nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真イベント】R5.7/21-23_flotsam books 「flotsam zines tour 2023」@京都(kivi/y gion)

写真集販売でお馴染みの書店「flotsam books」さんが、ZINEを広げて即売するツアー企画。この7月下旬、京都の祇園にやってくると知り、ZINEを漁りに行ったのであった。

お買い上げ品も含めて偏りの多いレポをします。

【会期】R5.7/21~23

 

Twitter見てたら7月下旬の3日間、「ZINE売るツアーが京都・祇園に来る」と知ったので、ええもん掘り出しにいきたいと思ったのだ。大阪にはTABF(Tokyo Art Book Fair)が無いから飢えてますねんや。手に取って見る機会がないねん。ない。

 

■書店(写真集)flotsam booksさん

「flotsam books」さんは東京の世田谷区・代田橋に店舗を構えているという。なぜか伝聞系なのは私が関西からネット通販しまくるばかりで、実店舗の存在をWeb越しにしか知らないためである。言わばmy都市伝説であり、何なら店主が存在しているかどうかすらリアルには知らなかった。いるにきまってるだろ。店主の「Information」投稿は一服の清涼剤と名高い。

www.flotsambooks.com

たくさん写真集があるね。くらくらする(物欲)。

一般人にとっても中毒者にとっても写真集の購入はハードルが高いものだが、flotsam booksさんでは写真集の中身の写真と概要をホームページ上で掲示しており、全く知らない写真家の写真集でもポイポイ気軽に買えてしまう。これがありがたい/おそろしいのだ。ホームページを見て分かる通り海外の品揃えが凄い。ほとんどが全く知らない様々な国・地域・ジャンル・時代の写真集である。一体どこから仕入れてくるのか分からない品が日々次々に押し寄せてくるし、放置して売り切れると後に値が高騰するものもあるので、買っても買わなくても大変なことになるのである。おお。

 

頻繁に買うわけにはいかぬが、いちどクリックしだしたら「ついでにあれもこれも~」とラッシュ状態になり、写真集で異国と異文化交流パーティーに陥るのが常である。そういう感じやね。ええ。だがパーティーには原資が必要である。年収。年収やで。社長。首相。あげてんか。年収。足らんねや。 (´・_・`)

 

 

■ZINEツアー @kivi

さて7月22日(土)11時、祇園

くるったような暑さの祇園。暑い。これは狂っている。外国人観光客しか歩いていない。世紀末だ。

あかん暑い。わああ。

写真では全く伝わらないが危険域である。こんなもん日本が珍しくて仕方のない中南米や西欧圏の人しか出歩かへんわっていう。あんたらもしぬぞ何ツアーやっとんねん。

 

だが私もうろうろしてばかりで店に入ろうとしない。写真仲間がまだ来ないのである。そんなら店内で待てばいいのに「たいようがまぶしいから」と祇園をうろついていた。もはや理性がない。だめである。狂人症候群だ。だが本人の判断は理性的である。つまり咎は太陽にある。夏にある。地軸。傾き。ああっ。

 

かわいい。

このチラシだけがある。私のように事前情報で会場まで知っている人はまだしも、一見さんは「おっ、ここで活きの良いZINEが即売されておるな」とは絶対に分からない。ねこのような絵がかわいい。ねこ秘密結社である。

しかし色々理解した上でこの張り紙を見ても、「y gion」ビル内のどこでやっているか分からず右往左往、もといエレベーターと階段で上下往復するのであった。どこ。

 

2階でした。

うそやん美容室ですやん。えっマジ。

 

マジや ヽ(^。^)ノ

 

美容室の入口でZINE広げて売ってる!!!(でかい声)

 

髪を切りに来たのか写真漁りに来たのか分からねぇ。まあ夏は気持ちが開放的になりますからね。美容室でZINE、なんら珍しいことではない。見たことないですけども。いいぞ。

 

しかしこれは凄い数だ、ちょっと奥さんちゃんと見ましょうよ。

 

( ´ -`) いぬの絵かわいい。

 

絵?

