写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+SELECT】ガレット・ハンセン「HAIL」、藤倉翼「NEON-SIGN」、チカ&イチオ ウスイ「運命共同体」@元・淳風小学校

【写真展/KG+SELECT】ガレット・ハンセン「HAIL」、藤倉翼「NEONSIGN」、チカ&イチオ ウスイ「運命共同体」@元・淳風小学校

オブジェクトの誘惑。意味や文脈をはぎ取られたモノ、あるいはモノと化したヒト。それらはまた新たなイミを帯びてやってくる。

 

 

 

◆ガレット・ハンセン「HAIL」

不規則にねじれた形の物体が白く光り、漆黒の台紙に浮かび上がる。種子。岩石。動物の骨。霊的な赴きさえある。これらは発射された後の銃弾だ

 

アメリカで2018年に発生した学校での銃乱射事件は762回。その数だけ窓に貼られた黒い幕には星空のように穴が空けられている。そのうち死亡した生徒35名の命を表わすように、机上にはその数だけ銃弾の黒い作品が配置されている。

教壇側から見たときには、作品の裏側がずらりと並ぶが、台紙は黒いため、死者となったクラスの生徒全員を弔っているかのような光景が広がる。

 

現実の数値、データと作品の配置とが零度のリンクを張られて場が構成されており、写真というよりもコンセプト=銃社会への疑義そのものが展示されていると言って良いだろう。逆に言えば、弾丸の写真自体をどこまで見るか・見ることができるか、というと、一要素としてかなり後退している印象がある。実際に180㎝を超える私の体型で、腰を屈めながら机上のA4サイズほどの写真を覗き込みながら歩くのは辛かった。(手荷物も後ろの作品に当たりそうになり、怖くてあまり歩き回れなかった)

 

ベタかもしれないが、銃弾のプリントを大きく伸ばして主役にしてほしかった。生徒の命や死者の数を想起させる仕組みは逆に教室の構造や備品に託して後退させ、コンセプトと映像の力関係を転回させてもらえると、写真を見ることができて有難かっただろう。作者の言いたいことは明確なので、考えは十分に伝わるし、鑑賞者はより一層、自然の産物と見紛う弾丸の表情と、しかと対峙できるようになる。

 

私はこの弾丸の写真が、弾丸には全く見えなかった。とても歪で美しかったので、もっと見ていたかったのだ。

先進国が最も頼みにし、同時に私達を最も脅かしているものの顔を、穴が開くほどよく見ておきたい、そんな想いがまず、かき立てられる。奴らは何だったのか。いずれにせよ、鉛の弾それ自体は、罪のない存在である。そして発射後の銃弾は、もはや銃弾としての役割も価値も失い、オブジェと化す。

 

オブジェは時にコンセプトを超えたものを語る。誰も意図しないところから生まれた形は、銃というものがあたかも人類にとって「自然」の産物であったかのように、無言で語る。

 

 

  

◆藤倉翼「NEONSIGN

都市に光るネオンサインを収集し、独特の存在感を持ったオブジェとして提示する。

都市は撮り尽くされたとよく言われるが、まだまだテーマは眠っていると教えてくれる。作者が2008年から制作しているのがネオンサインだ。藤倉作品のユニークな点は、ネオンサインを都市の風景としてではなく、オブジェとして切り出し、立ち上がらせる手法にある。写真は背景を排して特製のパネルに取り付けられ、その内部の制御と照明装置によって作品はセカンド・ネオンと化し、複製された明かりを灯す。

クローン生物のような照明である。生体展示でもなく、資料でもなく、死んだ後の標本でもない。生体を模した複製のギミックにより、それが生きていた頃の姿や動きを再現される。しかし、立体物には律儀に木枠のフレームが施されている。つまりこれは照明器具の保存や複製ではなく、あくまで写真作品、飛び出す写真なのだ。

 

ネオンサインと彫刻と写真のキメラ。

作者のステートメントによれば、既にこれらのネオンサインは貴重なものになりつつあるらしい。LED社会へとインフラが交代してゆく中で、昭和から平成にかけての広告、都市の装飾といった文化論によって捉えられると面白いと思う。本作は領域を横断するフォーマットにより、写真か・彫刻か・メディアアートかという分類の議論に陥りやすいと思うが、それは展示方式の試行錯誤によって緩やかに横断出来そうな気がする。ネオンサイン自体が、手の込んだ作りのオブジェであり、企業の広報戦略であり、都市のインターフェースとなるメディアであり…と、様々な要素の交雑種であると捉えると、本作の姿はどこまでも可変しそうである。

 

 

 

◆チカ&イチオ ウスイ「運命共同体

女性が妻として「家に入る」ということを、マイホーム建設予定地の地面に身体・全身を埋め、意味を問い掛ける。

作者は夫婦である。夫がシャッターを切り、妻は身体を埋める。写真に切り取られた地面と体の一部はオブジェと化す。体をオブジェと化してシュールな絵作りを遊びたいのではない。あくまで土地と、女性の存在、関係性が議題である。すなわち婚姻制度とそれに伴う「所有」「居住」の制度や観念を、議論の対象へと引っ張り出すことが本作の目的である。

 

提議が成功したかどうかは分からない。私はシュールで面白いですね、と言ってしまった。画像合成の時代に、あえて全身を本当に埋めていることへの素朴な感嘆が生じた。そこから、どう全身を埋めたのかという手法自体が気になり、そして土中に生きた人間が埋まることに倒錯した魅力を感じ、絵の力に強く引っ張られた。男性・女性を問わず、誰かが地面に埋まっている様子というのは死を孕んだエロチックが否めない。

 

多くの人がそこで鑑賞を終えたのではないかと思った。それは不正解ではなく本作の文体からすれば正解である。一つには絵の力がシンプルに強いので、絵の指示する事態の表層にしか意識がフォーカスされないためだ。

もう一つは、我々が「妻と土地を所有すること=婚姻」という枠組みの中に居ることが当たり前になりすぎていて、そのような構図を想像出来ないからだ。魚は自分が水の中にいることを自覚していないように、この作品でオブジェと化した女性と土とが指し示すものが、我々の社会のシステムや感性であることを気付くことがなかなか出来ない。

 

演劇としてのポートレイトか、突き放された存在としてのオブジェか。この文体の構造が何らかの形でもう少し、主題へ観客を巻き込むようになったとき、俄然、多くの人の気付きを得られ、土のエロチックから数段上がったところで反応が生じるのではないだろうか。(それとも、世間における婚姻にまつわる議論や関心は、はこうした所有の前提を一旦「是」としていて、むしろその先にある実生活自体への批判と見直しを迫るものとなっているのだろうか。)

 

作者の仕掛けたオブジェの妙が、社会のどこを挑発するのかを見てみたい。 

 

( ˆᴗˆ )完。