそこに見る。
と思いきや、つぶさに見ていくと人物像の行動、有様は意外と人間臭く、私達そのものでもある。これは日本古来からの絵巻にて一望的に、多時間で、かつ戯画化されて描かれた人間世界そのものでもある。
この世界はもっと追っていきたいと思いました( ◜◡゜)っ
◆(ミュージアム2F)/上田義彦
きました、我らのもう一人のスター。川内倫子と対にして見てみたかった作家ナンバーワンかもしれません。上田義彦。何が? 自然、水と植物と光がある地球というものを最もよく見ている写真であろう。
上田義彦作品を生で見たのは初めてだったと思う。流石である。写真集「forest」に圧倒されたのと同じ重みと深度があった。森の中に入って全身の感覚を森へ同期させたらこうなるだろうか、いや五感と写真表現はまた別のものだ。それは肉眼をいくら凝らしても見えない領域の「森」であり、人間的知覚に基づく場から動植物側の世界へ相を移した時に見えてくる世界にも思える。
通常の視界、普段の登山においては、実は森の中は雑然としているか、合目的な見え方(ルート探しや絵になる光景の検索)に偏っている。この写真のような、しんと静寂をもって深いピントの合った見え方をするのは、こちらの主観が透明になり知覚と身体と外部がぴったり合致する時だ。トランス状態というのか、樹々の一本一本が異なる存在として立ち上がり、そこは何処へ行くための道でもなく、その場それ自体が完結していて。だが同時にその場面は、膨大な山、森のごく僅かな一片でしかなく・・・。しかしこの眼には今それが全てのものとして映っていて、それが、時間と空間のどちらにおいても繰り返され、ずっと続いているのだろうと思う。
川内倫子が地球の内側に・地上に立ちながらその様を成層圏から見るかのように圏内/圏外ギリギリの眼をもって「惑星」を映し出し描くのに対し、上田義彦は地上を極め、1G重力の重みの中で繰り広げられる「地」の営みをずっしりと現す。地球が球体であることを一度忘れ去って壮大なミクロの密林へ分け入り、木々と川の脈動の織り成す世界を歩み続ける中に、ここが地球であったことをふと思い出すような、徹底して深い森がある。
森の中から森を見ることはできない。ドローンや衛星でなければ姿形は把握できない。だがそれらによって外から幾ら観察しても「森」という場のことは分からない。ではやはり森の中を歩くしかない、とはいえどこまで深く潜ってみても、「森」は似たような、同じような地形の、全く異なる場面を繰り出し続ける。樹々と水、石と岩、太陽の光と影が延々と、似たようで全く異なる場を作り続けていて、動物も人類もそこからやってきた、きっと。
山、森の中という観点では山内悠、それらと人間との関わりでは石川直樹、手始めにそうした比較を考えていきたいと思った。上田義彦はまだ自分の中で未知数だ。さて…「forest」の再販をしてもらわないと困る…(市場から払底しておりプレミアになっており血反吐)。
◆おまけ)ヒルゼン高原センター・ジョイフルパーク
「GREENable HIRUZEN」と道路を挟んで向かいに建つ、ミニコースターやらミニ観覧車やらを備えた大きな洋館、みるからに土産物市場といった建物が待ち構えている。全くその通りで、近づいてみるとコロッケの出店などをしていて、高速サービスエリアと同じノリなのだった。
車で走っててすっごい気になってたんや。レトロだが現役の施設。今回は時間がなさすぎて土産物売り場しか回れてません。雨で寒いのもある。
売る気まんまん。しかしでかい土産物屋は好きです。土産物で菓子だの蕎麦だの白ご飯のお供だのを買い漁らないと何しに遠方まで来たのか分かったもんじゃありませんからな!!!
菓子、野菜・果物もさることながら、岡山はB級グルメにも力が入っていて「ひるぜん焼きそば」とそのソースが前面に押し出されている。う、うまそう。み、店で食いたいんや。どうしても肉やら野菜やら現地もんを揃えないとB級グルメって完成しないことないですか?再現がむずいんや。
手芸品コーナーではなぜかロック歌手、忌野清志郎がやたらフィーチャーされており、一瞬「ここが地元やっけ?」と訝る始末。東京都中野区生まれ、国分寺市富士本育ちらしいです(wiki情報) なんでや。
単に担当者が古のロック好きであることが察せられ、まあそれならいいです。
やたら店内にMEDICOM TOYのクマ型フィギュアが散りばめられており、90年代後半に深刻な影響を受けた店主であるような気がする。10代の終わり~20代に裏原系で世界観を染め上げられたタチですかね。
「風のシルフ」美味しかったよ。実にブドウの上品な甘さと香りが。
菓子選びが楽しすぎて没頭した。蒜山ですからね。牧場があるので乳製品がすごい。乳製品は正義です。みんな真・チー牛になるがいい。チーズ、バター、クリームで脳を白く染め上げましょう。わああああ。
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こうして「森の芸術祭 晴れの国・岡山」真庭・蒜山エリアの鑑賞をギリギリで終え、17時までに何とかしたのであった。何とかなってよかったよ本当。写真家の展示を見落としたらえらいこっちゃで。何とかなったので優しい気持ちになった。上田義彦の写真集がほしい。
後日、最大規模の展示数を誇る津山エリアを攻めるのであった。わあい。
( ´ - ` )完。