nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】R4.12/3公開/R5.7/14-20朝練_井上雄彦監督「THE FIRST SLAM DUNK」

バスケが超クオリティのアニメ化で前代未聞だとすごい騒ぎになっていたのも2022年の年末のこと、忘れかけていたらこの7月に朝イチの時間帯で上映が。朝練だということで観てきたの巻。

めっちゃ動くバスケアニメになっていたすごい。

2022年末~2023年始に行くつもりをして予約入れていたらコロナで倒れてチケット無駄にしたり、言うてる間に上映枠が減って見なくなったり、縁がないままフェードアウトしていたのだが、宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』の上映枠を調べている時に偶然、今回の朝練枠を見つけたのだった。むしろ朝しかやっていない。

全国の学生らが同じように上映枠の減った中で、朝の時間帯で観に来やすいようにとの企画だという。ありがとうございました。朝練をします。

 

例によって前情報を絶対入れない主義なのでぶっつけ本番で挑んだ。知っていることは以下のポイントのみである。

①映画公開前に炎上(声優陣やら制作者陣のTwitterやら)

②原作ラストの山王工業戦が舞台

宮城リョータにスポットを当てた構成

④アニメーションがめちゃくちゃすごい

 

このあたりについてkansouを含めて書きつけてまとめておく。半年前にやってたらという思いはあるが全部コロナが悪い。わああ。

 

 

1.映画公開前に炎上してたが、声優・声はどうだったか

これめっちゃ覚えてる。昨年2022年11月上旬、前売り券販売後に声優陣の発表があって「イメージと違う!」「原作(TVアニメ版)のイメージ破壊!」とTwitterで騒ぎになっていた。Twitterを日に1~2時間は見ているので大きな騒動のことは何となく覚えているものである。

なおかつ同時期、製作者陣の発言が「原作軽視」に当たるとして盛り上がっていた。まだ映画が公開されていないというのに原作が原作がと盛り上がっていたのだから今思うと期待値がすごい。

その辺の簡潔なまとめ記事。

www.mag2.com

 

声優について、実際に観ての感想は、別に全然普通であり、気にならなかった。

元々私が声優厨でもないのであれだが、今回のCG作画によるヌルヌルした動きと、誇張を排した演出に、声優陣のクセと誇張の無い声質はマッチしていた。どちらかというとしっかり抑えの効いた、低音側で通る声を選んでいるように感じた。理由としてバスケにおける「アニメ」表現を一新させたことが大きいのではないか。

旧作TVアニメ版は1993-1996年の放映で、当時のアニメは1枚1枚のセル画を手描きしており、作画コストが凄まじいため、1枚絵を出来るだけ引き延ばしたり背景だけ動かしたり、同じ動作の絵をループさせたりして、画面の効果や絵の合わせ技で「動き」を作っていた。漫画と同様に記号的な効果線・光・音を盛り込んで総合的にアニメ体験を創出していたので、必然的に声優の「声」も重要な、誇張や記号の演出装置となっていた。

殊更、『SLAM DUNK』はシリアスシーンとギャクシーンのツインスパイラルで作られている上に、特に「桜木花道」という主人公自体がリアル寄りのギャグの化け物キャラクター(フラれ王、元不良、バスケ初心者、超ポテンシャル、超身体能力、etc)なので、作品世界のテンションを上に保つためにも声優の誇張的演技は不可欠だったと思う。

 

だが今作では、CGによる「バスケ」の動きそのものをアニメーションで表現することが主眼に置かれている。

つまり常に5人+5人全員が動き続け、コート間を移動し続けている。ここで必要な「声」とは、1枚の絵にベタッと張り付く効果線やフキダシのようなものではなく、四肢やボールの動きと同期したものでなければならない。なおかつ、各キャラのストーリーを託せるものでなければならない。キャラの造形はコミカルを残していても、もう、ギャグマンガではなくなったのだ。

名場面が幾つか削除された(魚住のかつらむき等)のも、本作が真の「動画」=試合における選手のムーブとタイム進行が真理という世界に突入したためだ。桜木のギャグ的な動き(赤木へのカンチョー、関係者席に仁王立ちになって山王陣を煽る場面など)にすら、試合の進行の一部であるという動機と必然性があり、それを裏打ちするだけの重みのある「声」が求められたのだと思う。

