nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】山下豊 R4.4/22~5/3「439 ROUTE1」@gallery 176 / R4.4/10~5/13「相生湯とモカ」@ビジュアルアーツギャラリー大阪

山下豊は90年代から2000年代にかけて活動し、特に作品『OSAKA』『軍艦アパート』写真新世紀、個展、写真集などで幅広く展開していた、キャリアの長い写真家である。2016年に亡き父親の故郷である高知県土佐清水市に移住したが、このたび再び大阪へと戻ってきた。

そして戻ってくるや、4~5月のダブル個展である。作品はどちらも約5年間の土佐清水暮らしの中で撮られたものだ。展示作品と、作家トークで語られたことを元にレポートする。

 

 

 

作者は2016年に土佐清水市へ移住してからも写真家活動を続けており、私が「山下豊」の存在を知ったのは2020年5月末の展示・「サクラカラー」(@The Third Gallery Aya)で、まさにその時期に撮られた作品だった。

 

というのも、作者がバリバリに活躍し評価を受けていた2000年代前後、私は趣味で写真をやり、大学の写真部に在籍してはいたものの、所謂「写真界」や「写真作家」と全く接点を持たない形で生きていた(写真新世紀すら興味がなかった)ため、その名を知る機会がなかったのだ。

ちなみに作者の受賞歴を挙げると、2002年「EPSONカラーイメージングコンテスト 審査員特別賞(森山大道選)」、2003年「MiO写真奨励賞 優秀賞受賞」、2004年「写真新世紀 優秀賞受賞森山大道選)」と輝かしいものがある。

 

「サクラカラー」以降、Facebookでご本人と繋がってからは、毎朝のように土佐清水の海の景色が上がってきた。高知移住後の作家活動としては正直そのぐらいしか知らなかった。しかし今年に入って、母親の逝去に伴い、大阪にまた戻ること、「gallery 176」メンバーに復帰すること、大阪で個展を行うことなどが次々にアナウンスされた。へえー大変そうだなと思っていたら、3月上旬に直接メッセージをいただいて、展示会期中のトークをすることになった。

 

こうした大阪復帰の動きの裏にあったのは、主要都市部を離れて写真家活動を行うことが、現実問題として困難であるという事情だった。このことは後述したい。

 

では、4~5月に開催されたダブル展示についてレポしていこう。

 

 

◆R4.4/22~5/3「439 ROUTE1」@gallery 176

酷道(こくどう)」というスラングがある。一般の「国道」なのだが、山中、僻地に作られ、国道としてあるべき広さやコンディションとは程遠い状況で、通常の走行が困難だったりする「酷な道」を指す。未整備区間がある、ボロボロのまま放置されている、対面通行が困難なほど狭い、しかも片側が崖、ミラーやガードレールもない、落石や降雪でしばしば通行止めになる、そうした走行難の区間がやたら長い・・・等々。

 

だがその名付け方は非難ではない。どこか好奇心、いや愛着のようなものすら感じる。少なからぬ人々が全国の「酷道」をわざわざ巡って、その様子・実体験をレポートしたり話題にしてきた。もう立派なカルチャーの一部とも言えるだろう。

ja.wikipedia.org

 

酷道に向かう動機は様々だ。皆が走り屋というわけでもない。道を走ることが即ちそれぞれにとっての「旅」となり、それぞれの出会いを体験する。本作の作者・山下豊もその一人だ。

 

本展示ではタイトル『439 ROUTE』の通り、国道439号」・通称酷道ヨサク」の道中で出会った光景や人物の写真を、徳島県徳島市から高知県佐清水に向かって展開している。

route01.com

 

その全長は347㎞にも及ぶ。イメージしづらいが、大阪~静岡間に匹敵する距離で、四国をほぼ真横に横断する桁違いの「道」だ。片道の所要時間は9~11時間と尋常でなく、撮影ともなれば時間帯によっては途中での宿泊も必要になる。この長大な道を、たった28点の写真でどのように語るのだろうか?

 

多くの酷道レポートが道路コンディションや走行体験について、他の国道・酷道との特殊性やひどさを語るのに対して、本作は非常に淡々としている。淡泊ですらある。DMなどのキービジュアルでは、森の中で草に包まれながら余生?を過ごす廃マイクロバスの姿が印象的だが、「道」の写真は少なく、逆に意外にも「人」と人の集まる施設が写っている。

これは道中で目についた「人」に、作者が片っ端から声をかけて撮影したためで、地元民だけではなく観光客も多い。とにかく人がいなかったそうだ。

 

割合としても特に徳島県三好市の山奥「奥祖谷(おくいや)」の写真が多く、作中で一つのピークとなっている。奥祖谷は「剣山(つるぎさん)」に近く、深い緑と深い渓谷があり、「二重かずら橋」や「野猿などで観光スポットとしても知られている。

「ヨサク」の「人」を語る上で、祖谷の集落「天空の村・かかしの里」の写真は重要だ。町民が縁側や道端にたくさん座っていて、賑わっていると思いきや、その多くは「かかし」=等身大の人形である。人形は地元住民の綾野月見氏が一人で制作し、現在は100体近くが配置されている。

