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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】ゼイリブ @第七藝術劇場

【映画】ゼイリブ @第七藝術劇場

本作が世に出たのは1988年。レーガン政権下の米国において金と権力に心を売り渡したエグゼクティブな「ヤッピー」を、「ヒッピー」世代の監督が皮肉、批判する視点で作られた。 

本作のタイトルは作中に登場する警句『THEY LIVE. WE SLEEP』に由来する。「THEY」、彼らとは社会の支配者であるエイリアンを指し、「我々」とは主人公ら労働者に代表される、支配下に置かれた地球人だ。支配層が生き、地球人らは支配・洗脳され、眠ったように思考停止しているという事態を表わしている。 

 

ストーリーはとてもシンプル。

その日暮らしをしている主人公の眼前で、労働者らの宿泊場と教会は突然、武装警官隊に襲撃される。教会が秘匿していた特殊なサングラスをかけた主人公は、社会の姿が一変して見え、それまで度々流されていたTVの電波ジャック放送が伝えていた「真実」を理解する。地球はエイリアンに支配されている、社会は彼らに牛耳られており、我々は眠ったままにされていて、地球人は彼らのために下働きをしている、その事実は隠蔽されていて普通には気付かない。その現実に気付いた主人公はエイリアンを銃撃し、警官隊から逃げ回る。労働者仲間フランクと壮絶な格闘のすえ、いつしか同士が集まり、レジスタンスを結成するが、それも武装警官隊によって一網打尽にされる。エイリアンの腕時計のワープ機能で逃げ出した二人は、エイリアン側へ服従を誓った元・労働者仲間に出会い、彼らの秘密を見せてくれる。地下要塞、セレブの会合、空間転送システム。社会は超絶な科学力で完全に支配されていたのだった。発起し、催眠電波を放っているテレビ局に乗り込み、銃撃されながらも屋上の電波発信器を破壊。すると地球人に化けて至るところに潜在していたエイリアンの姿が露わになり、皆が気づき、パニックになる。END。

 

分かりやすくテンポのよい映画だ。社会諷刺色の強いSFで、エンターテイメントとして”立って”いる。エイリアンもあからさまに人間社会にとって敵だと分かるビジュアルだし、警官は迷いもなく権力の味方しかしないし、寓話のように分かりやすい。だから、割り切って楽しめる作品のはずなのだが、割り切れない思いにさせられた。
主人公がサングラスを入手して、エイリアンの通報を受けて警官が出動し、街中で発砲し、追い込まれてゆくあたりから、かなり割り切れないものが生じてくる。作中の不気味な支配の状況が、現代社会の様々な様相へ対応しており、鑑賞者は個々の生きづらさや不信感を投影しながら見ることになるだろう。

 

何でも、皆と足並みを揃えて社会の要請に「従って」生きているうちは楽で良い。ひとたびその無言の要請が織り込まれていること、それが権力的な声であり、自分の意志を左右し従わせようとしていることに気付いてしまうと、日常の風景は一変するだろう。作中ではレジスタンスのサングラスがその意識変革のアイテムとして登場する。これをかけるとカモフラージュ電波の干渉を遮り、真の社会の姿が見えるのだ。地球人に擬態したエイリアンは、宇宙のゾンビのようなメタリックな骨とぎょろぎょろした眼、紫や青の体色をしている。街の至るところにはバーバラ・クルーガーばりにシンプルで強烈なフレーズ;「OBEY」(従え)、「CONSUME」(消費せよ)、「WATCH TV」(テレビを見ろ)などの文字がサブリミナル効果のように、無数に忍ばされている。

 

エイリアン達を脅威たらしめ、そして現実とリンクした無気味な存在に仕立てているのが、このメディア支配の力、メディアそのものの権能である。彼ら自体に特殊な能力、武器は無いらしく、直接に格闘や攻撃は挑んでこない。しかし、辿り着いた星を植民支配し、先住民を家畜として使役するという彼らの真骨頂は、巧みに社会を操作する力にある。ここに、彼らの科学力や知能の高さのみならず、本作を名作たらしめている重要な指摘がある。我々地球人の弱さについての描写である。

