写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】児玉房子「criteria」@The Third Gallery Aya

【写真展】児玉房子「criteria」@The Third Gallery Aya 

風景と化した科学。1990年に発表された本シリーズは、当時の最新鋭の科学施設の内部と外観を中心として、人工的で冷たい光を放っている。現在の「都市生活」の原点と本質を、鮮やかに、かつ、クールに捉えていた。

 

 

20枚のカラープリント作品に収められているのは、日常の空間・風景に「科学」の超空間が食い込んでいる様子だった。

等間隔に並ぶ施設に配管が這う、原発がある、開園5年目のディズニーランドがある、養殖施設で鯛が泳ぎ、ラボのフラスコの中で植物が作られ、体内を電気的なトンネルのように写し出す病院のエコー画像と、腫瘍で膨れ上がった臓物のような使用済みの食用油とが併置され、サイバーな光の中で演奏するミュージシャンは防護服を着た原発従業員と見分けがつかず、草原に川が流れ、書き割りのように鮮やかな青空と施設と剥き出しの地面を背景に、青く輝く人がジョギングしていく。

これらが90年代という新しい「風景」なのか。そしてそれらは30年近く経った現代にそのまま繋がっている。

 

80年代後期に撮り溜められたこの近未来的な光景は、とても美しくもあり、現実離れしており、面白い。これまでの日本が未来社会のイメージとして憧れてきた世界観であっただろう。デザインや広告、SFなど様々な分野で描かれてきた、空想にも近いスローガンだ。それが高度成長期を終えて、とうとう現実のものとなってしまった、現在完了形の姿である。

80年代を賑わせて熱中させた所謂”ポストモダン”的な状況は、あくまで思考のゲームであった点が肝要だろう。それは社会全般が高度に発達したメディアと消費動向によって生まれた記号論、表象を巡る思考のドライブであったと思う。

しかし児玉作品は、表象や記号の思考ゲームを超えて、現実的な人々の暮らしの場に「科学」の世界ががっちりと食い込んで来ていることを告げている。いや、人々の暮らしがこれまで神聖不可侵だった「科学」の現場に追いついてきたのか。児玉作品では、「科学」が越水して日常や暮らしにひたひたと迫ってくる様子と、逆に民の暮らしが「科学」の環境を内部に取り込み、仕事や娯楽の場が一体化していく様子とが同時に提示されている。

 

そして、その結果を私たちは身に染みて知っている。現実のハードウェアとなった「近未来」は、その瞬間から物理的、建築的な劣化が始まり、今では全国の公的機関がメンテナンス、建て替えのコストに頭を悩ませている。夢の国では過労やパワハラ、非正規雇用の現実的問題が度々告発され、医療界はなおも治療法を進化させ続けてはいるが、とうとう医師の労働時間に労基署が立ち入るといった制度疲弊を露わにしつつある。原発に至ってはお察しの通りで、人類では責任のとれない脅威という本質が明らかになり、廃炉と再稼働が取り沙汰されている。

 

作者の眼差しはこれら科学の風景を、美化も称揚もしない。逆に告発も非難もしていない。そして、耽美にも遊戯にも陥っていない。あくまでも当時、日本という島国が駆け上った一つのステージの姿を、冷静に、力強く捉えている。その裏では、カオスへの序曲が、静かに、不穏さの低音を孕みながら、響いている。

タイトル「criteria」(クライテリア)とは「基準」「規範」という意味の単語で、「判断基準」や「評価基準」を表わすときに使われる。

ここに示される基準、そして判断とは何だろうか。作品が発表された当時は、我々人間の暮らしが科学施設・装置化され、ヒトの世界を離れた基準によって規律されてゆくことをイメージしていたのかもしれない。

現在、「評価基準」というタイトルは、この近未来を達成したの後の崩落、疲弊、破綻といった現状に対して、どう向き合い、責任を負って、後の時代を創ってゆくのか、その腹の括り具合を試される指標となって立ち現れているように思える。

 

( ´ - ` ) 完。