nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】リボーンアート2019 ④ 小積エリア

「小積(こづみ)エリア」、さきの「荻浜エリア」からまた車で10分たらずで到着。海から少しだけ内陸、豊かな森を背景に、鹿肉処理施設「フェルメント」の周囲で作品が展開される。

 

 

 

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だんだん日が暮れそうになってきていて焦る。9月は日が短いんですよ。夏に来たかった。黄色ののぼりはリボーンの証。黄色にさえ気を付けていれば迷うことはありません。というか他に何もない。

本当に何もない道が続く。夕食どうすんねんと思ったが、実際、飲食店など、ない。何も、無いのだ。女川町市街地に出ないと無が広がっている。

 

「フェルメント」周辺はプレハブ小屋が数件立ち並んでいた。何でしょうこれ。宿泊施設にしてはチープ、土木作業員の作業部屋にしてはどこも作業をしていない、と思ったらこれが作品の展示場所なのだった。「フェルメント」も「処理施設」というから、小さな工場を想像するが、木組みの小屋、どこからどう見てもおしゃれなカフェみたいな外観だった。かわいい。

 

今回は【E】小積エリアです。

30分~1時間あれば回れる位置関係。

インフォメーションと「フェルメント」では鹿の革から作ったお洒落なポーチ類が売られていて、コンデジ入れに買おうか相当迷ったけれど、一袋3~4千円はする、惜しいけれど見送りました。薄くて滑らかで丈夫そうだったので、だいぶ悩みましたが財政事情がありましてですね。

というように、ここでは害獣として名を馳せている鹿さんを狩猟後に解体、加工処理し、美味しくいただいたり皮を有効活用するといった命の循環を「フェルメント」が担い、そうした「鹿」に象徴されるテーマに基づいた作品が展開されています。

 

◆【E2】在本彌生+小野寺望《The world of hunting》

「フェルメント」1階部分で写真作品を展示。在本彌生は写真家、国内外を広く旅し、移動先の風物や食を撮り、旅の雑誌やWebなどで展開。元・CA(客室乗務員)という経歴と旅先の美しい写真には見覚えがあり、過去にも氏の作品は調べて目にしたことがあるらしかった。写真集に『私の獣たち』などがある。

小野寺望は「食猟師」として紹介されている。単に狩猟のプロというだけではなく、狩猟後にその肉が、最良の状態で人の口に入ることを見極めて撃ち、的確に処理を行う。食と猟の双方のプロである。

石巻の山の自然、鹿との関わり、猟と食とが撮られている。この時は来場者も多く、何かイベントでもやっていたんでしょうか。あまり広くはない館内が混雑していたので、記録の写真だけ撮り回り、また革の袋を買うか悩んで、それで出てきた。元々、食事や交流のためのスペースなので、写真はどうしても縦にずらずら積まれる。このように腰を据えて撮られた写真は、真っ当なギャラリーで腰を据えて鑑賞したい。ニコンサロンとかで、十分にマットの余白や作品間の距離を取った状態で見ると、1枚1枚から伝わる言葉はもっとあると思う。

食害キングめいた存在である鹿が、新鮮なお肉になる様を見せられるので、肉がやたら食べたくなるのでした。鹿肉たべたいなあ。くそっ肉。

 

「生かすも殺すも」いいですね。食猟家としてのアイデンティティーの核心にして、私達にも向けられている一言。肉。鹿肉たべたい。撃つのはいいとしても、美味しく食べるための処理が難しいと聞きます。大阪でうまい鹿肉を食べられる機会は、果たして。くそっ肉。

 

 

◆【E5】津田直《エリナスの森》《やがて、鹿は人となる/やがて、人は鹿となる》

2つのテーマを同時展開。楽しみにしていたが、思っていたのとかなり違った。プレハブ内をギャラリーとして白い壁面にし、真ん中にもう一枚壁を入れて2コーナー分を確保し、良くも悪くも「まともに」写真を展示していた。つまり自然の優勢な場にギャラリーという都市の理屈を持ち込んでいた。スペースに限りのある、しかも殺風景なプレハブは、詩の余韻と膨らみを持つ津田作品とは、かなり相性が悪かった。周囲の森や風と断絶されたところで写真が展開されていた。

本作は撮影禁止のため看板のみ。

 