 

 

2.原作ラストの山王工業戦が舞台

原作『SLAM DUNK』は『週刊少年ジャンプ』での連載が1990年10月から1996年6月まで、単行本で全31巻であり、ラストは夏のインターハイ・トーナメント2回戦、山王工業戦をクライマックスとして描き、次の3回戦は嘘のようにぼろ負けして敗退したことがテキストだけで示された。TVアニメ版はインターハイ出場が決定するところで終わっている。山王戦はアニメ化されていなかったのだ。

 

忘れていたというかその必要性を感じていなかったというのが正しい。山王戦に関してはアニメへの飢えがなかった。

下手にアニメ化したり実写化するぐらいなら、触れなくてもいいですよというぐらい原作が凄まじい。

井上雄彦という漫画家が、「漫画」というジャンルを別の次元へと引き上げたことを、リアルタイムで読んでいてうっすらと感じたし、後に読み返しても、あれを週刊誌の連載で、それもガチガチの視聴率主義テレビ局のゴールデンタイム枠みたいな『週刊少年ジャンプ』でやったと思うと、奇跡としか思えないし、戦慄する。

 

ぶっちゃけ連載から26年越しでわざわざ山王戦のアニメ化に手を出すぐらいなら、スピンオフ作品、例えば各キャラの「その後」を描く方が面白く、納得感があったのではと思ったぐらいで、そういう鑑賞者は多かったと思うのだが、本作はあえて挑んでいた。

思えば『SLAM DUNK』を知らない世代も増えているだろうし、原作直撃世代も随分と歳をとって、記憶からも遠い。そこに改めて直球をぶつけてきた感はある。

 

いや凄かった。

山王戦ってこんなに凄かったんだなと改めて感じた。

何度も原作を読んでいたから各場面のことは覚えているが、それがシームレスに動画で繋がった時にはまた見え方が変わる。特に昔のアニメと違って、今作はほぼ誇張なし、オンタイムで状況が描かれていくので、「前後」が全て提示されている。脳内補完ではなく画面内にあるものが全てなので、迫力が減じた部分は当然に多いが、代わりにリアルな試合の凄みが増した。

 

徹底して漫画的な誇張表現が抑制されているため、各キャラの超人的な強さは感じにくい。

河田兄・沢北の最強コンビも原作ほどの選ばれし最強っぷりの圧倒的キャラとまでは描かれていない。河田弟の「デカいだけ」ということの厄介さも特にない。あくまで5対5のチームプレイの動き全体をリアルな時間と空間から描いているので「個」が誇張されないのだ。止めのシーンでは相当な筋肉量で描かれる河田兄や赤木も、プレイの中ではかなり細く見える。

 

その分、バスケの試合としての凄みがはっきりと伝わった。

各プレイヤーの技の応酬が次々に繰り出される。ゴール下のリバウンド争奪、シュートとブロック、パスからの3ポイント、抜いたと思ったらまだいる、完璧にブロックしたはずの手を擦り抜けてくるボール・・・名場面の全ての応酬が澱みなくやってくる。その連続をやってのけ、互角の戦いを続ける湘北と山王の選手らはやはり超人的なのだった。20点差を付けられて劣勢の極みにあるところから、各人が更に変化を来し、成長を遂げて、プレイを繋げてゆくところを、漫画的誇張なしでプレイの中で描かれるのは、漫画のキャラというより選手として凄いと感じた。それを抑え込む山王も当然に凄い。

 

この攻防戦の「動き」と「スピード」を原作漫画と別の形から表現したことに敬意を表する。試合における選手のムーブとタイム進行が真理というアニメーション世界、これを実現するために物凄い時間と労力と費用を要することは素人でも分かる。またリアルのバスケの試合に寄せすぎても面白みは無くなる。実際、試合の序盤は「バスケの試合をリアル寄りにアニメーション表現した」動画で、原作の記憶と比するとかなり違和感と退屈さがあり、開始数十秒で心配になった。だが物語が乗ってきて、各キャラの映像とシーンに「作品」が乗ってくると、格段に面白くなっていった。

 

