赤い目をした青い巨人が、我々と同じ姿形の小人族を支配し、飼育している。全てのものが奇異な、惑星イガムでのシュールな物語。覚めない悪夢のようなビジュアルにクラクラする。
弱者を飼育・駆除する異文化の描写から、物語は弱者による革命の話へと発展する。
◆上品な切り絵アニメ、不快にならない
フランスのSF小説を元に作られた1973年の映画で、製作はフランスとチェコスロバキアの合作である。日本には1985年に紹介され、当時の宮崎駿監督も衝撃を受けたという。切り絵を動かして録られたアニメーションは、グロテスクさを孕みつつも上品で、動くSF絵本といった趣があった。
独特な、不気味とも可愛いとも言い難い、微グロテスクなこの絵を受け容れられるかどうかが、まず観るか観ないかの分かれ道だと思う。どこか残酷さを孕んだ質感、人間を突き放したような描画だが、予想通り、人間(小人族)が虫けらのように扱われ、ホラーっぽさもある。期待を裏切らない、人間が人間でないことのホラー。
実は私は食わず嫌いをして観るつもりはなかったのだが、どうやら歴史上重要なアニメのようだし、見逃すと次の機会が遠そうだったので駆け込んだ。とりあえず「宮崎駿が唸った」と書いてあれば観に行く基準にはなるよね。
しかし、描画も動きも丁寧で、生理的に刺激する歪さはなかった。テリー・ギリアムの切り絵アニメーションを想起しつつも、それよりもずっと受け入れやすかった。残酷かつショッキングな場面や、性的なものを直接的に描くことを避けていたためかもしれないし、描写が実は丁寧で上品であることも作用している気がする。
◆物語:3部構成
例によってあらすじや日本での受容については他サイトでよくまとまっているので、以下ご覧ください。
話の流れは大きく3つの段階に分けられる。
①序盤:
支配者である巨人・ドラーグ族によって支配され、ペット扱いされている小人・オム族との関係が主なテーマ。母親をなぶり殺されオム族のペットとなった赤ん坊「テール」と、飼い主の「ティバ」との関係(かなり一方的だが)だ。ここではドラーグ族の圧倒的に進んだ文明、不思議アイテムとその象徴たる学習装置、そして日々の日課である「瞑想」(かなり不気味かつ謎)が重点的に描かれる。
自動学習装置は物語のキーアイテムだ。ださいネックレスと孫悟空の輪っかを合わせたような装具で、スイッチを入れると電波を受信し、範囲内の人物の脳裏に直接、映像とナレーションが流れ、直接的に知識として得られるようになる。
ここではオム族=「テール」はいちペットとして描かれるに留まる。
我ら地球人が感情移入できる唯一の対象がテールである。逆に言うと他の全てのヴィジュアルは奇特すぎて、普通の感覚では感情移入できない。ドラーグ族に至っては台詞はあるが、表情やリアクションでの感情表現がほぼない。瞑想したら黒目が飛ぶし、わりと怖い。その整った冷淡な面立ちは西欧人の知識階層を思わせる。
②中盤:
小人オム族らの社会とサバイバルに焦点が当てられる。
ティバの下から脱走したテールは、同じ小人のオム族らの集落に逃げ延びる。オム族の中にも2種類あって、ドラーグ族に飼われたこいとで知性の発達した者たちと、野蛮な原始状態の者たちの二層に分かれている。
テールが玩具・ペット状態からザ・主人公として立場転換するのがこのあたりからで、外部から知性を持ち込んだことでコミュニティに諍いをもたらすが、謎の決闘のすえ、居場所を手に入れ、ドラーグ族の自動学習装置の恩恵を皆にシェアする。この知的レベルの底上げの効果が現れるまでにはタイムラグがあり、途中でドラーグ族の襲撃を受けて、隠れ集落は無慈悲にジェノサイドされる。この殺戮が中盤のクライマックス。殺戮シーンはまさに害虫駆除というべき、かなりショッキングなシュールさに満ちている。破裂音と共に飛び散る爆竹拡散型バルサン?そして「猟犬」として使役される同じオム族・・・ 自動化された駆除は、第二次世界大戦の近代的虐殺を思わせる。
③終盤:
圧倒的劣勢から、オム族らの逆転。全ての謎が解け、ハッピーエンドへ。
大虐殺の中から命からがら逃げだしたオム族らは、ドラーグ族のロケットの墓場へと身を寄せ、隠れ住まう。そして15年の時が流れる(ドラーグ族にとっては3週間)。
この段階に来ると自動学習の積み重ね効果が猛威を振るい、オム族は文明化されていた。廃材を活かして高度な都市機構を形成し、更には脱出用ロケットの開発に着手していた。オム族を指導するのは青年となったテール。