《エリナスの森》は2018年に写真集と個展で展開された作品。リトアニアの深い森に包まれた環境で、村人が自然とともに古来から紡いできた暮らしを撮る。そこには神話が息づいていて、それらの営みを「エリナス」という言葉の響きに込めて作品化した。エリナスとは現地の伝説の鹿で、左右がそれぞれ9本に分かれた角を持つ。

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《やがて、鹿は人となる~》は、今回初出の作品。作者は東北地方で300年以上の伝統を持つ「鹿踊り」(ししおどり)を取材し、人が鹿に扮するという独特な関係から着想を得ている。踊り手は頭から長く伸びた二本の角を伸ばした装束を纏い、鹿となって舞い、太鼓を打ち鳴らしたり口伝を唱えたりする。狩猟で命を落とした鹿の供養に由来するとの説もある。被り物の長く伸びた角は、踊り手の団体によってまちまちのようで、長さを追求した人工の装飾品であったり、本物の鹿の角だったりする。

本作では作者が鹿の角を手に、猟師と共に森に入り、鹿の獣臭や気配を感じるところで、角を森に差し出し、写真に収めている。写真には、森の中で差し出される鹿の角だけが写っている。人が長年に亘って演じ、神格化された「鹿」を、森の側へ受け渡しているようだ。

本来ならどちらの作品も相当なポテンシャルを発揮するはずなのだが、森や風との関係が、展示空間のうえで切断されていたこと、点数もサイズも相当絞られていたので伝わりづらく、残念でした。

 

 

◆【E3】坂本大三郎+大久保裕子《いつかあなたになる》

真っ暗なプレハブの奥で光るモニター3台。点数は少ないが強い存在感と神秘的な印象を残した。手前のモニターは鹿の頭蓋骨、左奥のモニターでは女性が立ち、右奥のモニターでは獣か植物のような衣装を被った女性が動きを見せる。鳥の声、時折、蜂か何かが飛ぶ音がする。暗闇は森の中と化している。坂本は山伏、大久保はダンサーである。これらが人の作り出したプログラム、演技であることを忘れて見入った。暗転と光と植物によって、限られた空間を深い森の一部へ転換する。この発想は見事だった。闇が気持ちよく、ずっといられる。同じ空間でも、使い方の工夫次第で、像は、イメージは、幾らでも生きてくるのだと分かった。

 

津田作品もこういうふうに、空間自体を作品の一部としてアレンジしてほしかった。いや、したのかもしれない。だが…。 

 

◆【E1】淺井裕介《全ての場所に命が宿る@牡鹿のスケッチ》

圧巻の空間。これもプレハブだ。これがプレハブだ。

ここまでやるか、ここまでできるのか、作家の手業に圧倒された。現地の土を用いた「泥絵」だというが、この作者なら素材が何であれ、土地に棲む精霊や古代の存在を見事に甦らせてみせるだろう。静止画なのに「絵」の概念を超えて、絵が総踊りで迫ってくる。こちらの立ち位置、姿勢を変えればまた見えるものが変わり、模様は近付くと何ものかの姿を描いた絵であり、塗られた線はその内側に様々な脈動を湛えている。狭い室内は無限の神殿になる。プロジェクションマッピングや3DCGが古臭く思える。 

どこを切り取っても全て「作品」として成り立っているし、細部に書き込まれた生物、模様、動きにまた新しい発見がある。ミクロとマクロで生命が巡っている。中にベンチがあり、ずっと座っていたかった。「見る」という行為が、体全体で感じる、に置き換わる。

会期が終了したとき、この作品はどうなってしまうのだろうか。プレハブごと保管しておくのか。解体されるのか。だがプレハブにも耐用年数があり、保管するにも輸送費が大変だ。手法は分からないが、この作品には生き永らえていってほしいと思った。 

 

 

◆【E6】堀場由美子《その後の物語 - He knows everything - vol.2 》

『”私”は、かつて存在していた全ての生き物の集合体である。』

 

 

岩からは鹿の毛が生え、巨大な腰椎の骨は、駆ける鹿のシルエットが彫られた木材。物質のレベルを越境して動物と非生物が入れ替わる。しかし違和感がなく、そうか、それもありだなと素直に思えてしまう。

