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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+SELECT 2020】元・淳風小学校1F(黄郁修、中川剛志、MOTOKI、高橋健太郎)

京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下「KG」)・サテライトイベント「KG+」の中でも別枠、審査制となっているのが「KG+SELECT」だ。この中で更に選考があり、グランプリ受賞者は翌年の「KG」本体のプログラムに出展できる。今年は10組の作家が選出されている。

 

会場は毎度おなじみ元・淳風小学校。インスタレーションの工夫をどの作家も凝らし、普通の写真展ではなくなっている。1F、2Fをそれぞれ見ていきましょう。

 

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【会期】2020.9/18(金)~10/18(日)

 

  

 

会場は元・小学校だが、特に改修もされておらず、各作家は1室ずつをあてがわれるが、本当に普通の教室や理科実験室、音楽室などである。一人で使うには相当広いので、床から宙からどう展示で埋めるのかが腕の見せ所だ。どの部屋も展示用途に作られていないので予想以上に主張が強い。繊細な作品だと学校・教室のフォームに押し切られてしまう。

今回の展示はどの作家もかなり見せ方がうまく、従来に見られた様々な課題を解決し、違和感なく展開していた。

 

また、ドキュメンタリー色、メッセージ性が強いことが、個人的に嬉しかった。どうしてもKG本体は「アートの催し」として、写真に詳しくない人でも「感じて楽しめる」空間インスタレーションの性格が強まっているため、「写真を見たい、味わいたい」と思う層にとっては物足りない。その不足栄養素を補うのが「KG+SELECT」になってきた感がある。

 

◆黄郁修(Huan Yu Hsiu)『Hoarders』(台湾)

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1部屋目の教室から、暗い。入ってすぐにお化け屋敷、夜逃げの現場のようだ。タイトルの「ホーダー」は「物を過剰に溜め込んだ部屋で暮らす人」を意味する。あまり聞きなれない語だが、わが国では「汚部屋」「ごみ屋敷」が当たるだろうか。

写真を見ていると、過剰収集ではあるが、TVで特集されるような汚部屋、ごみ屋敷などとは違って、十分に生活が成り立つ感じがある。足の踏み場があり、収集物の配置や整理が出来ているようだ。風呂場にシャンプーボトルがこれだけ大量にあっても、リビングに段ボールを積んでも、モノが液状化して床を浸していないところにまだ「整理」や「理性」を感じる。本物の「ごみ屋敷」は、天地・上下の概念がなく、モノの体積が固形を失い、空間とモノとが一体化する。

これはお国柄も影響するのだろうか、それとも、乱雑の中にも独特な美意識を有するホーダーに関心を持って特集しているからだろうか。

 

惜しかったのは、教室を汚部屋化するのに注力し過ぎていて、せいぜい六切りぐらいの写真はモノに埋もれ、その画面内をほとんど集中して鑑賞できなかったことだ。

冊子で見る写真作品は素晴らしい情報量と解像度があり、汚部屋の中にも、住人の繊細な「王国」を感じることができた。たとえ逆算でモノを過剰に置いても、本物の生来の性と生活習慣から来る「溜め込み」には到底及ばない。(この空間が実際に誰かの部屋を再現したもので、意図があったならそこは聞きたかった。)堂々と写真で勝負して良いだけのクオリティと力を持つ作品だったと思う。

 

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中川剛志『Graveyard of Lights』(光の墓)

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こちらの部屋も暗い。靴を脱いで上がると、前方の大きなスクリーンにモノクロのオーロラが映し出され,周辺には灯篭流しのように光が灯っている。それぞれに写真が立てられていて、故人の顔かと思いきや、それらはオーロラの表情なのだった。

 

「喪」の時間が漂っている。

解説によれば、アイスランドでは「オーロラはあの世とこの世を繋ぐ光だと言い伝えられている」という。作者は家族を亡くしたことを契機として、オーロラの撮影を通じて生死を考察するようになったとのことだ。

 

私はオーロラには前向きな意味合い、自然の雄大さや軽いスピリチュアルさ、極寒の下での野外活動の厳しさ、享楽的な観光の側面などしか見ていなかったので、その光が「あの世」との接点になるという観点は、新たな発見だった。本物のオーロラを体験すれば少しはその気になるだろうか。

解説文で「火山噴火や暴風雪などによる自然災害や独自の島国文化といった、日本との共通点が多い北極圏の国アイスランドに興味を持った。」とあるように、会場での見せ方以上に、オーロラや現地の信仰に関する作者の見地は深いように思う。津田直がリトアニアなど北欧を旅し、土地そのものや歴史、信仰を掘り下げていったように、深い関わり方をしているのかもしれない。そういう視点も見てみたいと思う。

  

 

◆MOTOKI『勇魚』(Isana) (日本)

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勇魚(いさな)取り、捕鯨文化について語る作品で、房総半島が舞台となっている。鯨や海をダイナミックに美しく撮るネイチャーフォトではなく、鯨とともに生きてきたその土地の歴史の積み重ねが息づいていることを表している。地元の資料館を思わせるインスタレーションだが、血で赤く染まった波打ち際のカットは、まさに写真家の眼差しを感じさせる。