今では過疎化し限界集落となってしまったが、人形は活気のあった昔の姿を思い起こさせる存在となっている。

www.nippon.com

 

すなわち本作に登場する「人」は、地元の生活者、外部からの観光客、そして等身大の人形代理人間)、という3つの層で構成されている。「ヨサク」の構成員としていずれも欠かすことはできない。集落は道の周辺に幾つもあるが、道を外れて地元取材に回ることは作者のテーマではない。あくまで「ヨサク」という「道」が舞台となっている。

 

本作の撮影は主に2016~17年にかけて行われた。

作者にとっての初回「ヨサク体験」は、偶然に入り込んでしまってえらい目に遭い、「こんなとこ来るか!」というものだった。大阪へ用事があった際に車で行き、うっかり入り込んでしまったらしい。

が、その一カ月後にTVでヨサクの特集番組を見て、自分が通った場所が僅か5分ほどで特集されたことに「自分なら何と出逢い、何が伝えられるだろうか」と思い、改めてヨサクに撮影に向かうようになったという。

 

他のレポートサイトや動画の多くが「酷道」を踏破や特殊体験として語っているのに対し、山下豊がこうした祖谷の観光地点や観光客、人形たちのカットに少なからぬ枚数を割いているのは、「道」に対する着眼点が「人の生活の場」であるためだろう。

 

その視点はデビュー作「軍艦アパート」の頃から一貫している。2009年1月の個展のインタビュー記事が残っていて参考になる。

dc.watch.impress.co.jp

 

「軍艦アパート」では、トータル17年間(1989~2006年)に亘って現地に通い、住民らに挨拶しながら関係を築き、大判カメラで部屋の中を撮らせてもらうという取り組みをしていた。物件の珍奇さ、内部に潜入する面白さではなく、あくまで生活者一人一人に向き合い、その「生活の場」としてアパート内、個々人の部屋の周り、そして部屋の中身のディテールを撮っている。

 

今回の「ヨサク」は、人が生活・滞在する物件ではなく「道路」であって、本質は移動・通過である。その周囲にはもちろん生活の「場」が形成されているが、あまりに長大で、しかもルート上の大半は無人の田舎・僻地・悪路であり、人の「生活」が直接的に絡んでくるのは必然的にごく限られたスポットとなる。作者が提示した写真はそういう場所が主だ。

 

徳島県を越えて高知県に入ってからも、写真は「酷」の表情よりも「生活」を見い出そうとしている。

悪路の写真もある。祖谷に向かう道中の、度重なる落石でズタボロにひしゃげたガードレール、車道に覆い被さりそうな崖の岩肌と垂れ下がる樹の幹、地元のハイキングコースへの抜け道のような細くて鬱蒼とした車道、最後にアスファルトを舗装したのが何時なのか分からないほどバキバキに砕けた路面、ガードレールもなく1台分の広さしかなくうねるカーブ。

だが一定の距離感を保って撮られていて、主観的な強調はない。 

 

撮影時にはむしろ道をよく撮っていたが、撮ってもしばらく経てばそれがどこなのか場所は分からなくなるとのことだった。恐らく膨大な「道」の写真が判別不能なままストックされているのだろう。他の投稿者の動画なども見てみたが、いかに全国有数の悪路であっても道は道に過ぎず、動画という形なら一貫した「体験」として意味を帯びるが、写真で切り出すと、余程特徴的な場所か、アクシデントでも起きない限り、事実上どこも「同じ」道になるのだ。

 

そうした「道」や体験に対する着眼点や表現方法は、もう撮り手の感性、世界観次第ということになるが、山下が影響を受けた写真家と写真集が、百々俊二『新世界 今も昔も』ビジュアルアーツ専門学校時代にゼミを受講)高梨豊『東京人』『町』、東松照明『さくら 桜 サクラ』『プラスチック』『太陽の鉛筆』、と聞くと、つかず離れずの距離感で「道」上の「人の暮らし」を捉える視座は納得がいく。決してロバート・フランクにはならないのだ。

 

とにかく「ヨサク」「日本三大酷道のひとつ」という尖った情報と先入観が強いので、それに見合う体験とヴィジュアルを求めてしまうところだが、沿線に住む地元民にとっては逆にそれが日常であって、何ら特別なものではない。本作はそうした平熱の感度で構成されている。クライマックスのない、淡々と続く道。

過疎化、少子高齢化、地方の縮退といった問題も大いに抱えた地であろうが、社会的ドキュメンタリーという視点でもない。つまり写真が非常に「中庸」なので、この「ヨサク」に入り込むには作者の体験談も併せて聴くことが不可欠であるように思う。

 

しかし、本作ではやはり、人の営みと共に「人がいない」ことがはっきりと写り込んでいる。祖谷の人形達は言うまでもない。ルート上の幾つかの店もいつ無くなるか分からない。写真のセレクトを変えれば「ヨサク」のまた別の(お馴染みの?)側面も強く表れてくるだろう。そういった意味では本作、もとい「ヨサク」は、まだまだ全容が知れないものだった。

 

 

