【写真/トークショー】H30.11/23(金) 津田直_写真集「エリナスの森」@ViVO,VA(神戸元町)
リトアニアでの滞在を通じて、作家が気付き、見つけてきた、住民たちのさりげない会話、伝えられてきた伝承、祭、時には秘められてきた事柄、忘れさられゆく物事の数々を、伝説の神獣エリナスの住まう森に託して伝える写真集である。
トークショーは作家本人による、写真集のテキスト=詩の朗読から始まった。
実は私は、津田作品については写真集をさーっと見たことがある程度で、その読解をしたことはなく、今回が事実上初めて津田作品と向き合うこととなった。以下は、津田氏によって語られた内容を元にしつつ、写真集に触れて感じたことなども加えて書いている。
写真集のタイトルにある「エリナス」とは伝説上の獣のことで、左右に9本ずつ枝別れした角を持つ鹿だという。(北米のエルクに近い姿?)
しかし文献などに明記されているわけではなく、公式な記録として存在はしない。だが、人々のおぼろげな伝承、古い歌の中にその語の響きが、忘れ去られつつも残っていた。津田氏はその「エリナス」という語の響きがどうしても気にかかり、日本に帰国してからも半年間ほど引きずった結果、改めて本格的に取り組むこととし、再びリトアニアへと向かった。そして最終的には本作のタイトルにも採用された。エリナスの伝説を育み、隠し、伝えてきた現地の森を、さまようように歩き回る感じをイメージして、本作は編集されている。本書が9章から構成されているのは、エリナスの角の数を意味している。偶然の出来事が次第に連鎖して、道となってゆく有り様は、現地の伝承の伝わりかたでもあるし、作家自身が経てきたリトアニアとの不思議な関係そのものでもある。当初は予期していなかったことが繋がり合ってどんどん大きな流れを呼び込んでいき、それは今も続いていて、現在は大使館を巻き込んでの企画が更に進んでいることが語られた。
偶然の繋がり。
リトアニアを舞台としたのも偶然に通りがかって、気になったからである。本来の目的地であるラトビアへと向かう道中、リトアニアに立ち寄った際、田舎道で目にしたイメージが作家の心をなぜか捉えた。坂道を老婆が登ってゆき、墓地にたどり着く。それぞれの墓は小さな丸い丘のように地面が盛り上げられ、花が咲いている。その前には椅子が置かれていて、老婆は独りで墳墓に向かって話し始める。
その時、老婆の前には誰かがいることを作家は知った。こちら側の目には見えない誰かがそこにいる、こちら側だけではない世界との繋がりがこの地にはある。そうした世界観が現地の住人らに今も息づいていることを津田氏は発見した。彼らは現代の世界を生き、キリスト教の信仰がベースにあるが、それ以前の信仰の世界、古代から続く世界をも継承して暮らしているらしい。
彼らにとって、神は身近な存在である。古来から受け継がれてきた神と関係を結び、継続している。写真集の序盤で語られる雪解け、春の訪れと「ペルクーナス」という雷神の存在が、まさにそれだ。4~5月頃にやってくる稲妻が大地に力を与え、いっせいに葉がつき、春が訪れる。それを人々は神の行いだと考えている。かまどで火を起こし、陶器を焼くことも同様に、火の神がその仕事を行う。だから陶芸作家は自分のことを作家とは呼ばない。その作業は人間の目には触れないところで、神が行うものとされる。作品を作ったのは自分ではない、神様だ、と。そうした人と自然、そして神との関係が、津田氏によって語られる。
初めに写真集を読んだときには、古代の伝承・神話を作家が学び、調査し、それらを作家の身体・カメラと風景を介して映像化されたものが、詩とともに時代を行きつ戻りつをしている、と個人的に解釈をした。しかしトークによって分かったことは、そうした作業工程もさることながら、実は基本的には地元住民との共同作業、プロジェクトであり、今を生きる住人らが今まさに有している生活上の価値観、意識、言葉から、伝えられ、秘められ、あるいは忘れられつつある古代の世界を可視化した作品だったのだ。点として存在していた人々の言葉、記憶、手作りの品、地形、いわれ、祭、神々が、少しずつ線へと織り上げられてゆく。
興味を引いたのは、「植物に長けた人」「薬草使い」―いわゆる「魔女」と呼ばれる職能者だ。ごく普通の住人の一人に見えるが、代々受け継がれてきた豊富な植物の知識を持ち、その眼を以てすると、身近な名もなき草木の一本一本には名前があり、それぞれが特徴、効能を有していて、魔女はそれを暮らしに役立てる。
