nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2024.12/21-2025.3/9「阪神・淡路大震災30年企画展 1995⇆2025 30年目のわたしたち」@兵庫県立美術館

「30年目のわたしたち」という像をどこまで感得できるか?

阪神・淡路大震災はある年齢層から上の関西人にとっては、東日本大震災よりもむしろ身近な記憶で、それこそ身体に刻まれた傷のように切り離しがたい思い出なのだが、「震災から30年目」を冠しながらも本展示はどこか捉えどころがなく、直接の関連が見い出せない透明なものに感じた。「震災」のニュアンスはかなり薄めで、大部屋に作品を余白たっぷりに並べた、空間的に贅沢な「コレクション展」という印象を抱いた。

なぜか。

論点が「30年目のわたしたち」であって、被災・震災そのものではないためだ。

経過した時間の厚みそれ自体をテーマに据えるのは、かなり成熟した目線である。

 

展示後半でも、30年間の世の中の出来事と、兵庫県立美術館のあゆみが年表にされていた。図録では出展アーティストに「3つの質問」として「30年前、どこで何をしていたか」「1995年から30年間に生じた出来事で、今のあなたにつながる出来事を3つ教えて」「30年後の自分はどこで何をしていると思うか」を投げかけている。阪神・淡路大震災以降の30年間をいかに生きたか、何があったかを考えることで、記号化された「1.17」を生あるものとして捉え直そうというのが、本展示の意図であろう。

 

たしかに「1月17日」はもう長らく年1回の恒例行事として、新聞やニュースの儀式的サイクル、記号的な点となっている。命日もそうだが全ての出来事は時の流れの中で儀式化されサイクルの一部と化すことで、私達は忘却・消滅を避けつつ、日常を支障なく回していくことになる。だが経過した年数の厚み、時の流れの総量は見えなくなる。本展示はその厚みを見ようとした。東日本大震災も15年目が見えてきて、そろそろその熟度に達するだろうが、阪神・淡路大震災だからできる距離感の視座なのだと思われた。その意味では先駆的でもあるかもしれない。

 

意図や構成としてはそう理解できるのだが、鑑賞ではなかなかすんなりと飲み込んで理解できたわけではなかった。

 

理由として、まず「阪神・淡路大震災」、被災、震災それ自体を扱う作品が少なかった。参加アーティスト6組のうち、直接に震災に言及していたのは米田知子と田村友一郎だけと言ってもよい。

理由のもう一点は、作家1組ずつにキュレーターが1人ずつ付くという個別対応のために思われた。作家選出は林洋子館長がまず行って、それ以降の個別の交渉は各担当に委ねられたと図録にあるが、作品制作~展示への落とし込みが個々に行われたのであれば、本展示が大きなコレクション展のような、テーマの一貫性があるようで無いようなバラバラのものに感じたのも納得だ。納得していてはいけないのだが。

 

各作家の中身に触れておこう。

 

米田知子は写真家であることもあって、極めて直接的に震災を扱っていたが、これは写真、しかも90年代の写真の宿命(=外側のリアルをそのまま写し取ることの尊重)とも言える。だがアプローチは段階的でもあり、震災後の被害状況を撮ったものから、10年弱が経過した被災地や仮設住宅のあった場所を写したもの、そして今年・30年経った「今」の光景や、ちょうど30年前に生まれた人達を写したものから構成される。阪神・淡路大震災という災害が、瞬間的な現象から、復興後の風景の奥や下へと追いやられていき、そして人々の暮らしや人生の内に内在化していく、時間の奥行きを語る作品構成となっていた。

最も胸を打ち、意識を没入させたのは、主に2004年あたりに撮られた復興後の風景である。フラットで何の変哲もない風景写真に見える。だが地名と撮影年とプロフといったラベリングと合わせて目にすることで、時のアーカイブとして圧縮フォルダが解凍され、圧縮された記憶が起動し、写真は奥行きを持つ。

現在・2024年の写真作品が撮影不可だったのは、被写体となった人物への配慮であると思うが、それよりも写真がまだ美術館で扱われる「作品」=歴史性の定まったもの・被写体や撮影者から切り離された独立物に至っていない、まだ確かなものとして定まらない「今」の生、ナマなもの、であるがゆえとも思われた。「作品」以前の作品というか。

 

 

