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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R3.3月_岩波友紀「紡ぎ音」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

2011年3月11日の東日本大震災以降、被災地で催された多数の「祭り」を追ったドキュメンタリー作品。祭りは地域住民にとって、なくてはならないものだった。人物だけでなく、風景だけでもなく、その両方が写された写真群によって、「被災」と「復興」の狭間にある東北を見た思いがする。

「祭り」はその中に生きる人々に繋がりを生み、生命力をもたらす。

 

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【会期】2021.2/20(土)~3/28(日)

 

 

1.岩波氏の取り組み

 

本作は東日本大震災の被災地で「祭り」を追ったシリーズである。第4回入江泰吉記念写真賞に選ばれ、本展示の企画と同名の写真集の作成がなされた。

作者は被災地に関する複数のテーマに取り組んでいて、写真集『One last huge 命を捜す』(2020、青幻舎)では未だに行方不明のままの我が子を捜す3人の父親を特集し、展示『Blue Persimmons』(2019)では原発事故後の福島の暮らしを追った。

 

東日本大震災後の東北、原発事故後の福島に入った写真家は数知れず、単発のプロジェクトや写真系学校の生徒の活動も含めると夥しい数に上るだろう。その中で、被災10年目となる現在まで継続的な活動を実践している写真家がどれだけいるだろうか。

岩波氏は骨の太い活動を続けており、その成果として写真集と展示を近年立て続けに発表している。それらは「終わりのない喪失」と「今を生きるための祝祭」とのスパイラルを物語る。

私が観た岩波氏の作品は後者:本展示のみで、本当は前者:『One last huge』も観ていれば、被災地・三陸が負った喪失の深さが知れたであろうことは言うまでもないところだが、関西での展示は無かったので、展示概要や別件のトークから補完する。

 

 

津波で奪われた子どもの遺体を捜すということ。

 

10年の区切り、復興五輪という言葉や、巨大堤防や街全体の嵩上げという土木事業は、「被災」を「過去」のものとして押しやり、地層区分のように分類、ラベルを与える。外側にいるとそういうものだと思うようになる。たとえ色んな事があったとしても、人の気持ちにも同じく区切りが付くもの、いや、付けられるべきだとの思いすらある。これは私達に組み込まれた経済観念に由来するのだろう。悲劇を乗り越えて、直線的発展のルーティンへの参加を再開せよ(私達と同じように)、という要請である。

『One last huge』は、被災地・被災者がそのような経済回路へ再組み込みされることに、静かに抗するドキュメンタリーだと思う。

 

 

2.「紡ぎ音」の内容

本展示の展示数は80点(踊り子の読み上げた挨拶文1点と、津波で流され拾われた写真7点を含む)、写真はいずれも「祭り」、民俗芸能に関するものだ。配布された展示作品リストによると、作者がこれまで撮影してきた祭礼・民俗芸能のリストアップは、22市町村・106の儀式にものぼる。

 

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本作は個別の祭りに点として深く密着してドキュメントするというより、東北の被災地を面で追っている。津波は広範囲にわたって地域の生活基盤や人命を奪ったが、写真家は足と眼でそれを辿り直し、喪失の中からの再生に「祭り」が深く関わっていることを明らかにしてゆく。

 

写真の撮り方とセレクトからしても網羅的というか、様々な「祭り」や地域を等価に撮っていることが伺えたが、この図によってその射程の広さがようやく掴めた。何より、多彩な祭り・儀式があるというシンプルな事実を知った。これらの祭りが観光のためではなく、地域や住民らが被災から立ち直る過程で催されていったものだと思うと、その意味が分かってくる。

 

 

3.「祭り」の意味

本作で取り上げられている「祭り」の多彩さと意味については、3/21に開催されたトークイベントで、橋本裕之大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員・坐摩神社権禰宜の内容が詳しいので、そちらを参照されたい。写真集から個別に写真を紹介しながらの解説なので分かりやすい。

 

古くから続く祭りや芸能は多くの場合「伝統だから」続けていく意味がある・保護しなければいけない、といった風に、目的と動機は循環している。

しかし3.11の被災地では、伝統を継いでいくということを超えて、「祭り」が生活に密着し、「今」を生きるため・生きてゆくために催された。生活基盤を失い、身近な人を失い、コミュニティを失った人々が、再び「住民」として生きていくための機会や場として、「祭り」は機能した。

 

言葉で書くとこんなにも簡単だが、全てを奪われるというのは本当に「全て」だ。自分の体験で言えば、視界の全てが瓦礫で、海水に浸かって田畑には使えなくなった後、自衛隊の撤去作業が終わって何年も経つのに、ただただ平らな地面と道路ばかりが広がり、工事は延々と続いていて、人の集まる場所が見当たらない。高台には新しい住宅群が用意されているが、魂の入っていない街というか、永遠に未完の造成地のような光景があった。

 

ハードだけを整えても「暮らし」は戻らない。家が建って人が住んでも繋がりは生まれない。

バラバラになった人々と、地域との間に、「祭り」が繋がりを取り戻させた。いや、取り戻すために祭りが再開されたのか。

 

