写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【KG+】「No-Stop Image」竹下想、楢崎ハル、松岡湧紀、室田光祐/「切妻屋根の痕跡のための類型学」三宅章介 @Lumen gallery (ルーメンギャラリー)

【KG+】「No-Stop Image」竹下想、楢崎ハル、松岡湧紀、室田光祐/「切妻屋根の痕跡のための類型学」三宅章介@Lumen gallery (ルーメンギャラリー)

会期は異なるが、Lumen galleryでのKG+、2つの世代の作家の展示である。90年代生まれのデジタルネイティブ世代は、Web世界と日常景を写真で連結する。50年代生まれのメディアアーティストは、印画紙と映像により写真と都市の折り重なる場を生み出した。

【会期】・「No-Stop Image」 2019.4/23~4/28
    ・「切妻屋根のための類型学」 2019.4/4~4/14

 

以下、二つの展示を順にレポートする。

1.「No-Stop Image」【会期】2019.4/23~4/28

◆「is this it」室田光祐

日常生活に欠かせないデバイスとなったPCやスマホなどの液晶画面が反復し、入れ子構造になっている。

画像編集の手法は不明だが、内側へ内側へと液晶面は続いていく。鏡の国のアリスを思わせるが、鏡の国はこちら側とは別の世界が広がっていたのに対し、液晶画面の奥には広がりはなく、ただただコピーが連続している。Web世界/日常にあるのはプログラム、OSにすぎないことの現れだろうか。あるいはこのコピーの列挙は、もはや写真によってではWebの「内側」を撮ることが不可能であるということだろうか。

 

イデアは面白いが、Webと密な日常景は入れ子構造しか本当にありえないのか。むしろデバイスの液晶面の向こうには、コミュニケーションツールという位置付けを超えて、完全にもう一つの対等な世間、公共の場が形成されている。その視座はいかにして「写真」化できるのか、写真を追い込むような更なる問い掛けが必要なのではないだろうか。

  

 

◆「無限スクロールの終わる夜に」竹下想

相撲の力士、就活のスーツ姿の学生、中国か北朝鮮の兵士を思わせる行列、それらが大量に分身している。オリジナルと分身の区別はもう付かない。

テキストによると、着想の元となっているのは液晶画面に対するスクロール動作らしい。画面を触る、動かすことで画像情報を選択する/流し飛ばす、その繰り返しの中に日々が閉じていることを指摘している。

 

だが作品だけを見ると、ステートメントに反して割と古典的というか、モダニズムなテーマに言及した作品に見えた。画一化され、個を失った集団をイワシの群れのように塊で捉えるとき、群れはアイコンと化し、色や共通の型が抽出される。ビジュアルの力は強く、面白かったが、ステートメントの主張とは結び付かなかった。

Web、SNS社会のデータ化された世界と、スクロール動作に終始している我々の挙動、身体性との関係を争点とするのなら、やはり身体への言及は必要になるだろう。むしろ作者の関心の根っこが、この社会が高度成長期の頃から変わっておらず、画一的なることを我々に要請し続けている点にあるのであれば、ストレートに言ってよいのではと思った。

 

 

◆「ひかりのまちへ」松岡湧紀

作品の掲げられた壁面に向かって手前には、ゲーム機のコントローラーがあり、鑑賞者はVR的なゲーム内で集合住宅の1室に立ち、室内をぐるぐると見回して、視覚的に散策することができる。壁面の最も大きな映像がそれだ。

壁面には他に額装された写真作品を掲げ、床にはモニタを置いて映像が流しっ放しにされている。これらの組み合わせにより、都市の景色においては画一的・平面的なパターンが優勢であることと、視座を回り込んでパターンの中に立ち入ることができ、その内部を立体視できるという主客転倒の可能性を示唆している。土砂や水辺の映像は、均質化されざる環境が建築物の合間に多く残されていることを現わす。

 

均質化、画一化といったことが本展示のグループで共有されている問題意識だと思うが、この作者の展示方式では、一見均質な世界が実は多層建てで、より複雑な構造が存在していることを示している。見る側―見られる側、景色―主観の磁場転換を同じ壁面でやっているのは面白い。「写真」の文体を突き崩す試み、ぜひ挑戦し続けてほしいと思う。