そう、この企画がユニークなのは、写真集系のZINEが主ではありながらそれだけでなく、「何でもあり」でバラエティに富んでいることだ。あかん気が抜けへん。

約130組の作家のZINEが、無審査で、応募されたままに集っている。なんかレイヴパーティーぽくていいですね。享楽的な自律性から来る自由なグルーヴがあるのだ。フェスやね。

実際、数は多いし、既に売り切れているものもあるし、このあとカレー食って二手舎にも行かなきゃならないし、予断を許さない状況である。どんどんチェックしていくやで。

 

(  >_<) 見た端から忘れていく罠。ああっメモリが足らん。

気になった商品をメモ代わりに撮らせてもらっておけばよかった。後で気付く。かなり遠慮してたのもあるが、基本的には在庫切れが出てしまうことも前提に、出品作家には「客からinstagramTwitterで直接購入の問合せが入るかも」と伝えられており、見本の表紙には各作家の連絡先などが付されている。

 

大きな卓が2台。ZINEの層が出来ていて掘り返して見ていく。昔、レコードを探す行為を「ディグる(掘る)」と言ったが、まさにこれこそディグである。わあい。ただし掘った先から上にまた載せちまうので目をつけた品がどこ行ったか容易に見失う。百人一首カオス編。

 

見ていてざっくり気付いたこととして、紙質・冊子の作りが自由かつ繊細な品が多かった。

これまで自分が見たり買ったりしてきたZINEは主に写真集販売サイトから買っていて、だいたい定型サイズ:多くはA5・大きくてA4で、しっかりした厚みとツヤのある表紙と、同じくへたれにくい紙質の中身で、収納性と保管性が確保されているものだった。

だがここにあるZINEの多くは、大きさや作りが定形外で、自分なりの独自性を出そうと手作りに近い形態がとられている。よく同人誌を指す「薄い本」という呼び名がしっくり来る。

 

手に取って観る分には個性があって良いですねで済むのだが、いざ買うかどうかの判断になると「大量の蔵書の中で管理が可能か」「一定年数、傷まずに保管できるか」「数年後に捨てる羽目にならないか」「家のどっかにしまい込んだまま存在を忘れてしまわないか」といった現実的な計算が働く。現実的すぎて自分自身が管理社会の権化に見えてきた。

つまりそういう、保管と管理に耐えうるフォーマットと質を持ちつつ、個性的で、力のある品を選びました。やはり大きすぎたり、紙ヨレヨレだったり、薄すぎてへらへらしてたら、一般の雑誌や図録、写真集と対等に置くことができない、棚で押し負けるというのだ。

A5~A4サイズあたりの、表紙も中身もしっかりした紙質のZINEが最適。本棚に立てて並べておけるし、必要な時に出し入れが容易。必要な時に取り出して見れないとだめなんです。

 

以上、買う側の論理のお時間でした。

 

なに購ったかは後に紹介しますね。みんなそれ聞きたいやろ。しっとんねん。

 

て選び抜いた5冊を買おうとしたら2冊売り切れ。ぬう。

というわけで片柳拓子さんのZINEを見つけて「オッ、活躍してはる。良き。」と、買おうとしたら売り切れ。人気や。昨年2022年6月にPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAで個展やってはったしな。(観に行けず仕舞いである。名古屋は近くて遠い。すんまへん。)。精力的に活動してはるなあ。

 

というわけで後に直接「在庫あるぶん全部売ってください」と雑な連絡を申し入れたりしました。しかし想像以上にすごい数のシリーズを作ってはったことが判明、本棚が死ぬのでだいぶ減らしてお買い上げしました。ようけ作ってはるで。

takukatayan.wixsite.com

「本」ページにリストがあり、通販ページはないけどDMとか送ったら価格など教えてくれはる。1冊1000~2000円で非常に良心的です。

 

カワクボサキホさんのZINEは、1冊ずつ作家自ら紙を火で炙って焼いている。これはありそうでなかった作り方で面白い。

ページが焼け落ちている。1冊ずつ焼き方(焼け方)が異なるということだ。作家の意思による部分とコントロールできない部分とをどこに乗せていくかで、火を用いるアイデアは色んな人が使っているが、写真集を燃やすのは手作りのZINEならではの発想である。

 