橋本氏曰く、「生活再建や地域再建が出来てから祭りをやる、というイメージが一般的にはあると思うが、逆に再建をするために欠かせないものが祭りだったり郷土芸能だった。」「民俗芸能の研究を長くやっていたが、こんな風に郷土芸能や祭りが、ここまで大事なものとは思っていなかった」とのこと。

「地域があるから芸能をやっているのではなく、芸能をやることが地域を作っていく。これはものすごく大事なこと。」

 

この点は先日にも、同じく東日本大震災後の被災地で祭りを取材し撮影する写真家である、駒﨑佳之氏から聴いた話とも大いに繋がることだった。

 

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祭りがなければ集まる機会がない。確かに普段、学校や仕事、趣味以外で人が集まって何か共通の目標のために力を合わせることがあるだろうか。地元などで思い浮かべても、選挙の応援か祭りぐらいしか思いつかない。うちの自治会もめんどくさい人がめんどくさいことを言うので半ば休眠状態だ。

 

写真には、復興の途上にある風景と、美しく作られた衣装をまとう住民らが写されている。各地の風景が大きく写り込んでいるのが特徴的だ。皆、家も何もかも失った中から、力を合わせて祭りの衣装・装具を一から復元し、人数分を揃え、準備をしてきたのだろうか、その熱量を想像させられた。

 

祭りの光景と参加者らの集合写真とが同列に並んでいる。普通なら集合写真は記念である。ここでは参加者の記念としてではなく、人々を結び付ける「祭り」というものの力を表している。

姿かたちのない生き物のように、人々の間に作用する。祭りとは幻獣なのだろうか?

 

祭りが必要とされるのは、その準備期間で人々が集まって交流できること、当日にはエネルギーを発散させ陶酔感を得られること、参加者同士が一体感を感じられること、様々な理由が見出せるだろう。

だが他の集いと決定的に異なるのは、人がその土地と深く繋がったり、その土地に流れてきた時間――遠い過去から受け継いできた世界観と繋がれることも、大きな動機として働いている気がする。衣装や舞いに込められた、あの世や自然界との繋がりである。それは個人のポテンシャルを超えた、何か深い力をもたらすのだろう。

 

 

4.本作の記録性―「風景」

本作は記録性に優れている。被災から各地で「祭り」が再生し、人の繋がりが再生してゆくことの記録となっている。だがもう一点、逆説的に、「復興」によって失われる「風景」の記録ともなっている。

写真自体は説明的でも情感的でもなく、静かな凪のような写真である。多くは、風景とポートレイトの間というような距離感で、祭りの衣装をまとった住民らの立ち姿を少し離れて、背景を大きく取り込んで撮っている。ここに、被災から復興へという一方向の時間経過が記録されている。

 

写真を見たとき、懐かしく感じた。

集合写真の背景として写り込む「道の駅」の廃墟、まだ瓦礫の散乱する土地、何もなく平らな土と空だけが広がる土地、整地されずあれた表情を見せる土地、仮設住宅・・・ 2013~2019年あたりの写真が多いが、ここには津波で壊滅した東北の表情が確かに写り込んでいる。TVで何度も見たし、現地でも見た、2011年以降の日本の「原体験」としての風景である。

 

1995年の阪神・淡路大震災でも街は一変し、高速道路が柱から折れ、住宅街が燃えているといった衝撃的な光景が何度もTVに写し出されたが、今回の震災に比べると何かが根本的に違う。阪神南~神戸は元々が平らな都市部であり、復興で改良されても土地の本質は変わらなかったことと、基幹となる交通インフラを元に、街がそのまま再建されて人が戻ってきたこと、被災の規模が圧倒的に違う点は、東北との大きな違いだ。

 

10年という年月の経過は現地を既に大きく変えている。膨大な時間の中で、これらの風景は更新され、コンクリートで整備された、完全に平らな造成地となっている。これまでの間に多くの地域で、被災した建物を土地の記憶としてランドマークとして遺すか否かの話し合いがなされ、その結果、津波の記憶を催させるような多くの瓦礫、傷跡は撤去されている、あるいは将来の撤去が決定していると聞いた。

 

土木的「復興」が完了する時、風景は、「祭り」は何処に行くのだろうか。

 

虚しいほどフラットな土地の上に、いつか新しい街が再建され、人の行き来と暮らしが戻るかも知れない。既に散らばってしまったから、誰も戻らないかもしれない。永遠の空白地帯としての風景が、瓦礫のビジョンにとって代わり、共有されていくのかもしれない。

私達の記憶からも、被災の風景は相当に失われつつある。もちろん忘れ去ることはなくて、3月11日が近づくたびにTVと新聞、そしてTwitterSNSが中心となってイメージの再生産が行われるが、あの当時の衝撃から心身に距離が出来ていることを知る。復興は歓迎すべきことだが、なぜかすっきりとしない思いが自分の中にある。このまま綺麗に風景を更新して、忘れてよいものなのだろうか? この写真に写った風景と、祭りの人々に感じるリアリティは何だ?

 

「祭り」が被災と復興の狭間で再生されてゆく様子を捉えた本作は、様々な観点から、今後も参照される価値があると思う。

 

 

( ´ - ` ) 完。