「全ての生き物の集合体」、誰しもが一度は空想し、呼び出してみたことがあるのではないだろうか。海でも山でも星空でもいい、その中にいる時、「自然」と呼んでいるものたちは全て大きな一つのなだらかな流体にも思える。科学的には自然界の存在は体系立てて分類されている。だがそれらは相互に、存在のある部分同士は不可分に、命を交換し合って生きている。

ニホンジカは体長が1mちょっとだが、これだけ大きな骨(のオブジェ)を見せられると、山のどこかにはエルク級の鹿がいるのではないか、という淡い想像を抱いたりするのであった。

 

 

◆【E4】志賀理江子《Post Humanism Stress Disorder》

ご覧ください。

これです。

 

この白い地面と木々と緑が作品です。

 

( ´ - ` ) oh. 

作者名を見て誰もが予想したのは、《螺旋海岸》ばりに写真作品を土地、地形にハードに対峙させる、インスタレーション式の演劇的な写真空間だったのではないでしょうか。私のことです。

本作はどこを見ても写真はありません。

白いから綺麗とか、白と緑のコントラストが綺麗とか、そういう感想もあろうかと思いますが、そもそも「美しい」かどうかというと、どちらでもない。私の写真が劣悪なせいもありますが、実際の風景としても「美しさ」の評価軸にはありません。また、賞美される風景としてしまうと、本作のタイトルの何やら不吉なニュアンスと合いません。

 

白い地面は大量のカキの殻。現場に立ったとき、津波によって陸・海が総シャッフルを強いられたこの地を象徴するように、山と海とを混ぜ合わせた作品なのだと思った。だが時間をおいて現場の写真を見ていると、別に山を海に変えている印象はない。山は山のままである。貝殻が、浜辺の砂や石、もっと大きなガレキと共に配されていたなら、山と海底とが混ざり合ったと解釈できる。だがここにはカキの殻の白さだけが執拗に盛り込まれている。山から垂れ流れてくるように。

白い貝殻は本来は山にあるはずの物ではないが、当然のようにして山の斜面に敷かれているので、これが「表現」や「作品」という枠組みでは、一概には捉えられない。「リボーンアート」の冠や作品名の看板など、観る側の前提がもし無かったとすれば、「そういう風景」としてさらっと受け止めてしまうかも知れない。地元の漁業関係者や飲食業者などの殻の投棄場所であるとか、或いはカキの殻を土壌に投じ、土中に染み出したカルシウム等を木々が吸って白く染まったり変性することを調べる実験場であるとか、表現とは別の軸で捉えていた可能性もある。

さらにこの「作品」は、土足でその上を歩くことが出来る。どこまで歩いて良いのか? どこでも歩くことが出来る。逆にそれどころか、ロープも柵もない。つまり空間上、何処から何処までが「作品」かは明示されていない。バキバキと音を立てて、貝殻(=作品の一部)を砕きながら散策し、その気になれば白い貝殻の斜面を登りきって、山のどこかへフェードアウトすることも可能だ。作品と地形は連続面にある。

カキの貝殻を山の斜面に敷き、木々に穴を開け、杉の木を白く塗るという演出には、作家のプロジェクト性を認めることが出来るだろう。だがその白さの周縁にある緑や落ち葉の茶色はどうか。白いプロジェクトを支えるそれらの総体、あるまとまった「風景」として成り立たせているこの場の構造はどこまでが作家の「作品」だろうか。白さに近付き、「作品」の中へ立ち入ってカキの殻の上を歩いている時には、貝殻の山と、木の幹に開けられた焼きごてのような穴が作品として目に映る。距離を置いて白さの全容が写メに収まるよう捉えたときには、白を含めた「風景」全体の調和が「作品」となる。

時間軸上においても「作品」の境界は不明瞭だ。野晒しで「自然」の一部と化しているため、雨風や人間、もしくは動物の立ち入りによって、設営した瞬間から日々、地味に、激しく変化を強いられている。この場のいつまでの状態を「作品」と呼べるかは判然としない。期間終了とともに撤去・原状復帰が図られるのであれば話は別だが、もし今後3年、5年、10年と展示(=放置)されたなら、カキの貝殻はもっと砕かれ、より下の方まで流出し、貝殻の白さは土などでくすみ、土に近付いてゆくだろう。 

 

