写真集の読める写真集カフェ「芥(Aquta)」。2025年1月10日、京都の西陣に誕生。
君は5,000冊読めるだろうか。
数字は全てを語る。
「写真集が5,000冊あるカフェです」
刺さる。破壊力がありすぎる。
◆概要的なあれ
日頃「数字で説明したら死ぬ」「結論から説明したら死ぬ」と呪っては死んでばかりいる私(ドクズ)でも、さすがにこれは刺さった。腹膜が痛え。天下のいかなるビジネス書よりも、この写真集カフェのコンセプトは雄弁に事態を物語っている。数字だ。数字なんです。コンセプト。
皆さんお手元に写真集は何冊ありますか? うちはせいぜい500冊あるかないかでは。そこまでもないかも? 雑誌や論評や雑学など雑多な本がやたら多くて、写真集自体の割合は知れているのだ。本当はもっとあるかも、いや、(´・_・`)
あと、実際の生活で写真集はほとんど読まない。読みませんよね。YouTubeが悪い。家で写真集を読む場面は、blogや原稿を書くためにその写真家について調べ物をするときぐらいで、普段はYouTubeとXに隷属している。写真集を読むためには、インターネット接続から切断された環境で、写真集という選択肢に集中できないとだめです。
このあたり、私だけではなく、皆さんにも共通するのではないか。調査はしていないが感覚で言っています。感覚。
そんなわけで「芥」は私達のような「写真集を持ってるけど中途半端で、そしてあんまりちゃんと読んでない」層(規模感が不明だが居ることは居るのだ)にとって救いになるのではないかと。思いましたね。ええ。
位置関係を把握しましょう。
京都の西陣にあります。西陣というのが、概念では知ってるけど具体的な場所を知らない。普段行かないですからね。大阪人ですいまへん。へえ。晴明神社の少し西どす。あと北野天満宮の東側。大雑把にいうと京都御所の西。大阪人やさかいに雑ですまんやで(雑
写真関係でいうと「RPS京都分室パプロル」の南東に位置し、徒歩11分なので、一緒に回ることができる。あのあたりは展示関係で繋げて回れるスポットが無かったので、うれしい追加ポイントですわね。
「芥」、外観はこじゃれた京町家。中に入ると受付カウンターがあり、反対側の壁際には台があり展示作家:今回は阿部淳の写真集販売コーナーとなっている。
カフェっぽい外観だが、実際、カフェという営業形態をしていて、入場はワンドリンク制で千円。チケットまとめ買いもあり、メモしてなかったけど6千円で10回分ぐらいの、相当お得になるあれです。家が遠すぎて10回も来れるか分からないので、今回はひとまず様子見で入場。
カウンターから奥が、深い。リフォームされた綺麗な古民家で、奥へ奥へと細長く空間が続いている。両脇の壁、上の段に写真作品が貼り出されてギャラリーとなっていて、下は本棚がずっと続いている。部屋は通路のように細長い。向かって右手前の座席、フロア中央にテーブルと椅子。
目移りする。やばい。写真集がたくさんあるやで。どれをみましょう。うろたえている。
◆写真集
めちゃくちゃあるやで( ◜◡゜)っ
めちゃ(略
オーナー・佐竹直人氏の蔵書の一部を開放・公開しているのが、この圧倒的5,000冊である。なんぼあるんですかこれ。せやから5,000冊やと(略
動揺しており茶番を
本棚は、新旧様々な写真集で混成されていて、貴重なプレミア図書もあればつい最近出た写真集もあり、どちらも鑑賞のし甲斐があります。新田樹「Sakhalin」が普通にあったりするし、志賀理江子「カナリヤ」「螺旋海岸」、HIROMIX「光」などプレミアものが普通にある。ウオオ。いったい何年ぶりに読んだだろうか。なぜあの時買わなかったのか。己の不明をはじる。
写真集は一期一会すぎるのだ、書店でありふれて有り余っていたかと思ったら、ある時期から急に絶滅してプレミアになる。かと思えば値崩れしたまま新品もまるで動かないものもある。見極めが難しい。なのでこういう写真集読み放題な施設は、非常に価値が高いのだ。高い。
それぞれの棚の構成について、全く体系的には見られていないが、とにかく有名な写真家の名前が次から次に出てくる。森山大道、荒木経惟だけでめちゃくちゃスペースをとっているので、すごい。他の写真家の何倍のボリュームあるんやこれ。名作振り返り、名作家振り返りをしましょうね。
森山大道だけでこれ。 ※一部やで。
うちの家にも多少あるが、荒木・森山は無限に出版物がありますんで、きりがないというか。丹念に1冊1冊を愛でるというよりもっと異質な感じがある。コレクションし始めるとコレクション自体が目的化するようなところがあって、世界が写真と化す、ということを写真集の方が侵食的にやってくる。おお。もっともっとと呼び始める。おお。呼ばんでいい。いいから。そんなわけでうちにはそんなに多くは置いていないのである。自己増殖するからな。