勝ち目の無い難敵に、いかに立ち向かい、最後まで諦めずに戦い抜くか。「戦う」という原初的な記憶を刺激する映像であり、原作の良さはまさにそこにあったのだと再認識した。「友情、努力、勝利」が黄金期ジャンプの標語であり本質だったと神話のごとく語られるが、SLAM DUNK』山王戦は「戦う」行為や過程そのものを掘り下げて描いていたのではないか。なぜ戦うのか。戦いには何があるのか。人は何と戦っているのか。その問いと解を巡る旅が次作の『バガボンド』であろう。そうした質の作品であったことを実感した。

 

 

3.宮城リョータにスポットを当てた構成

全124分のうち体感的には4割は宮城リョータの生い立ちや家庭、兄・母との関係を、6割が山王戦というウェイトだった。本作の主役はリョータである。

なぜリョータを主役に当てたかは、映画関連本SLAM DUNK re:SOURSE』の井上監督ロングインタビューで言及されているようだ。

また同誌には、過去に『週刊少年ジャンプ』(1998年9月)と『週刊ヤングジャンプ』(2001年49号)でのみ掲載された読み切り作品『ピアス』も掲載されているという。『ピアス』は宮城リョータと思われる人物を主役にしており、海辺の崖のほら穴の秘密基地、兄を亡くしていることなどの設定が本作に継承されている。

www.cinemacafe.net

 

まだ本が届いておらず、『ピアス』も監督インタビューも目を通せていないので映画の感想を書くに止めたい。

 

想像以上にリョータの生い立ちは喪失が大きく、陰のさすものだった。終盤の山王戦の勢いを見ていると、正直、ここまでリョータにストーリーを背負わすのは気の毒ですらあった。むしろリアルパートをここまでやらなくても十分面白いし、試合を楽しませてくれと願うに至った。だがこれも、ただ単に山王戦だけをフルCGで書き起こされていたら、いかに技術的に見事でも怒り狂っていたのかもしれない。分かりやすい喪失、鬱屈、湿った家庭があればこそ、カタルシスとして表舞台での激闘は輝く。

 

 

本作で広島会場の山王戦と対になるもう一つの舞台は、リョータの出身地・沖縄である。本作は幼少期のリョータと兄ソータの1on1から始まる。

父親が亡くなり、父親代わりを務めようとした3つ年上の長男ソータも程なくして海の事故で亡くなる。

父を亡くしてソータが「俺がキャプテンで、お前が副キャプテンだ」と、リョータに1on1をしてやる場面が、恐らくリョータにとってのファースト・バスケ体験である。この直後にソータは海釣りに出かけ、そのまま帰らなかった。

 

山王戦が表の/原作「SLAM DUNK」のピークであり光なら、リョータの生い立ちと家族関係はその内面であり影である。漫画で描かれた記号的な「問題児」「不良」のリョータは強さとカッコよさ、熱さとクールを備え持った万能キャラクター感があったが、本作では自身にも家族にも大いなる喪失と欠落を抱えた、とても「弱い」存在であった。

立て続けに男手を亡くし、母とリョータと末娘の3人家族の暮らしが始まるが、母親も周囲もバスケットボールチームでエースの活躍をしていたソータの影を見てしまう。母親も自分がソータの死別をきちんと受け入れられていないことを自覚していて、生活をリセットするために沖縄を離れ、神奈川県の公団へ移り住む。

だが内情はリセットされない。母とリョータにとって、父の喪失はともかく、次いで頼りになる存在でありエースプレイヤーだったソータの存在は更に大きく、それゆえに喪失感は深刻で、実にインターハイの広島遠征の時までそれぞれが互いを直視できず、負い目や申し訳なさを抱えている。遠征前夜にリョータが母に書きかけてやめたのは「生きているのが俺ですみません」だった。

 

宮城リョータは、原作では最も私生活が見えないキャラだった。

田舎で思春期になるかならないかの学校生活を送っていた時分の私には、神奈川県の高校2年生というだけでも優れて大人に見えたのに、スポーティーな髪形、ピアス、野性味のある眼、ワルの入ったモデル風の出で立ちで、スピードと技術で切り込む姿は、超カッコ良かった。ゆえに謎であった。

