【写真集・イベント】東京アートブックフェア銀座エディション @銀座ソニーパーク
目に毒なイベントが多いからTokyoはこまる。
( ˆᴗˆ )アートブックフェアがあると聞いて写真仲間と流れ込む。目に毒な所へ来てしまった。また本が増えるのだなあ(白目)
【会期】2019.3/8~4/7
一か月近くもやっているらしい。どうかしている。Tokyoの人は財布によほどゆとりがないと死んでしまうかアコム・アイフルしてしまうのではないか。ないのか? まあいい。写真集が豊富に繰り出される場が地下鉄銀座駅から直結で展開されているのであった。
無料にしてえらく立派で太い冊子です。何書いてんの。
うわあ毎週土日で出品者が入れ替わるのか。豪華すぎる。
野村恵子トークを聴いた後なのでまあ既に写真脳が出来上がっている これは買ってしまうのではないか。買ったけど。
そういうわけで
さっき渋谷の「まぜそば七」でうまい油そばを食ったので戦利品をレビューします。ほかにやることあるだろと思うけどもうこれは仕方がないとの声が多数ある。ない。
◆須田一政「かんながら」
何か凄かったので衝動で買う。めくってて凄いと思える写真集はつまり凄い。トートロジーの魔法にかかるということはすなわち凄い。「生」、生きるもののサガがあふれている。
おお、おおお。、 なんやなんや
なんやなんや、
あっち側の世界(冥府)への入り口がすごい勢いで迫ってくる。
なんやーなんやのー、
もう「生」の世界の輝きというより向こうの世界に行く手前の光景に見える。すごい、この視界はまずい。悟りとか観念とはまた真逆の、強い「生」の肉視を感じる。
なんや、なんなんやっこれはっ、
ことごとく日常の光景が我々の生きるそれとは全く変質したものになっていて、しかし誰もがいつかは迎えるであろうことを言っていて、そしてこの目は強い、とても力強く、その手の五本の指で掴みとるようにこの世を見ている、
なんやいったいなんなんや、
たびたび立ち現れる異界、あちら側への扉。そこにはもう境界すらなく、どこかの時点で不意にすうっと入ってしまうのではないかと思わされる。なんだこの、
なんや、この、
なんやこの、
おお、
生きるとはなんなんや。
(><)須田一政いいなあああ
終盤で現れる、夕闇に光る国会議事堂も、昭和を生きた日本人たちが向かう巨大な墓標に見えて、「ふおおおお」「ぬあああああ」となります。私は別に死にたいわけではないし、死の世界が好きなわけではないけれど、体がアレで、眠り病というか、意識がすぐこちらの世界からかっ攫われてしまうから、わりと こう、向こう側の世界に(めちゃくちゃ嫌だけど)近い感があります。嫌だけど。
で説明を聞いたり読んだりしたら、2015年3月に大病を患って倒れ、そこから復帰したものの体は動かず、妻の運転する車の中からの撮影を強いられた、それがこの写真集だそうです。そんな風に全然見えない。ただただ個人の濃密な「生」のサガと、いやおうなしに近づいてくる向こうの世界(冥府)とのせめぎ合い、波打つものがあって、引き込まれました。
2019.3/8 没。 合掌。
◆伊藤安鐘「Beyond The Sun」「寝ぼけ眼から涙を流して」
若手作家のZINEの中で一際気になった。外界の切り取り方と再編の仕方が個人的にとても好きだった。なにかこう、不条理で付き合いづらい「日常」や「世界」(作家の”私”の内外どちらも含めて)に一発食らわしている感じ、感傷に終わらず、編集によって「ままならなさ」を逆手にとり、不自由なる日常ーー運命を遊ぼうとしているのが伺えて素敵だった。
「Beyond The Sun」
世界を直視しつつ、眼を見開かない。直に主人公として生きることをしない。かのように見えつつ、半目を開けて、2/3とか3/4だけ受け容れる。そしてしかと見ている。それが映像に動きをもたらす。映画のように写真が動いていく。頁をめくるのがたのしい。舞台は全て何気ない日常なんだけれど、作者の私性が奥へ引っ込んでいる分、より身体の奥から「のぞき見ている」感。
するとそのうち人間の動態が登場する。これがパフォーマンスや「気配」とは違って、もっと荒くて痙攣だと感じた。大坪晶が現す気配、記憶の残滓とは真逆の、「私はこの場にいていいのですか否か」「あうあうあうあう」といった問い、悶えそのものかもしれない。
半ばから現れるのがこの激しく小刻みの残像と、もう一つが、ダブルイメージ。一人が二人になる。二つに裂かれた同じ像は、写真によって複製される世界と作者との関わりを意味しているのか、あるいは現実そのものがフィクションのようなもので信用ならないことを投げかけているのか、とかくアクションとして力強いので見ていて応援したくなる。人生なんて役割分担と演出の積み重ねですからねーいやですよねー社会人なんてろくでもない。揺らしましょう。