写真それぞれにキャプションが付いているので、理解が促されて有難い。「鯨鯢過去帖」では享保から天保まで120年間に捕獲された鯨の記録が記されており、人間と同様に戒名が与えられていたという。人々は「鯨見台」に上がっては、鯨を見つけると狼煙を焚いた。人々の営みは土地、歴史の両面でしっかりと鯨に結びついている。

 

また、教室の片隅の窪みには、現地で鯨の頭蓋骨を祀った「大杉神社」が再現されており、写真によってバーチャルで奥行きのある祠が浮き上がっていた。この工夫がとても心に響いた。ややおぼろげな骨やお供え物のイメージの感触が、手では触れられないもの=神聖さを感じさせた。

 

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高橋健太郎『A Red Hat』(赤い帽子) 

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入口すぐに置かれたカットが全てを物語る。同名の写真集の最初のカットにもなっている。

 

陽に照らされ、光り輝く横断歩道を、赤い服を着た少女が跳ねるように渡っている。その側面から回り込もうとしている北海道警のパトカー。その光景はガラス越しに、手前で頬杖を付く男性の反射像に重なる。かれの過去の想起か、今の偶然の光景か。写真の左端はフィルムの巻き上げ時の感光か、写真のフレームが光でギザギザに食われ、追憶のワンシーンに見える。美しい追憶ではない。警察権力の、いつでもどこにでも、見えない蛇のように忍び寄る姿が滲み出たカットだ。それは獲物を探知し、じっと見ていて、的確にやってくる。

 

遠い昔・戦前の1941年、旭川師範学校美術部の学生だった菱谷良一と松本五郎は、寮で寝ていたところを治安維持法により特高警察に捕まり、刑務所に入れられ執行猶予付きの有罪判決を受けた。美術部で学び、描いた「生活図画」がプロレタリア絵画の教育への適用、国家批判や革命の企図に当たるとされた。

その過去が、個人の記憶であることを逃れ出て、「今」の社会の光景に覆い被さる。

 

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本展示は2019年10月中旬に大阪ニコンサロンでも催された。基本的な出展作品、テーマ、メッセージは変わっていない。会場の性質が大きく変わった分、それに合わせた展開となり、二人のアトリエのような構成となっている。

 

その膨大な写真と、歴史背景、登場人物:菱谷良一、松本五郎の二人が、人生で負ったものの大きさに圧倒された。同時に、「令和」を迎え、いよいよ終わったこととして片づけていた「戦前」「戦中」(何なら「戦後」も含めて)というものについて、国家における内なる一貫性は何も変わっていないのではと、改めて意識させられるようになった。

 

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当時のことは二重の意味で終わっていない。

一つは、存命中の2人の中では、絵を描いたら突然逮捕・収監された、その弾圧の恐怖や絶望は何も消えていないことだ。菱谷氏は当時19歳、現在99歳。松本氏は当時20歳、現在100歳。たとえ言葉で語らずとも、当時受けた精神的なダメージは、例えば自宅のガラス窓が割られて放置されれば、自力では何年かかっても再生しないように、その後の長い人生でもずっと、塞がらないままだったのではないだろうか。実際、当人らの心境、負った傷については、写真集の巻末に作者がしっかりと書き記している。

 

もう一つは言うまでもなく権力、国家の本質である。作者は「共謀罪」(通称「テロ等準備罪」、2017年6月15日、第193回通常国会で成立、翌7月11日施行)の法案成立をきっかけとして、菱谷氏・松本氏に出会い、本作の制作に結び付いていったという。

共謀罪の最大の特徴は、実際に犯行に及ばなくても「準備」「計画」を行った時点での逮捕が可能となることで、まさに「治安維持法」に似た性質を持つ。共謀罪の成立には、東京2020オリンピックに向けてのテロ対策が理由とされた。確かに、世界各国で相次ぐ都心部でのテロを考えると、実務上の必要性は大いにあるのだろう。だが警察組織は人間の集まりであり、判断は人間が下す。職人的な知見や勘だけでなく、政治、心証、思想は大いに影響する。

「この者は当局に反抗的だ」「世間に知らしめるために実例を作る必要がある」という理由で、法や公務員、警備の権力は動くことができる。

 

本作はあくまで、現在を生きる菱川氏・松本氏の日常の暮らしを、付かず離れずの距離から静かに見つめるもので、国家や法に対して強い異議申し立てを行うものではない。だが写真には、二人のアトリエ、部屋に掲げられた絵、祝祭日に掲げられる日の丸国旗などが繰り返し登場する。

彼らは絵を描いたら警察に踏み込まれ、檻に入れられ、有罪。その時押収された絵も返ってこなかった。

それが形を変えて、現代、また起こりうるかと思うと、どう抗えばよいのか、全く具体的な対応策は思い浮かばない。Twitterに訴えてバズれば良いのだろうか? 思えば伊藤詩織氏も、ろくでなし子氏も、凄かった。菱川氏や松本氏らと話は違うが、個人で戦ったのだ。

 

時折、二人の横顔や背に射す、大きくて深い影が、とても悲しい。

 

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私事としても、都市空間の運用、街の「治安」の在り方が、この新型コロナ禍、東京五輪、そして大阪万博によって、根本的に変質すると感じている。警備が格上げされ、監視・排除される層が徐々に拡張されていくことの現実的な懸念である。

 

歴史には注視すべきことが多い。写真にはできることがまだ多くある。そんなことを思った。

 

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⇒元・淳風小学校 2Fへ続く

 

 

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