諏訪地方・諏訪信仰のイントロダクションとも言うべき作品である。
ナレーションの分かりやすい語り口で、解説によって進行する、分かりやすさ重視の作品だった。国立民族学博物館の映像資料のように丁寧に進めていく。

もっと謎めいた、言葉にならない自然界の世界観を静かに映像だけで見せていくスタイルを予想していた。自然の音と祭礼の音、唄、鹿の鳴き声しか流れないぐらいの、言葉にならない世界、そして神話や精霊の世界へとカメラを向けていくものと思っていたのだ。
構成も親切で、本作を見れば、諏訪湖・諏訪大社の一帯がどういう地であるかが伝わってくる。「諏訪信仰」、諏訪大社を中心に諏訪地方で息づいている信仰と儀式の数々が、1年という時間のサイクルにおいて催されていく様が紹介される。1年は祭礼の連続であり、今も年間200以上の儀式があるという。絶え間ない儀式によってこちらとあちら=神の国とを接続させ続けているのは伊勢神宮だけではなかったのだ。だが伊勢神宮が格式に満ちているのに対し、諏訪はもっと動物的である。山と水の自然に満ちた四季の移ろい、稲作、そして鹿の生態が密接に関連している。それらは現在形で生きている。
「自然」の力がとにかく大きい。自然を核とした信仰の存在感が最高位にある、諏訪という場の重力源となっている。それは神社、仏教をも超えたスケールだということが分かってくる。
「諏訪大社」の存在感からして神社の力が大きいんだなと漠然とイメージしていたし(なんせ上社前宮 - 上社本宮 - 下社秋宮 - 下社春宮の4社もある)、そこに国譲りの神話、タケミナカタの存在や、『逃げ若』のような日本史も絡んでくるから、神社と日本神話が中心のように捉えていたのだ。
が、数々の儀式には動物・肉が捧げられ、御柱や鹿の頭に象徴されるように、他の一般的な神社の扱う領域を超えた何かがあり、また寺・仏教の方も、諏訪大社と合同で行事を行っていたりして、衝撃であった。
まるで神道も仏教も、もっと古来の縄文時代から諏訪に生きている信仰を核として、その周りを取り巻いているかに見えた。日本神話でも仏教界でもない、もっと原初的な、目に見えない形なき神の世界を重んじていて、それが降りてくるための重要な場所を空けていることが伺えた。まるで神の特区である。真に聖なるものが中枢に降り、その周縁にて神社、寺、現代人らが配列されて、取り巻いて守るように共存している様が見える。
仏教による統治下にあって、「鹿食免(かじきめん)」という札を発行されることで、肉食を許可されてきたという歴史がそもそも異質である。鹿の首75頭分を並べる「御頭祭(おんとうさい)」もまた異質だ。諏訪大社で僧侶らが般若心経を唱える様も異様である。何が諏訪に在ったのか。
核となる、見えざる聖なるものを表するなら「ミシャグジ」であろう。私はいつからかそれを蛇の神の姿形でイメージしていたが、いつからそのイメージを抱いていたのか原典や時期がはっきりしない。映画内では更にもっと判然としない、自然世界の全ての動植物など、あるいはそれらに降りてくる神、あるいは自然に漂う精霊のようなもの、と、凄まじく幅広く語られていた。蛇の映像も挿入されていた。巨木を依り代として降りてくるとも。幼子「大祝(おおほうり)」を生き神として依り代とするとも。諏訪に生きるあらゆる生命の姿をとり、一個の生命の域を超えた、気配のようなものにすら昇華されるのかもしれない。
本作を通じて、ミシャグジという見えざる神、超存在(汎存在)に対する信仰の総体が「諏訪」である、と理解した。
鹿は、ミシャグジとヒトとの間を結ぶ懸け橋のような存在に思える。山と人里とを渡り歩く肢体の姿形、凛とした頭部(ヒトと獣の間の存在にも見える)、四季の移ろいと共に繰り返される角の再生、そしてヒトの命を繋ぐ肉。仏教上の扱いからも抜け出してゆく、神聖さへの想像力をそのまま託されて、ヒトの世界から獣の、山の領域へ渡り歩いてゆく。
鹿がそのままミシャグジ信仰というわけではない。鹿は、仏教、神道、ヒトの実生活と、原初信仰・自然界との全てに行き渡る、動く依り代であり、自立して動き回る半・イメージ体そのものではなかったか。原・メディア。
600年前のメモ書きのような記録を元に再現された、御室(みむろ)の神事芸能が、本作および「諏訪信仰」の大きなヤマ場となる。冬の3ヶ月間、生き神である「大祝」と神官(神長官)や神主、童子らが半地下の「御室」に籠って、囲炉裏を囲み、様々な神事を行う。堅苦しいものではなく、ムラの宴会をもっと上品に形式立てたようなもので、代わる代わる、動物になり、狩りを演じ、田植えを演じ、男女の逢引きをなどを演じる。掛け声を上げ、笑い声をあげる。大らかな、人の世を少し超越した、神の場がある。再現された演出と分かっていても、古来からこのようであったという思いがした。
雪と氷に閉ざされる諏訪の冬に、かくも豊かな生命循環の祭礼が秘められていたとは。肉と米と、山と水と、人と鹿と、神がつながる。
だが本作パンフレット(資料集と呼ぶべきボリューム!)に目を通して気付いたのは、実に数えきれないほどの儀式・祭礼や催しが研究の末に数十年ぶり、百数十年ぶりに再現された、といった記述である。
いかなる信仰も伝統も、そのままに永続されるものではない。信仰は、ファンタジーでもある。幻想と物語を維持するためには膨大なマンパワーが必要で、産業として、経済として対価が得られるのでないならば、社会の変化、生活や価値観の大きな変化に晒され、採算が合わずに消えてゆくのは必定である。その破れを、努力や熱意によって再び縫い合わせるように、再生させているのだと知った。
久しぶりに、諏訪に行きたい。