まず一点目は、我々現代人がどれほど「情報」に弱いか、特に視覚情報――「メディア」に生理的に弱いかということだ。

主人公は特殊なサングラスをかけることで社会の「真実」に気付くが、そこに映し出された無気味なゾンビや巨大なメッセージが本当の「真実」かどうかは、実は検証のしようがないはずだ。しかし主人公は、そこに写し出された「真の」社会に狼狽し、ショックを受けた後、反動的に、化け物を排除しなければという気概を取り戻し、警官から奪った銃をためらいなく発砲する。この変わり身の早さは逆に、我々の認識、心理の脆さを鮮やかに描いている。

民は映像に弱い――事の真偽を問う間もなく、視覚情報に勝る「真実」はない。サングラスや、その次世代として開発されたコンタクトレンズ様の液体は、エイリアン達が見せるTVや広告といった「マス」のメディア、情報操作の網を突き破るための、「私」の視座を与える。しかしそれら自体が見せる世界が、何の立場に基づくメディアであるのかは、ここでは一切問われていない。自分にとっての敵か味方かを判断するのに当たって、グレーゾーンが描かれていないことのシンプルさ、迷いの無さは、あたかもエイリアンの支配状況と双璧を成す強度での「逆支配」ぶりを示しており、かえって現代的な怖さを感じるのである。

そしてもう一点は、我々は現状・日常の満足、平穏を維持することを願うという、社会的・経済的な弱さである。主人公の労働者仲間であるフランクは、差し出されたサングラスをかけることを徹底的に拒む。家族がいるので厄介事には関わりたくない、厄介事はごめんだと言い続け、まるでサングラスを透して社会を見た時に、どのような変調を来すのかを知っているかのように、強く拒否する。
この際に二人は激しく格闘し、なんと7分間近くも路上で殴り合いを繰り広げる。その心理は怒りや憎しみではなく、身の置き場のなさの切り立ったところで、どうにも立ち行かないことの反動から殴り合っているように見える。受け入れ難い社会の在り様を知ってしまったものの、受け入れきれずに街をさまよう者と、格差の理不尽さは身に染みているがその実体のことは一切考えたくもない者との、悲しいやりとりである。

しかし面白いのが、フランクの変わり身の見事さである。観客が心配になるぐらいの殴打の応酬を繰り広げてまで、サングラスによる「真実への覚醒」を拒絶していたフランクが、それをかけた瞬間に見えた「真の」社会に対して、あまりにピュアな驚きの反応を示し、瞬時に180度真逆の立場(=俺たちは奴らに牛耳られている! 戦わなければ!)に、完全に転じてしまうことだ。このスイッチは主人公のそれよりも極端に速く、より一層、我々の信念や真実というものが危ういかを語っている。

視覚はシンプルに「真実」となり、我々の善悪を左右する。無論、ジョン・カーペンターが描きたかったのはそのことではなく、あくまで経済やメディアを支配する側と、それに追随して利益を得ようとする者、それらの言うことを聞く警察など治安のシステム、そしてそれらの圧政の下で生きていかざるを得ない民のことだと思う。しかし今日的な解釈では、どうしても「真実」の揺らぎと、マス・メディアとパーソナル、コミュニティにおけるメディアとの分断、すなわち「真実」の分断について考えを促されてしまうものである。

 

ちなみに、人間側の重要なアイテムは上記のとおりサングラスであるが、エイリアン達の重要なアイテムが、腕時計である。これはエイリアン同士の連絡ツールとなっているが、どちらかというと一斉通報システムの役割が強く、不審者(自分達の存在に勘づいた地球人)を発見すると即・場所と特徴を伝えて警官隊を呼ぶために用いられている。第二の機能は瞬間移動で、発動すると自身を都市の何処かに張り巡らされた秘密の地下都市へと転送させる。

いずれも、地球人らを一方的に監視し、自分たちに不利な存在(=意思を持った個人)は通報して下請け(=警察)に処理させ、自身は安全圏へ退避して不可視の存在になるという、まるで現代都市の監視システムそのものを体現している。作中でエイリアンらが、青いドクロのような顔で口元に腕時計を当てるとき、それは通報のサインである。何とも嫌なシーンだ。都市の通報、監視の現状をそのまま演技で描き起こしたかのように無気味な光景だ。自らは姿を晒さず、個人としての正体を見せず、こちらが一方的に「危険な個人」として身元を割られ、抑止の対象をされることの、今日的な理不尽さよ。

 

本当に、何とも割り切ることのできない、何とも嫌な連想の多い、優れたSF映画であった。 

( ´ - ` ) 完。