写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+SELECT】藤元敬二「Forget-me-not」、堀井ヒロツグ「見えない川」@元・淳風小学校

【写真展/KG+SELECT】藤元敬二「Forget-me-not」、堀井ヒロツグ「見えない川」@元・淳風小学校

KG+セレクトにノミネートされた12組のアーティストについて出来る限りレポートしたい。今回は、得も言われぬ印象を残した2名の作家について。彼らが撮る男性は何か答えのないざわめきをもたらした。

 

 

◆藤元敬二「Forget-me-not」

会場を真っ二つに割り、廊下側には少年期から描き続けてきた自画像を、窓側には等身大・全裸のセルフポートレイトを貼り出す。教室に入った観客の目にはまず、まろやかな表情で立ち並ぶ男性のヌード姿が飛び込み、瞬時に主題を理解するだろう。

 

同性愛者である作者は幼い頃から自身の性のあり方を悩み続けてきた。自画像からはその煩悶、自分の姿を捉えようと孤立の中で模索している様子が伝わる。廊下側の壁には外見上の自分(幼少期の写真)と、内面から見た自分(自画像)とを交互に切り貼りし交錯させる。

 

藤元の文法は縦割りの分断だ。一般的な生き方は出来ない、皆と同じにはなれない、皆が期待するようにはなれない――その圧倒的距離を分断によって表す。

様々な悩みや諦念を、藤元は隠さない。過去から根底にあったものを現在に押し出す。展示会場、手作りの写真集、キービジュアルとなる巨大なポートレイト、いずれも中央で縦に割られている。

では作者は、二項対立を主張するのか、あるいは二項のどちらからも脱落、逃走した存在なのか。全くそうではない。断ち割られた二つの作者は、今この場を生きる作者自身の活動、存在感によって肯定され、繋がり合う。同性愛者であることを悩み彷徨うパーソナルな自分と、作家として同性愛をカミングアウトし公的な存在となった自分、その両者は、会場中央でドローイングの実演を行う「作者」の生身の「今」によって止揚され、同時平行でこの先も生きて行くことになる。

  

タイトルは「忘れな草」(私を忘れないで)の英訳だ。ナイロビに滞在していたとき、そこいら中に自生しているのを見て、その語感とともに印象に残ったという。

叫びを上げる、慟哭にも似た絵は、何かを悟ったように力を抜いて裸で立つ写真と対比され、作者がこれまで強いられてきた少数派というものの社会的試練の大きさを物語っていた。自分の存在そのものに罪悪感を覚えているかのように、逃げ場のない自画像である。

対して、手作りの写真集は海外での交遊の熱く濃い興奮が伝わってくる。自分の素性を明かし、同じ境遇の仲間と出会えたことの率直な喜びが色濃く息づいている。20代の藤元にとって、東アフリカでの滞在は自分探しの旅というより、自分許しの旅だ。それは着地点となり、本格的に写真作家となるための新たな出発点となったと感じる。

これらの苦悩と友愛、生活者としての藤元敬二が、会場の半分に託されている。そこには生活ゴミやキャリーケースが固め置かれていることもリアリティを強める。写真作品だけでも十分に語る力を持っていると思うが、涙を叩きつけるような魂が見られたのは、良かった。

 

私自身は、性的にも職業も国籍もその他ありとあらゆる属性がマジョリティであり、一見どこにも特殊性を見出すことのできない人間である。だから藤元敬二の抱えるものの深さや痛み、悦びを、本当の意味では理解することはできない。だが作者が悩み実践し続けてきたことの物量と熱量には、素通り出来ないものがあった。「多様性」と呼ばれる社会では、誰もが翻って何らかの点において少数派に転じることがしばしばあり、多数派に所属し続けることは原理上できないだろう。そこでは作者の格闘してきたことの成果が、きっと参考になると思っている。

 

  

 

◆堀井ヒロツグ「見えない川」

透明感に満たされた写真の連なり。その場の空気、見えない膜、見えないカーテンが揺れ動くように、音のない響きが連鎖してゆくような作品群だ。 

 

二人の男性が登場する。それぞれの生活のシーンを写し出してゆく。二人の間にある空気感は、親密で、何か水のようなものに満ちている。深く通じ合った恋人のようだと思われる。辿ってゆくと最後に、子連れのカットが1枚登場する。作家トークでは、交際していた男性二人を10年に亘って撮影してきたが、片割れが結局女性と結婚して子供をもうけたと語られていたように思う。しかし本展示のテキスト等では被写体の個人的な話は出てこない。

 

親密さと距離。生きている空間、それを満たす空気。作品の主眼は愛や自己を巡る物語というよりも、もっと根本的に、都市で生きるということ自体に向けられている。 

よく「世の中には、考える写真と、感じる写真の2つがある」と言われる。堀井作品は圧倒的に後者だ。考えても仕方がない。見て、眼で触れて、眼で浸ることだ。静かに見つめていると、良い光、良い潤いが伝わってくる。

 

だが作者はお洒落さのフィーリングで撮っているのではない。都市で暮らすことの意味について、自身そして周囲の人達が体験したこと、感じたことを問い、普遍的なメッセージを考え、選び抜いて、この水が溢れるような作品に辿り着いた。ステートメントでは、循環、流れという言葉を重要視していることが分かる。人々の営みが感情や観念の流れを生み出し、その流れの中に身体もあり、命の循環があるということだ。

 

命を表すことは至難だ。だが作家という人種の究極の目的と動機はそこにあるのだろう。

堀井作品には、かつて川内倫子が写真に宿した死生観、生の潤い、その朧げな美しさに通じるものがある。都市生活者の目線から、男性の作家が、川内とはまた別の形で体現していることに、時代の移り変わりを感じた。肌や髪や血管の感覚から表現を行うことは、男女を問わず可能であると言ってくれているようで、頼もしい。写真に性差のない時代が来たのかも知れない。

 

もしかするとそれは逆に、いよいよ男女関係なく、誰もが守られない社会の真っ只中に立たされていることを象徴しているのかも知れない。

従来の(今や伝説となりつつある)年功序列・終身雇用・年金生活を大前提とした社会では、学校や企業、官公庁といった多数派の組織・制度が全てであり、ニアイコール、人生であり価値体系であり、世界であった。その内にいる限り、内部の作法や空気に敏感であれば身は守られ、その外界に流れる水や大気とは無縁でいられた。

だが今では、村は透明化している。人々は村の掟は守らされつつ、村の中には居させてもらえないので、その身体は村の内外どちらにも曝されている。故に身体を細かくチューニングし、内外に対応しながら生きていくことを強いられる。 作者も、彼の身近な人達も、都市生活でサバイブを強いられてきたのだと察した。若さゆえのみずみずしい感性と見えるが、サバイブの結果として得た肌感覚なのではと思う。水や風をなぜ作者は感じ、なぜ表そうとしたのか。そのこと自体に関心が湧く。

 

ただ、会場ですぐにこうしたことを思ったわけではない。改めて書き起こしたときに浮かび上がってくる。初見では全く意味が分からず、二度目に時間をかけて見て回り、中に入っていくことで、水のような流れ、満たしているものを感じ始めた。

改めて、本作の秘めた、静かな声をしっかり増幅するシチュエーションで再開したいと思う。

 

 

 

( ´ - ` ) 完。