「寝ぼけ眼から涙を流して」
制作年月日も分からないので「Beyond The Sun」との前後関係は不明ながら、手法としてはこちらの方が凝ったフォトコラージュでありつつ、書きつけた日記が重ねられ、より生々しい情動を載せている。こちらの方が洗練されていない(いい意味で)のでより若いころの作品かもしれない。
写真が主でありながらそれらは作品としての「写真」ではなく、データとして取り込まれたフラットなイメージになっている。そして手書きのイラストや日記とイーブンな関係で編集され、レイヤーの前後を自在に組み替えられてゆく。
この全部データとしての割り切りがすっぱりしているのでトータルで作品として見られることが作者の特性かと思う。私情としての痛みを綴っていながらそれが気にならない。外界とも内面とも折り合いがうまく付けられないでいることすら気にならない。イメージに取り込んでいるレイヤーの幅が広く、日常景の写真だけでなくそれらを処理するPC画面、エラーメッセージ、あるいはそうした人々の営みを冷徹に見続ける監視カメラの画像などがふんだんに盛り込まれることで、作者個人の「私」は相当に相対化される。公共の眼の対象となったりする自身や「日常」を取り込み、いずれも等価に散りばめているためだろうか。
作者は自分のことが好きだけれど嫌いなのだろう、と、思いそうにもなるが、むしろ自分の想い以外の大きな力によって「こうあるべき」といろいろ強制され強要されて出来上がってしまう「自分」、もしくはそういう「あるべき」姿を様々なやり方で強いてくる社会に対して、超・違和感を抱えて、むかついていて、このように編集によって攪乱を図ったように感じた。クレバー。よいテロリストになりましょう(※賛辞です)。
◆植田真紗美(写真雑誌「WOMB」)
「雑誌」という言葉は正直好きではない。「雑」じゃなく、真摯な想いや考えを持って作られているものまで「雑」と呼び表わすことの暴力よ。いやねえ。「純誌」や「丁寧誌」ってのも変なのであれですけども。
ともあれ、それで何冊かラララララとめくっていたんですが、どうも気になる。毎号載ってるこの、植田真紗美氏の写真のところで必ず手と眼が止まり、ペースを写真に合わせようと体がはたらくので、これは何かこう引力がありました。
ひとまず「Vol.8」2015年冬号を購入。
圧倒的にいい。
「静かに語る」、言葉ではなしえない、低くうごめくような声で語ってくる写真。
何かわからないけどわからないのがいい。
「海へ」 と言った次の頁で古代の海で生まれた化石の堆積物が来る。沈黙からイメージを語っている。化石は喋らない。作家も喋らない。じわりと来る。
海が直接出てくるのが23カット(たぶん)中、2カットぐらいしかなく、あとは背景扱いか、背後の文脈や引用元として出てくるに過ぎない。海にまつわる物語かと思えば、全く関係のない都市の公園や路上、飼い犬が登場し、その舞台は広い。だが火山の噴火や、火山活動によって生じた岩石、そして砂浜などの写真からは、現在の私たちが生きるフィールドが実は、もとは海で、それがダイナミックな大地の運動によって拡充され、その上に成り立っていることを示唆しているかのようだ。
地球の規模で日常を再考して見せているが、あくまでその意図は伏せられていて、作家の小さな名もなき物語の体となっている。
いいなあ。
いいなあいいなあ言うてたら人生が終わりそうな気がしますが、もうそれはそれでしょうがないかもしれませんね。
あっ。
熊谷さんがおられた。
(・_・)ノ おつかれさまです◎
熊谷さんと少々お喋りしてましたが、清算の済んでない商品を持ち歩いていたり、仲間を放り出していてけっこうアレな状況でアレでした。花粉症の薬のせいだ。クシュン。
その後1_WALL見て、一人意味不明な作家がいて、この人意味わからなくてめっちゃ好きだなーと思いました。意味不明を愛せ、さすれば汝を思わぬ場に連れ攫わん。ですよね。そしてポーラ・シェアというグラフィックデザイナーの展示を見て、NYで評価されてる作家はテンションの桁が違うと仰け反りました。そして最後に「IG Photo Gallery」に行ってみると、どうも閉まっていたみたいで、物件内を右往左往していた私が窃盗団の偵察部隊みたいにしか見えなかったであろうことを鑑みますと、酒が進むというものです。今日という一日に感謝。
わんわん(^v^)