写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】今村遼佑「そこで、そこでない場所を」@eN arts(京都・八坂神社北側)

【ART】今村遼佑「そこで、そこでない場所を」@eN arts(京都・八坂神社北側)

 光と霧によって、「今」「ここ」が、作者の記憶、異なる国へと接続される。

 

 

 

会場には光が漂っていた。外から射し込む太陽の光が、うっすらと立ち込めた白い煙に反射して、普段よりもはっきりとその存在を見せた。光は、普段は景色の背後に隠れている、あるいは景色の表面として貼りついているが、そこに実在するものだとはっきりと分かった。光には表情があった。

光が時間の移り変わりとともに異なる表情を見せ、また一定周期で煙が放出されると、ギャラリーの白い壁面の空間は、それそのものが別の場へと移り変わりゆく。その中では唯一なるべき「今」「ここ」が固定されなくなり、いずれの瞬間もが「今」「ここ」となる。ギャラリーは外界の太陽の光を導いて受け容れる設計となっており、秒単位で空間は揺らいでいる。煙が薄れてゆくと、また固定された現在へと場が戻ってくる。

 

光と霧による現在性の揺らぎは、時に過去、記憶との照応をも招き入れる。煙は、配管を伝って噴出されたその時は、固形に近い「かたち」を持った煙として現れるが、噴出された後、部屋の中に拡散してゆくと、形のない、景色に近い「霧」と化す。 作者は壁面にドローイングを掲げ、フロアに衣装ケースや街灯、コップなどを配置し、モニターで映像作品を流している。それらは地下階の小部屋から立ち上ってくる煙によって繋がり、総合的に「作品」として稼働する。それは、作者の体験した土地の記憶のビジョンを基に、指示対象のない場所を示すように働く。

シューッという音と、白く立ち込める霧には、条件反射で横浜トリエンナーレ2008で体感した中谷扶美子の霧の作品の感激を思い出す。が、あくまで固形物としてはっきりと陰影を持って現れる白い煙の姿、それが霧消して場を覆う薄いフィルターとなって漂い、場の現在性を揺るがす有り様の前には、別の世界が見える。

もの・形としての「煙」から、景色としての「霧」への移行。作者は2016年よりポーランドワルシャワに1年間滞在しており、その時の暮らしの記憶や体験が、会場に散りばめられている。私はプラハに数日滞在したことがあるが、確かに街全体が霧っぽかった記憶がある。日本では霧は幻想的な光景、非日常として扱われるが、ワルシャワでは、景色を包む濃い霧は日常のものだろう。

霧は「今」「ここ」を奪い、どこにも紐づかない場所へと人を導く。会場の液晶ディスプレイでは現地で撮られたらしき車窓からの映像が流れ、地下階の閉ざされた一室では、街と思しき光景の映像が流されている。それらは場所を特定できない。ギャラリー内の空間は、作家個人の体験を辿るものというものではなく、体験の物語を介しながらも匿名性の高い時間へと移行している。

 

作品は明確な答えや主張をしない。あくまでさりげなさによって語る。さりげない音や光、物語に、五感を傾ける機会を持つこと。特に311の震災以降を暮らしてゆく上では、それは必要な態度となってきた気がする。一度、暮らしを引きはがされるような体験をした後には、私たちの暮らしが何から出来ているのか、何で満ちているのか、誰から提供された物だったのかを感じ取り、認識することが、欠かせないように思う。

 

( ´ - ` ) 完。