再びドラーグ族による人間狩りの自動装置に襲撃されるが、ぎりぎりで完成したロケット2基に乗り込んだ者たちが、希望をつなぐ「野性の惑星」へと旅立つ。そこは巨大な、首から上のない男女の石像が立ち並ぶだけの、何もない星だった。
しかしここでドラーグ族「瞑想」の謎が解明される。
瞑想で飛んできたドラーグ族の精神球体と、異星人のそれとが石像の頭部にセットされると、像は男女一対となって踊り始める。この「生殖行為」によってドラーグ族は生命力を得ているらしい。瞑想は青少年・少女らの通過儀礼となっているが、初の瞑想体験あたりから飼い主のティバが昔ほどはテールを構わなくなるのも、子供でなくなったことによる変化なのだろう。
無防備な像はいとも簡単に破壊できるが、壊されるとドラーグ族は機能停止に陥る。精神球体が本体に戻れなくなるのか、本体が白目になって彷徨い、自動操縦の殺戮機器が動きを停止する。どうやら精神で遠隔操作していたらしい。そうして社会が壊滅状態に陥る。議会で揉めながらもついにオム族の知性の脅威を認め、和平・共存することを選び、小人・オム族はめでたく独立を果たす。
その星は主人公テールの名を冠して「La Terre」、地球と名付けられた。
結局あらすじを紹介してしまった。いつもこうだ。話は至ってシンプルで、圧倒的不条理から革命に至る物語だが、簡単ではない。映し出される事物のデザインがことごとく理解の外側にあるので、前後左右の見えない洞窟を歩くようなもので、次に何が起きるか・何が飛び出してくるかが予想できない。物語よりそっちの方が怖い。
◆世界観:植民地支配と、神なき文明
話の筋書きよりも、混沌とした、悪い夢のような世界の真っ只中に放り込まれることの方が重大だ。次に何が起きるのか・・・奇怪な動植物に食われて死ぬのか、オム族同士でいさかいが起きて殺し合ってしまうのか、変な装置が転がり込んできて何が起きるのだろうとか・・・予測がつかない。本作=惑星イガムの気持ちの悪さの正体として、文明はあるけれども根本的に無秩序な状態なのが非常に印象的だ。
本作の構造にあるのはまず植民地支配だ。言うまでもなく巨人・ドラーグ族の圧倒的な支配力、その態度と、背景にある文明は、19~20世紀に西欧人社会が世界に及ぼした覇権を思わせる。そこに「瞑想」という東洋思想を取り込んでいるのは、戦後の西欧文化人の趣を反映しているのだろうか。
小人・オム族が、西欧人に支配されることで知識を獲得しているのも象徴的だ。支配から逃れたオム族らが野蛮状態にあり、独自の信仰を作り上げているのは、まさに20世紀のアフリカ大陸などの縮図のように見える。
だがどこを見渡しても奇怪だ。高度な技術と文明が星に及んでいるはずが、星のあらゆるものが野放しの進化に身を委ねていて、カンブリア紀がずっと続いているような世界観である。意図の分からぬ挙動を繰り返す動植物、謎の器官・・・ドラーグ族由来のファッションセンスも、テールがプリマドンナと道化師を掛け合わせたような奇怪な衣装をしていて、趣味の悪い貴族のようだ。
本作が根深い不気味さに覆われているのは、ひとえに神がいないためではないだろうか。
文明化されたドラーグ族にせよ、半野生状態のオム族にせよ、自身の存在を懸けたり、信じる超存在を持たない。祈りや崇拝の場面や、信仰の装置、対象物がない。瞑想はドラーグ族の個々の生態に近いもので、信仰のためではない。高度に自動化された装置はあれど、それらの営みと文明を統御する存在がいない。自然界の側も同様だ。デザインや動きは、何らかの法則に則っているようには見えない。
もちろんこのリアル側の現世に神がいるかは別の話として、このリアル世界、特に西欧世界には相当に強い秩序が効いている(見慣れているだけかもしれないが)。その構造の一つに信仰の体系、神や仏の存在と歴史は密接にあるだろう。本作に登場する惑星イガムのシュールな世界観には、それらが徹底的に不在である。
示唆的なのが「野性の惑星」だ。高度を極め、植民地支配と機械的虐殺に長けた、神なき文明の住人が、被支配者の野性とブリコラージュ的知性によって反撃され、絶対優位の立場を失う(だが文明破壊されるのではなく、体制はそのままに和平で乗り切り、後に自動学習装置――自身らの知と歴史に内包する形で収める)・・・あれ? これもしかして、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』SF版でしたか???
( ´ - ` ) 完。