あと、本当に欲しい名著は、プレミア価格すぎて高額なので手に入らないという悲しさがある。うちはプレミアを置かないことにしている。骨董品蒐集家じゃなく、あくまで実用書を置いているという意識が強い。素手で触れない本は置かない。手袋で読む本こそ、こうした施設で読むべきだ。
また、昔の印刷物は黒が締まっていて、今の印刷では再現ができないようだ。現在出版されるものとは黒の格が違う。よって今、出版されるものは、名作の復刻版でも何でもあんまり食指を動かされない。カラー写真集はまた話が別だが、モノクロとなると復刻という名の別物に感じたりする。そんなわけで、うちの家に荒木・森山の写真集は増えそうで増えにくいのである。
ここで読むしかないよなあ(´・_・`)
あるやで( >_<) (読み切れないので混乱している
とにかく
海外写真家の棚は入口付近にあります。やばいんや。
ジャンルも多岐にわたっていて、アート系もドキュメンタリーも人物も、時折アイドルものもある。辺見えみりのセルフポートレート写真集があって、90年代後期の世界にタイムスリップした。あの頃、写真は、輝いていた。TikTokなんか無かったからな。飾らない「わたし」の「日常」を最もストレートに自己演出して自己表現してみせる最高の手段が写真だったのだ。すごい時代だ。夢のようだった。夢ですわ。ええ。
一方で、剣持加津夫「麻薬」、これは心に数十㎝の深い傷を刻むカミソリのようなドキュメンタリー写真である。麻薬に蝕まれて人間性を喪失した人間の悲哀が、モノクロームで切り出されている。隔絶された孤独、これは戦後昭和のリアリティだ。いい時代だった。写真が世界の真実の極めて多くの部分を担っていた。リアルですわ。ええ。
こうしたハチャメチャな取り合わせで写真集を読み合わせていけるのが良いですね。偶然の接続が楽しい。写真の幸せな時代を想い、泣く。
◆写真展「阿部淳 1983 + early works」
泣いていてもしょうがないんで写真展示をみますよ。オープニング記念展示は阿部淳です。大阪、関西の誇る写真家で、ガチのストリートスナップ・ファイターである。
1981年に大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校・大阪)を卒業し、2002年からはビジュアルアーツ専門学校・大阪の教員として指導する側に回った。
更に、2006年に「VACUUM PRESS」出版運営に携わり、2013に「ハッテンギャラリー(現 VACUUM GALLERY)」に参加と、関西での写真の発信にも力を入れている。写真集も多数発刊。第2次「地平」シリーズや「VACUUM」シリーズなど、複数の写真家らと組んで制作する写真同人誌がやはり面白い。
その写真スタイルはモノクロ、スナップ、ストリートで、最も基本的な写真・写真家と言っても良いだろう。カメラ一台と体一つあれば「世界」を相手に立ち回れる、世界を相手に表現がやれる。いや、表現というよりも、存在と対峙できる…存在とは?? そんな夢のような写真の時代の申し子であり、写真の伝説を今も生きているレジェンドの一人と言っても良い。そう、写真には全てを写すことが出来て、路上では全てのものが混然と混ざり合っていた、そんな時代があった。
写真と路上について思うと全てがノスタルジーになってしまう。スマホとプライバシー意識と通報観念が、そして街の商業化・マーケティング戦略と再開発が、同じ見た目の同じ国でありながら、30~40年前とは全く別の世界に仕上げてしまった。阿部淳の作品を観ると、かつて「路上」や「都市」がどういった場であり、「写真」がどう関わっていたかを、羨望交じりに回顧することになる。
それはもはや異国を見るようなものだ。自由で、撮っても撮られても支障が特になく、猥雑で雑多でごった煮で、パワフルで人口密度が高くて子供が多くて無防備で・・・形容は尽きない。これはある種の発展途上的な状況でもある。逆をいえば現在、発展を終えて洗練をも通り過ぎて、人口減と老朽化とインバウンドで急速に衰退に向かっている中では望みようもない光景だ。
そもそも、都市は経済・産業の一分野であり主体である。グローバル資本主義を前提とした競争世界の中で生き残っていくには、サービス産業の一環として都市空間・ストリートを包囲し、快適さと不干渉と安全安心を過剰に推し進めて、顧客サービスを無限に拡大させていくことになる。写真は除外される。写真は、攻撃的で侵害の行為だからだ。それを許容するだけのタフネスが、私達に今、あるだろうか。ない。明らかに、ないのだ。
阿部淳の写真を見ると、除外されざる幸福な写真時代を見ることになり、ノスタルジックな思いに刺されるのだ。ああ。なんてパワフルな。
( >_<) またこよ。