こうなってくると、ここにあるZINEたちは写真集的な固定メディアというより、音楽的でライヴに近い。扱っているのは映像と紙で音を鳴らすものではないのだが、即興性と一回性をその瞬間瞬間で刻み込もうとする行為は音楽的だ。写された写真も、具体的で固定された意味や造形というよりも、揺れ動く不確かなモチーフが多い。

 

そう思うと机の周りが、なんかライブハウスの物販ぽくて良いんですよね。

昔はよくインディーズのLIVEいったな。懐かしく思い出される記憶。嗚呼。

 

 

背後には写真集コーナーも出来ていて誘惑甚だしい。嗚呼。

ここで荷物を増やすと二手舎に辿り着けないので自重する。自重戦です。

 

ZINEにせよ写真集にせよ、顔も名前も知らんけど、多くの人が偏った情熱と世界観を発揮して、こうして表現物をアウトプットしているということが、たいへんに嬉しい。刺激になる。なった。

人間いつ自由に生きられなくなったり、死んでしまうか分からないので、自分もなんかこう、やらなあかんなという気持ちにさせられたのでありました。

わあー↓↓↓  どないすんのや。どう生きるか。

 

色々気になる( ´ -`) kiviさんでは今回のスペースを用いて、今後もアートブックなどを展開するようで、京阪三条駅のブックオフと合わせると良いルートになるのではないかとニヤニヤしている私。消費者であることを徹底するというのもまた一つのattitudeではある。宮崎駿逆張りをやる。私たちはどう生きるか。後の先、消費者としての受け身を徹底する。資本主義プロレス。はい。

 

 

あ、noteでZINEツアーの日程出てますね。8月5日(土)~7日(月)は神戸(Mukta)、8月12日(土)~14日(月)は大阪(I SEE ALL)ですって。どっちも私は旅に出ていますが皆さんはZINEを漁ってください。鰻より精がつくやで。

note.com

 

 

ではお待たせしました、私のお買い上げ品レポします。

買ったのは3点。本当は5~6冊買うつもりだったが売り切れが結構多くて。ZINEは早い者勝ちです。

けっこうこれはえりすぐりの3冊です。

 

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■お買い上げZINE①_新田さやか『I've Realised at Last that I have eyes.』

「あっ、これは”わかってる人”のZINEやわ」と一発で分かるZINE。一発で分かったので買った。わかりゲーである。表紙でまず、分かっている。わかるやんな? これは分かってはるアレですよ。

 

ホームページ見に行ったら案の定しっかりした人やった。

nittasayaka.wixsite.com

 

まず表紙。「眼」のアップをトップに持ってくる写真集や本はだいたいハズレがない、パワーがある。間違いない。レクイエム・フォー・ア・ドリーム。

 

ページを開いてまた、分かっている。

一回り小さいページが現れる。1冊の中で完結した・統一したページ構成を崩して別の時系列を差し込む。静かに大胆な作りだ。現実味のない激しい白昼夢のような場面から一転して、はっきりと輪郭を持った人物の肖像が現れ、夢のような定まらなさが途切れ、知覚が変容/覚醒したのかと思わせる。

だが全体を通じて答えはない。「眼」は何を見ているのか。見てはいるが、見えてはいないのか。見えたものは世界の答えそのものなのか。

像自体はくっきりと写して表すが、それぞれの場面が何を指しているかの意味性を徹底的にはぐらかすことで「見えた」ものがただちに意味を持たないよう作られている。写真は現実、外界を写すことしかできない―撮り手の「内面」が出せるわけではない、という仕組みを反転させて、写す外界をずらすことで「外界」ではない何処かを突くように展開している。

ずらされているのは、見る・見られるという主体と客体の関係であろう。眼の写真、タイトルにあるように、本作では「眼で見る」=眼で見たものを撮ることの主体と客体を転換し続けていて、誰かの眼を過剰に強調したり写さないことで作者が直接に見たものとして語ることを避け、写された人物の側も通常の眼を持たない(=登場人物が他我を持たない)。そして作者が直接見たものも輝きや色調、ブレが強調されていて、リアリティを幻惑され、作者の実像としての自我、自意識を持たないよう作られている。