田村友一郎「1995年」という時代や「1995年1月17日」という時間の舞台設定を用い、時間(時代)に関連する事物を物理的に集め、記号と物理を越境させて配置し、連想ゲームの独り舞台の空間を形成する。能の高砂を範にとり、シテ(主役)とワキ(相手役)の二人のやりとり:人間と超自然的存在とのやりとりを「1995年」=阪神・淡路大震災という時間系と関連ワードでネットワーク化させている。

それらは必ずしも地震・被災を直接に指し示さず、関連しない。が、当時MicrosoftのCEOだったビル・ゲイツが幹部に送ったメッセージタイトル「The Internet Tidal Wave」津波=震災ともろに想起させ、Windows95は窓ガラスへ接続。会場に置かれた大きなガラスは倒壊・解体されるオフィスビルを想起させ、ガラスは尼崎市で創業した板ガラスメーカー・AGC株式会社(旧・旭硝子)や高砂事業所へリンク。また、被災前に刷られていた神戸新聞朝刊のテレビ欄に見出される19時からのサザエさんにおける定番的表象=野球、ボール、カミナリじいさん、ガラスや盆栽の割れ、へと架空的に接続され、同年11月のオリックス・ブルーウェーブのリーグ優勝(の記念ボール)によって相乗効果を生み出す。それらは作家のメール打ち合わせ=不可視の相手役を巡る舞台として設定され立ち上がっていく。

根本にあるのは美術館のコレクション品の池田満寿夫《窓に向かって泳ぐ》だが、美術品・美術史と実生活上の産業や出来事やメディア情報の力関係が反転している構造が面白い。更に、被災前に準備されていた新聞朝刊のテレビ欄はまさしく「阪神・淡路大震災が来なかった世界の1995年1月17日」というパラレルワールドで、来てしまった現実と来るはずだった現実2との立体性が更に「1995年」を立体化し、それを歩ける星座のように編み上げ、「阪神・淡路大震災」がより強く意識された。

 

古いモノ・機械が当時の記憶を象徴し、当時を呼び戻すための圧縮フォルダとして――まさに記録メディアとして機能するのを目の当たりにさせられたのは、森山未來・梅田哲也だ。

ラジオが館内のベンチに置かれている。電波に乗った、電波化した音声が流れる。朗読劇というか日々の記録の読み上げというか、長時間聴けていないので全容は分からないが、あのラジオという装置の形状(長方形、銀色のアンテナ棒、スピーカー、選局の目盛り等)と電子的なざらつきを帯びた声に触れると、90年代の震災という実感が強く湧いてくる。作品は音声・気配、場とラジオのみなので、田村友一郎よりももっとシンプルに「ラジオ」が意味を帯びている。

時間の都合で同時展開された「注目作家紹介プログラム チャンネル15 森山未來・梅田哲也《艀(はしけ)》」は鑑賞できなかったが、本来はこれを観ることで二人の作品について全体像を得られるはずだろう。映像なのかどうかすら明らかにされていない。

www.artm.pref.hyogo.jp

 

束芋ステートメントで震災当時、被災から距離のある状況にあったことを思い出として綴っている。神戸の山手側に住んでいたため、大きく揺れて停電したものの海側とは被害状況が全く異なっていて、電気が通じてテレビがついてから惨状が分かってきたという。

「私のあの日の経験は、あの家にいて、餅を食べ、情報が入ってきて怖くなった、ということだけでした。」と締め括られるエッセイ風ステートメントは、実は当時の関西人の大多数にとっての「阪神・淡路大震災」の共通経験なのではないか。倒壊や火災で廃墟化したエリアは確かに広かったが、激しく揺れた・家の一部が壊れた・TVで後から大惨事を知った、という形で「震災」を体験した人が圧倒的に多かったのだ。その意味でこのテキストは非常に刺さる距離感にあった。

だが大型の映像作品2作《神戸の家》《神戸の学校》は2024年制作ということもあってか、それだけを見ても震災のことと結びつかない。勿論、どこか妖怪めいた不気味さはある。家屋や教室の閉鎖された空間を、人称不詳の固定視点で模型をバラすように構造の外から見ていること自体がどこか不気味で、そこに怪異が混じり、湿度の高い陰とともに描かれ、妖怪のようなのだが、震災みは感じない。が、手作り・手描きのアニメーションは不安をそそる。「日常」を安定的に構成する建築空間が、メタ的に外から中から侵食され揺るがされる、これは自然災害が身近なところにある民のメンタリティが溢れているとも言えるだろうか?