リトアニアには魔女になりきる儀式、魔女の伝説に由来する丘などの景勝地があり、観光サイトでもしばしば紹介されている。歴史的にも身近な存在なのであろう。魔女には、常人には見えないかけらや道が見えている。世界の枠組みを構成する要素を、我々常人とは少し違う観点から拾い上げ、その声を聴くことができるらしい。だから、本質的には自然の薬剤師のような存在なのだが、常人から見ると反常識の力、科学の外側の理を用いる存在なので、魔女という異名が廃れないのだろう。
その知恵の片鱗は、ある種の植物を薬として用いたり、占いという形で披露される。夏至を祝う祭では、女性たちは好きな草花を摘んで冠を編んで頭に載せ、太陽の子となる。そして思い思いの草花や実を9つ手にして、列を成し、魔女に占ってもらう。魔女は、選ばれた物を見て、各人の心理状態を把握し、助言を行う。この世界の構成要素の在り処を、何気ない自然のそのものの側に置き、その声を聴いているのだ。
魔女―薬草使いは、津田氏のプロジェクトにも関わっており、森にまつわる草花の名や特徴、その他森に関する様々なことを教え、名実ともに「森」のガイドとなっている。
我々が想像し期待する「森」(癒される場所、トレッキングの対象、安全な場所)と、作品の舞台となったリトアニアの森はだいぶ異なるかもしれない。本来の「森」は豊かな自然の源泉であるが、それゆえに謎に満ち、人智を超え、時には人を飲み込み、獣が徘徊し、危険ですらある。
「森」に出入りし、そのポテンシャルを活かして共存するには、その言語の専門家が不可欠だ。森はリトアニアの人々の伝承、神話を秘めて守り、現在まで育んできた。政情の不安定な時代には、住人たちの命を匿う場所となった。不明瞭な山道は不馴れな者を迷わす。そして状況が収まってきた時には、人々はまた森から村へと出てくる。このような緊急時には、魔女たちがガイドとなり、森での生存方法を人々に伝えてきたのではないだろうか。地元民でしか分からない小路、水源、深く暗い木々の連なり、様々な効能を持つ薬草が彼らを守ってきた。そうした、自然とともにある暮らし、自然のエネルギーの循環を象徴する神々、それら自然側と人々との仲介者となる魔女。こうした営みを津田氏は現地の土地と、現地の人々との関わりの中で見出だし、今ここに伝えている。更には、日本における古来の信仰とも似ていることを指摘していた。
小さな物語を、出来るだけ小さな言葉で語ること。
秘められた言葉を、秘めたまま語ること。
これは離れ業である。言葉は分かりやすさへと傾く。声は大きさへと偏る。民は理解の手早さ、のどごし、快感を求める。すなわち消費という態度がすぐに引き起こされる。「森」がいかに深くとも、その森の豊かさと脅威を知らない私たちは、ともすれば言葉の力で一気に食いつくし、花や土、水が湛えていた輝きや声は絶えてしまうかもしれない。だが、現地人すらも忘れつつある多くの小さな物語のことを伝えるためには、どうしても語らねばならない。最小限の言葉で、注意深く、敬意を払いながら、この写真集は編まれたのだと思う。神獣エリナスの気配を今も湛える森のことを伝えるために、言葉は言葉というより、詩のようなものとしてあらねばならなかった。写真は森や祈りのようなものでなければならなかった。そのようにして、この写真集は世に送り出されている。
「少しでもリトアニアの、現地のものに触れてほしかったので」と、チョコレートとハーブティーが振る舞われた。チョコが美味しかった。
<★Link> トークで紹介のあった、リトアニア専門店、雑貨などを扱うお店「LTshop」。
リトアニアの位置関係、歴史がまだ浅く建国(独立)から30年にも満たないことの話。そして写真集のテキスト:詩篇を編むに当たっては強制合宿で自分を追い込みつつ、膨大なテキストを書き連ねてそこから言葉の拾い上げを行ったとのエピソードを開陳。
語りを聴いていて、五十嵐大介『魔女』『リトル・フォレスト』の眼差しにも近い世界観だと感じた。短編集『魔女』では、魔女という存在が、本当に重要なことは「男たち」に気付かれないよう模様の中に織り込んで隠すということや、秩序ある社会・宗教が外側・穢れとして区別・管理する線に、魔女は囚われないことが描かれていた。自然の声に耳を傾けるため、権威や権力を踏み越え、独自の理と判断で生きている。それゆえに社会から忌避される。しかし科学の通用しない危機状況では、その心身を以て事態の収拾に当たることが可能かもしれない、と。漫画だけに展開はハードでSF、エンタメが効いているが、その根底の視座は津田作品と共通している。
面白かった。
( ´ - ` ) 完