写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【KG+】牧野和馬「壁」、マリア・ゲルベロフ「キョウト」@ヴォイスギャラリー

【KG+】牧野和馬「壁」、マリア・ゲルベロフ「キョウト」@ヴォイスギャラリー

街の片隅の何気ない「壁」をカンバスのように捉えた作品と、外国人の眼から見た「京都」のイメージの内を表わす作品が同時展開されていた。

【会期】2019.4/26~5/6

 

 

◆牧野和馬「壁」

タイトルと作風から「ああ、街で見かける壁の汚れとかのテクスチャーの作品ですか」と早合点した。しかし、壁が主役になっていない。「壁というタイトルなのに、なんでこんなに植木?がしっかり入ってくるのか」「なぜ壁の質感がさほどクローズアップされていないのか」という謎が残った。

作者氏に話を聞いたところ、手前に伸びている植木?が壁に対し、絵やオブジェのように存在感を示すことに着目し作品にしたと聞いて、合点がいった。

 

壁はカンバスとなり、作品の立つ舞台を与える。日頃は可視化されざる、名もなき木は、壁の力を得て姿を現す。この植木?に注目していくと、なるほど確かに奇妙なことになっている。野良にしては形が整っているのだ。

「植木?」と書いた理由はそこにあり、本作の隠れたテーマでもある。ここに写り込んだ木々は、個人の私有地でない所に生えていたものを、近隣住人が勝手に・かつ大切に?手入れをしているらしいとのことだ。言われてよく見ると、ちゃんと枝葉が剪定されている。誰かが日常的に形を整えていて、そして本人の関心のある所だけ手が入っていて、全体的には放置気味でもある。

こちらの作品では、野良ハンガーと植木?が写っている。誰かが洗濯物を勝手に干しているようだ。置き去りにされた誰のものか分からないハンガーは、壁の力を得てオブジェと化す。

このような敷地と住人の関係は、自治体や鉄道会社の所有する空き地や、所有者が不明になり宙に浮いた土地でしばしば見られる。恐らく半ば容認、慣例となっているのだろう、全国的な傾向かどうかは分からないが、JR大阪駅から淀川へ向かうあたりの東海道本線の線路沿いでも、植木鉢や家庭菜園が野良で見られる。

 

本作は、公共を「私」へカスタマイズする様子を捉えていると言えるだろう。この件は公共の土地利用のあり方を巡って、平等不平等の観点などから時折議論になる。しかし白黒を明確にせず、適当なグレーゾーンを放置することで、公と私が共存できる一つの事例なのではないだろうか。

壁面の表情に注目した作品もあるが、「壁」というものを物性ではなく、概念に近いものとして捉えようとしているのではと感じた。点数は少ないながら、話を伺うことで、公共の場を巡る公私のあり方を気付かされ、面白味を感じた。

  

 

◆マリア・ゲルベロフ Maria Guerberof 「キョウト」

外国人の眼から見た「京都」の独特な雰囲気、気配を写真で表した作品。一枚一枚がかなり闇に包まれていて、中央の光の穴を覗くような構図になっている。ピンホールカメラなのだろうか。

通常のプリントより粒子が荒々しく、闇の中にザラザラと後味が残るが、それがジークレープリント(吹き付け)を用いているためか、撮影技法によるものなのかは分からない。 

「京都」は幻灯機によって照らし出されたイメージのように浮かび上がる。背景、周囲がなく、「京都」の輪郭は不鮮明だ。庭園や建築といった「形」ではなく、京都が孕んでいる雰囲気、歴史の奥行きを捉えどころのないものとして捉え、その中を探訪し、佇んでいるような作品だ。

そして作者は、落ち着きやを安らぎを感じているように思う。被写体は自然物、植物や鳥や鯉、木の根、光などで、じっくりと腰を落ち着けている。

 

<★Link>

http://www.guerberof.com/photography-1#/new-gallery-4/

作者は2018年のKG+では、自身の出身地であるアルゼンチンの写真を出展している。2001ー2002年の通過・債務危機、デフォルト宣言(アルゼンチン危機)により国外へ脱出し、以来帰国していないという。ここでは経済破綻へ向かう不穏な祖国の当時の様子がスナップされている。

京都に感じたのは、懐郷か、癒しか。

 

 

( ´ - ` ) 完。