杉の木の幹に開けられた穴の、私には残念ながら意味は分からないが、林業や間伐などと何か関係があるのだろうか。円筒状の穴が木の幹を貫通し、周囲は焼かれて黒く、それ以外の幹全体は白く塗られている。中身を失ったカキの貝殻を漁業と見なすなら、この人工的な穴を開けられた木々には林業や造園、建築など陸の人為を見出だすことになる。

人の手により育まれる山、木々が豊かな土壌を作り、その成分が海へと流れ、豊富に栄養を得て成長した海の恵みとしてカキが収穫される。そのカキを海と人との関係、エネルギー循環の象徴として、山の側へと直接置き直したのが本作の試みだろうか。人為を出来るだけ避け、作家性を語ることも出来るだけ避け、写真というフォーマットすら避けて「表現」を行ったということか。

本作のタイトルは「PTSD」(Post Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害)のもじりで、仮に訳せば「人間中心主義的外傷後ストレス障害」、人間ありきの世界観によって負った傷ということになる。この「風景」は深い傷によって抗う余地なく引き起こされる症状、苦しみそのものの表出なのか。見えないし回復しきれない傷を我々が負ってしまっていることを思い出させるための仕掛けなのか。作品の読解に関することは何も語られていない。ただ、忘れられているが内在している「傷」、という観点では、311から8年後の今、確かに多くのものが「復興」の名の下で忘れられている。そもそも「自然」は常に忘れられてやすい存在であることは間違いないし、自然と近い距離で暮らしを営む人たちのこともまた、行政や企業からは常に忘れ去られ、何か重大な被害が発生した時や画期的なイノベーションが興った時にのみ、顧みられる。さらに言えば、東北という「地方」自体が常に忘れられる存在であろう。

忘れることはネガティブではない。心的・肉体的な傷においても、気にし過ぎるより忘れた方が立ち直りが早いことは身近な経験からも分かる。だがPTSDは違う。本人が表層的に忘れ、立ち直っていても、ある場面に出くわすと体が自動的に、強制的に反応する。あるいは慢性的に症状が続く。本作「HTSD」が示す「傷」による反応と、回復 ― 忘却との狭間の距離、闇とは何だろうか。その具体的な中身は鑑賞者がそれぞれに向き合うしかない。まだ生きている木に開けられた数々の穴と焼け跡は、私達人間と東北の土地が負った、物理的、歴史的な傷のことだったのかも知れない。

 

興味深かったのは、写真作家である志賀が表そうとしていることと、物見遊山の観客のリアクションが噛み合わないことだった。「写真」の特質であるフレームを完全に排し、作品と非作品との境界を曖昧としたのは、人為=カテゴライズやフレーミングを排するため、地形を生身の身体へと引き寄せる試みであろう。だが皮肉にも我々観光客は、この「作品」を「風景」としてより上手く撮影しようと腐心し、フレーミングの試行を繰り返す。私も苦労しました。こうして作者の意図からは遠く離れたところで賞美と感心が成される。

この後、「鮎川エリア」東部で登場する石川竜一《掘削》と対になる、非常に大きな作品だったと思う。写真家が写真を提示しない。額入りの「作品」を掲げない。地形に直接物理で干渉する。これは一体どういうことなのか。

 

 

 ( ´ - ` ) 面白くなってきました。いい時代になりました。

 

「フェルメント」付近の謎オブジェ。学生のワークショップか何か書いてあった。土地が広いので何でも出来るなあ。 

  

もっとだらだらしていたいけど、終了の17時が近いので引き揚げ。秋が迫っていました。

 

本日の仕事?が終わったので、女川町野々浜大道の「ホテルサンライズ」を目指します。

 

( ´ - ` ) まさかこれ?

 

ホテルですか??? 

あ???

 

道路と海と造成地しかない土地の小高い丘に、やばい研修施設みたいな建物が立っている。どう見ても研修。お疲れさまでした。地元に本社とか工場のあるそこそこ大きい企業の。いかん、過去の研修の記憶が・・・ 

しかし本当に、比喩でも誇張でもなく、何もない。土木作業員が黙々と、果てしない整備作業を続けている。誰のために整備しているのだろうか。分からない。ただただ国土を整備している。そんな作業員のための宿り木。このホテルはそういう役割を果たしてきたのだろう。

 

つづく。