 

やなぎみわの桃の実、イザナギイザナミ神話の作品に至っては、もはや震災とは別の領域にある。国生み神話から淡路島=震災で大きな被害を受けたエリア、に紐付けるにしても、扱うのはイザナミ死後の黄泉の国の話であるからやはり直接の連想先にはならない。こうなると作家性・テーマ性の進化と深化、『エレベーター・ガール』シリーズ(1994-98)での写真家的なデビューから、30年経って『女神と男神が桃の木の下で別れる』シリーズ(2016~)や演劇、能楽とマルチな表現者へ進化を遂げ、女性を巡る物語性も神話の領域に達したところに「30年」の厚みを見るべきということだろうか。それはひいては写真そのものの拡張性とも結びついている。

広い部屋の四方の壁を『女神と男神が桃の木の下で別れる』シリーズの、大伸ばしの写真が取り囲む。アンダーな闇の中にぬらりと映える/生える桃の木と桃の実が、現実を超えた領域で、赤い実は色濃く何かを語っている。桃の実に囲まれて、私達は神話の国へ転送される。桃つながりで、隣の部屋からはイザナギが黄泉の国へイザナミを連れ戻しに行く神話の能楽が流れている。やなぎみわのコーナーはまさに「30年目」の作者の活動の幅と、写真表現のスペクタクル性・拡張性を語っていた。震災を押しやるほどの力だ。

 

國府理の《水中エンジン》(水は抜かれている)やアイデア・世界観のスケッチ群、確かに懐かしい(ゼロ年代~2010年代前半でよく見た気がする)けれども、なぜ今回ここに配置されているのか? 阪神・淡路大震災と直接のリンクがなく、また作者は2014年に逝去しており「30年」という時間の堆積や変遷とも直接には関連しない。

ここでは《水中エンジン》がいつ・どういう動機から作られたかを辿る必要がある。幸いにもステートメントで触れられているが、元の作品は2011年の東日本大震災原発事故をきっかけに作られ、2012年に京都の「アートスペース虹」で発表されたのだ。文字通り、水で満たされた水槽内に吊り下げられた軽トラックのエンジンが駆動するという作品で、熱源を水で冷却しなければならず、また作者が頻繁にメンテナンスしなければ安定稼働しないという、原子力発電の仕組みをそのままなぞるものだった。

つまり本作は「阪神・淡路大震災」の次に来たカタストロフィー、「30年」の中で最も強くて深い被災のパラダイムを刻んだ作品と言える。なおかつ、作者が事故で亡くなったことで、遺されたマシンをどうやって抱えていくかという課題も残された。アフター・1995の時代の作品である。

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こうして見終えたが言語化には時間がかかった。図録やステートメントから趣旨を読み取っていくと見え方を補正できるが、会場でそれは難しかった。同行者も「?」となっていた。

 

やはり2011年・東日本大震災がスタンダードとなった影響がある。東日本大震災福島第一原子力発電所事故の後に、長期に亘って連続的に叩き込まれたアート作品・アーティスト活動の態度が、知らない間に現行のスタンダードになっていたのだ。

被災地の破壊、苦境、避難生活や失われた地域コミュニティ、コミュニケーション、歴史、放射能汚染や企業・行政の暴力性と支配を直接に言及し、「現地」と歴史に積極的に介入するアーティストと作品のアクティビティが、「カタストロフィとアート」の前提となっていた。直接に現地を引き出し、引用と参照と召喚を、想起を、参加を、双方向に仕掛けていく、SNS的な、まさにソーシャルメディア・関係性の場としてのアート。それが2010年代以降の、被災地・災害に関するアート言語として備わっていて、本展示はそういう切り口や文法ではなかったために、戸惑ったのだ。

 

というわけでやっぱり米田知子の作品が説得力があり、正しかった。逆方向の意味で、やなぎみわも震災と別の次元で、異様な説得力があった。

 

なお、もう少し関連性を拡張して見るなら、会期をリンクして催されているコレクション展阪神・淡路大震災30年 あれから30年――県美コレクションの半世紀」も観ておくと、美術館としていかに阪神・淡路大震災と関わったかが見えてくる。

 

( ´ - ` ) 完。