 

 

◆「X day」楢崎ハル

4名中、物質のオブジェを用いた唯一の作家。 床には本物の石が転がり、写真の被写体は石鹸のように白く、石膏像なのか、白い造形物を撮っている。

ステートメントによれば、神(万人に共通する絶対的な信仰や価値観か)が崩壊し、個人がそれぞれの「自分」を生きなくてはならなくなった現状を伝えようとしていると思われる。写真で表された、幻想的で汚れなき、白く清潔な世界は、信仰心が生きていたり、絶対的な価値観が共有されていた時の、文字通り幻想だろうか。あるいは逆にありえないがゆえに、皆が希求し思い描く理想の世界として掲げられているのか。

 

作者の言いたいことと作品が繋がらず、分からなかった。もっと「神」を具体的にしても良いと思った。神や価値観については存外、色々な立場やあり方がある。あまねく皆に共有されるべき神は死んだかも知れないが、その死語、現実問題としてどうなったかの争点は必要なのではないか。戦後日本史か、アイドルやゲームといったサブカルチャーか、新興宗教か、やりようは沢山ある。

 

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意欲的な試みが多く、従来の「写真」作品とは異なる見地からアプローチされていてたいへん良かったと思う。刺激された。

「写真」といえば、RAW現像の職人技、モデルや風景を美しく撮るための職人技、フィルム・レトロ機材の醸す風合い等が、SNSやインスタ界隈ではしきりに礼賛されてきた。が、それらはじきにAdobe社あたりがAIで解決するのではないかと個人的に思っている。

それよりも、急激な変容を進め続ける「写真」やこの「世界」そのものをどう考えるか、そのメタな発想自体が大切だと私は思っている。「テクノ画像」の現在形を、大いに試行錯誤してみせてほしい。 

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2.「切妻屋根の痕跡のための類型学」三宅章介

【会期】2019.4/4~4/14

( 写真撮影が可能かスタッフさんも分からなかったので、チラシのスキャンのみ掲載。)

 

先述のグループ展と対照的に、1950年生まれのメディアアーティストの個展である。暗い会場の壁4面に巨大な印画紙を貼り出し、プロジェクターで京都の家屋の映像を順次投影してゆく。

印画紙は当然、感光するが、定着処理は行われず、約10日間、光に晒され続ける。プロジェクターはそれぞれの壁を順番に照らし、なおかつ動画は3本あるため、一度、家屋の像を焼き込まれても、他の壁が照らされるうちに上からどんどん別の像や光が干渉してゆく。

 

ギャラリーは暗い箱、「写真」の内部と化す。暗がりの中で、ただ白く広がっているだけのように見える印画紙だが、よく見ると切妻屋根の像が残っている。それもまた長時間露光されるうちに消えるだろう。

 

切妻屋根の家屋の像が現れては消える、それは京都の街並みとリンクしている。

京都市は景観保全の取り組みとして、「建築物等のデザイン基準」を定めているが、これは該当する区画に建てる物件に対し、京町家などで用いられている切妻屋根のデザインとするよう求めるものだ。

また同時に、京都では所有者の代替わりなどによる開発で家屋がどんどん取り壊されている。すると旧来からある切妻屋根の物件が、手前の建物の消滅により、その姿を街の断面として露にする。

 

空間を使った平面表現。写真の原理を用いた空間表現。表現の形で立ち現れる都市空間。幾重にも交錯する思考と試行のレイヤーが面白い。会場では特に感じていなかったが、改めてこうして他の展示と比較しながら書き起こしてみると、ただならぬ作品だったように思う。

 

SNS等で愛される一般的な「写真」は、結局モダニズムの壁を乗り越えていない。その内で「美」の基準を再強化し続け、顧客、ファンを囲い込むことに終止している気がする。いいねとフォロワーの数が正義だなんて、私は信じたくもない。個人的には、テクノ画像まっただなかで戦う表現者たちを、応援したい。

 

( ˆᴗˆ )完。