桜木や赤木は私生活が見え、三井は分かりやすい人間的挫折が提示され、それに同期して(同級生でもあり)赤木と小暮の内面も描かれていた。流川はそもそも概念キャラ(作品のためのキャラ)なので論外である。そんな中で宮城リョータはまさにモデル的で、外面的設定はあるけれども内面を構築する材料が乏しく、それゆえに完璧であった。下手をすれば『バガボンド』なら登場から間もないうちの、完全無欠かつ飄々とした吉岡清十郎に近いとも言える。

その聖域にも似た漂とした様を本作では、『リアル』を経て「人間」のバックグラウンドと向き合った作者が、改めて向き合い尽くしたということだろうか。再戦時の吉岡清十郎のように、半分舐めているようでいて実は両肩に多くのものを背負っていたように。

 

作者が向き合わざるを得なかったのは、宮城リョータというキャラクターだけではない。

作品発表から約30年もの月日が経過し、その中で変化した自己と、何よりあの時作品を見ていた読者・視聴者らの変化――加齢に向き合ったのではないか。

つまり作者も鑑賞者も、30年分の人生を歩んだのである。

SLAM DUNK』内のキャラクターは永遠であり、これからも永久に夏のインターハイに向けて約半年間の学校生活をリフレインし続ける。だが私達は彼らと同じ目線のプレイヤーであり続けるわけにはいかず、むしろ、そうした子を持つ親の世代へと突入してゆく段階に立っている。

 

井上雄彦はそのリアリティに向き合い、山王戦におけるプレイヤーらの爆発的成長と並行して、家族の成長、親側の成長をも描こうとした。死別、喪失感を乗り越え、目の前にいる子を一個の、その本人として認められるようになるまでの長い過程を描いたのだ。

山王戦を終えて海岸で再会するリョータと母の会話でそれが果たされたことが分かった。「背ぇ伸びた?」と。

 

1on1の描写は、かなり長く描写される。父親を亡くして間もなく兄ソータと交わす1on1、次に神奈川へ越してきて孤独にある時、偶然に通り掛かった三井が教えてやった1on1。これらはバスケという競技の最も原初的な形である。一人でドリブルとシュートをしていてもバスケとは呼べない。1人でも相手がいればそこからバスケが始まるのだ。1on1はバスケの起点にして、本作の起点であり、「SLAM DUNK」という物語、山王戦へと連なる最初のピースという意味があるかもしれない。

 

それにしても宮城リョータの背負っているものが重く、湿っている。つらい。やはり『リアル』連載で培われた、現代ドキュメンタリーの重要性ゆえなのか。モデル並みの「浮いた」暮らしをやっているものと思ってきたリョータが、不完全な家庭で居場所も自信も持てずに生きてきた様を描かれ続けるのは、正直かなりしんどかった。

これは最強さに満ちたように思われた『バガボンド』の宮本武蔵が、その実、破綻した家庭(父親)の影を抱え、そして恐怖や虚無感にすら付き纏われるのと共鳴するところがあるかもしれない。宮本武蔵桜木花道の相似形のようでいて、実は桜木には人間的な内面がさほどなく、感情や反応はあれど、内面よりも遥かに先に行動と実践が来る(事実上の「天才」なのかもしれない)のだから、宮本武蔵のカゲの部分の引き受け先として本作の宮城リョータが指名されているとしたら興味深い。そういえば武蔵の最もピュアな精神的な回帰場所も、リョータのほら穴と同じく「おっさん穴」であった。

 

 

4.アニメーションがめちゃくちゃすごい


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言うまでもないがよく出来ていた。前述の通り、バスケの試合を試合として俯瞰した時に破綻がないよう、選手の動きと時の流れを実装した映画となっていた。

 

バスケはプレイヤー5人ともが同時に動きながら進行する、特に『SLAM DUNK』ではプレイヤー5人ともが主役級に核となる作品なので、野球や格闘技みたいに動き手と観察者・解説者に分けることが出来ず、計10人のリアルタイムの動きが必要となる。その上、優れた選手であるほど目を離した隙にパスをもらいに出たりパスをカットしに出るのだから、従来の手書き作画ならお手上げである。長い年月を経て、よい技術の下で制作した価値はあったと思う。