見る・見られるの構造を徹底した演技演出によって迷路に持ち込んだのが赤鹿麻耶だが、本作はそれと似た構成をとりつつ、「眼」に強くフォーカスを当てた、視座を巡る舞台作品である。

 

今知ったが、本作は「IMA」が主催するオンライン写真コンテスト「IMA next」の「テーマ#27 OPEN CALL」でショートリストを受賞している。

ima-next.jp

 

 

■お買い上げZINE②_渡部るみ子(タイトル不明)

いやもう「わかってる人」ですわ。これは「わかってる」。新田さやか氏と同じく、芸の型としては強固で、ある種の完成されたフォーマットの芸である。

 

ホームページを見ると「After filming」「Anonymous logon」の2つのシリーズをまとめたZINEであるようだ。

www.rumikowatanabe.com

2シリーズを合わせていると知って納得した。なんか違う主題の作品を取り合わせた1冊だなあと感じていたのだ。

「After filming」シリーズは、果物やドーナツやショートケーキが擬人的なオブジェとして、街中の壁や手すりや突起物などと組み合わさってコミカルな世界を醸し出す。タイトルは「After filming, the staff enjoyed eating the food.」、TVでお馴染みの「この後、スタッフが美味しくいただきました」に由来するようだ。

 

「Anonymous logon」シリーズは、街路樹や観葉植物をそれらの溶け込んだ風景から前へと引き出し主体化したもので、「​匿名でこの世界と関わり続けることを難しく感じる一方で、なぜか身の回りは均一化されたもの​で溢れている。」と語られている。無機質な公道や家屋の風景の中で、それらは別の質感をもったオブジェとして、膨らみを持って撮られている。

同じシリーズとしてイヤホンを付けられた林檎やコンクリ壁の水抜きパイプから落ちるテニスボールも撮られているが、演出を施されて後付けで撮られたものたちはどちらかというと「After filming」に近い。

 

どちらもコマーシャル風の擬人的なファンタジーを感じる。人間のいない場面に、人間のような者が主体となって振舞う場面が潜んでいる。

 

 

■お買い上げZINE③_Kyosei Yoshiike(吉池巨成)『MIDNIGHT DIARIES』

どれがタイトルで作者名で何なのか分からない手書きの表紙が良かった。情報が撹乱される感じが中身と合っていた。夜の街の広告、電飾、照明などを、キラキラ・ギラギラというよりドロッとした酩酊と陶酔に近い質感で撮っていて、海外のクリエイターが日本や西欧などの夜の都市部を撮ったものだと思った。日本人が撮った日本だったので驚いた。

更に驚いたのは、Webで見る写真は割と普通のあっさりした質感だったことだ。森山大道にソール・ライターを掛けてライトに仕上げたような風合いである。だがZINEだと溶けていない砂糖のようなドロッとした重さがあり、体験としては別物になっている。

4ck-hendrix.studio.site

高度に光と色と情報―広告の文字・写真・映像が都市空間に溢れかえるカオスな近未来アジアのサブカル的な時代は終わり、格差とコスパを露骨に推し進めてゆく日本の都市にはもはやファンタジーを感じようがないのだが、こうして編集や紙への転換によって主観を拡張させ、都市の奥行きやスケール感を無限大に引き延ばして光と影の中に踊ることは可能なのだと気付かされた。

そしてデジカメ的な、Web越しに綺麗な質感=データで見ていてはその体験は来ない。Webは情報がクリアで平面すぎるのだ。いにしえの「紙」、それも厚みのある紙の奥行きと物質感がなければ、体験は来ない。程よいノイズと障壁がないとデータはデータに過ぎず、感覚はそれに触れるのではなく透過してしまう。このZINEとホームページは様々な気付きを与えてくれる。

 

日本の都市と写真との掛け合わせに「やることのなさ」を感じてしまっていたのだが、そう捨てたものでもないということが分かった。美しさ、正確さ、エモさでは駄目なのだ。都市を外から撮るのではなく、純度の高い何かをキメるように、都市を体に流し込むのが正しいのだ。おお。そうすね。

 

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以上、偏りの多いレポでした。

皆さんもよきZINE Lifeを。

 

( ´ - ` ) 完。