 

それでも試合序盤はまだ物語が憑依しておらず「バスケの動き」だけが先行し、何だかゆらゆらと上下する体の動きに不自然さと既視感を覚えた。

FF10のキャラの動きだ」と思った。イベントシーンなどでキャラの上半身が呼吸に合わせて上下する動きと、本作のキャラの動きはよく似ていた。当時の制作スタッフが関わっているのではと思ったぐらい似ていた。

だが気になったのはそのぐらいで、話が進んでキャラの動きに『SLAM DUNK』の物語や名場面が乗ってくるようになると、キャラの動きは試合の動きと原作の表現の方に注力されるようになった。

 

動画技術については詳しくないが、ただリアルのバスケ選手の動きをモーションキャプチャーでトレースしてCGで書き起こしても、それはただのバスケ試合のアニメ化であって『SLAM DUNK』ではない。そこで井上雄彦が細かく修正指示を出して、漫画でも手描きアニメでもないCGアニメーション独自の、説得力ある表現を実現させていったという。

どこまで行っても創造上のキャラクターであり、特に桜木花道は異常な存在であるから、生身の人間を元にすることは出来ないし、旧アニメをそのまま移植するわけにもいかないだろう。異常というのは、桜木花道はその言動も体格も思考も、体力も瞬発力も存在感も全てが、モーションキャプチャー的なCG界を基準にするとフィットしないという意味だ。言わば『北斗の拳』の世界で跳梁跋扈する巨大な将のように、劇画とギャグの融和した後、90年代マンガ世界において確立され最適化された存在であり、それは平成後期のリアルな身体性を備えてゆくキャラクターの中では浮き上がってしまうものだ。そんな桜木が溶け込んで飛び跳ねたり、背中の痛みを訴えていたので、よく出来た作品だったと言うべきだろう。

 

しかし最も強烈にテンションが高まり、緊張し咽喉が涸れ、ギリギリとし、カタルシスが爆発霧散したのは山王戦・最後の約1分。

それまで誇張表現を排し、出来るだけリアルな「バスケ試合」アニメーションに徹していたのが、最後の1点差を返し続ける死闘のラリーに突入すると、更にギアが入る。

原作・井上作画の筆が乗ってくるのだ。

逆輸入される原作『SLAM DUNK』の画角、描線、視線導入、カットが、これまでのスピードと緊張感に更なるターボを加える。その逆流入は最後の0秒の瞬間に向けて色濃くなってゆく。最後は漫画表現が最も強烈なテンションをもたらすものかと驚愕した。動画、CGがいかに高度に発達し、精妙さと万能さを備えても、時間の流れが逆に止まってゆく場面では静止画=漫画の表現にこそ一日の長がある。時の流れの複雑性を極める動画表現だからこそ、時の凍結した特異点において動画表現はただの止まった、間の抜けた「絵」に陥ってしまうという矛盾。ゼロへと止まりながら1秒1秒が極大化してゆく特異点の圏内では、漫画表現が最強の猛威を振るうのだった。

井上雄彦SLAM DUNK』原作が山王戦のラストで切り拓いたのはそういう極地だったのだ。台詞、擬音の書き込み、音声すら消え去る、動きだけがある、「左手はそえるだけ」というセリフすら無音と化す、特異点の表現へ。そのようなことを痛感し感極まりながら、桜木のシュートがゴールを切るのを見送った。

 

究極のカタルシスとは、時を超えることにこそある。『SLAM DUNK』原作及び今作『THE FIRST SLAM DUNK』は、その表現に2度も挑んだのだ。素晴らしかった。有難かった。私もそのような有資格者でありたかった… そう思わずにいられなかった。だがすべては、果たされた後の、2023年だったのだ。目の前が見えない。うう。

 

他に言うべきことも沢山あるはずだが、だいたい言うべきことは言えた。

よかった。

最後に、原作には無かった敗北後の沢北の号泣シーンと、試合前に全てが満たされた面持ちで山の中の神社で祈願した「俺に必要な経験をください」との連なりに、『バガボンド』胤舜のアナザーを見た。そういうのも、良かった。

 

 

いいとこしか見えてへんのな(盲目

 

( ´ - ` )完。