◆ R4.4/10~5/13「相生湯とモカ」@ビジュアルアーツギャラリー大阪

同時期に別会場:作者の母校で催されていた個展だ。こちらも土佐清水市が舞台で、既に廃業していた銭湯「相生湯」とその2階に併設されている茶店モカの内部である。

 

展示形態は「439 ROUTE1」と同じく(更に?)シンプルで、額装なし・プリント直貼り。サイズが大きく枚数も多いため、ギャラリーにいるはずが銭湯の中にいるように錯覚する。本作こそ、まさに「軍艦アパート」の撮り方と視座そのもので、銭湯内部の外観から入口、脱衣場、浴槽など至る所を丹念に撮っている。

 

「相生湯」の時系列を追っておこう。

 

2014年10月、廃湯。昭和元年(1926年)に開業し、88年の歴史があったという。利用客の減少と設備の老朽化。県の「公衆浴場入浴料金審議会」議事録(2014)からは、釜の故障の修理に400万円も必要で、そんな負担は出来ず、閉じることになったらしい。

作者が土佐清水市に移住した2016年には既に閉まっていたが、移住後に人々から銭湯の思い出話を聞く機会が増え、「喫茶モカ」を訪れた際に中を見せてもらうよう依頼。閉店から3年が経っていたが、中のものは当時のままの状態だったという。

 

普通の人なら、許可されたままに撮影を行い、RAW現像などでうまく仕上げて完成とするだろう。だが山下はまず銭湯の掃除をすることにした。この着眼点が独特だ。つまり、廃墟やレトロ物件を探訪し、そのレアなイメージを収集するのではなく、あくまで地元の人々とともに「生活の場」であった、「生きている姿」を撮ろうとしたのだ。

 

私も一時期、廃墟・廃村などを好んで訪れていたので、この発想は地味に衝撃だった。掃除などしてしまっては、積み重ねられた「廃」の年月がリセットされてしまう上に、余計な人為が加わってしまう。私を含む一般的な廃墟・レトロフリークは、人工物が廃棄され人為から切断された後の姿に、「滅び」の美を見い出している。人為を介さない不可侵の時間に聖域を見い出し、そして断絶の「滅び」に立ち会っているのが自分だけだという唯一性に尊さを覚える。人為の外=聖域へ「私」もろとも連れ去られるためだろうか。

 

だから、廃業した銭湯を掃除して、再び現役の姿=地元民の公共物へと再び立ち戻らせる山下豊の営みは、かなり独特のものと感じられた。

 

しかも、当初は目に見える所だけの掃除で1週間を見込んでいたが、結局1ヵ月を要したという。

脚立に上って作業していた際に、誤って天井に手をついたら、埃まみれだったので手形が残ってしまった。そのままでは手形という、本来あるべきでない人為が写ってしまう。そこで追加で徹底的に掃除をすることになった、とのことだ。

変な汚し方をしてしまったためでもあるが、物件との時間をかけた付き合い方・向き合い方は、場所の歴史を内面化する作業として不可欠だったからだ。

「私は、この撮影を通じて、銭湯相生湯の記録と、銭湯相生湯と歩んだ利用者の記憶、そして土佐清水の歴史がここにはあると考え記録することに務めた。」 銭湯を切り盛りしてきた「お母さん」が掃除の手伝いを申し出ても、作者一人で作業し、どこに何があるかを体に刻み込んでいったという。

 

 

かくして撮影は行われ、2018年8月に高知市のギャラリー「コレンス」で展示「相生湯物語」が催された。

その時のレポートを書いておられる方がいて参考になる。

gatarinaeda.com

 

 

だが2019年1月2日、相生湯から出火し、近隣11棟を含む全焼。

この写真だけが遺された。

 

1枚ごとの情報量が凄い。物が大量にあるのは、利用者(多くは漁師)の私物がボトルキープのようにしてぎっしり置かれているためだ。石鹸箱やシャンプー、風呂桶に「〇〇丸」などと漁船の名前が力強く黒マジックで書かれている。こんなのは初めて見た。漁師町ならではの生活文化だろうか。

 

町の中にある銭湯。その銭湯の中にまた町が、入れ子構造となっている。

番台の周りもすごい。長年の営業の中で、店主らの生活、身体と一体化していて、様々な書き込みや張り紙、シールや装飾物、灰の入ったままの灰皿、色の焼けまくったコードやインターホンの受話器、詰み上がるカセットテープ、そろばん、座席を幾重にも包むクッションとブランケット・・・ 全てがありふれていて唯一無二だ。

 

地元民の生活の「生きた」姿を、生活の情報・痕跡の堆積と散乱を以て写し取る。「軍艦アパート」が評価され、長年のライフワークとなっていたのも納得だ。単なる歴史の記録ではない。写真にしか出来ない現在性の描述がある。絵画や小説では不可能だ。

 

そして最後には「喫茶モカの店内が紹介される。

 

これも風格と密度のある、たいへん良い店内だ。ここでモーニングを食べるとか、めちゃくちゃうらやましい。

 

「銭湯からあがった漁師が、窓から差し込む温かい日差しにつつまれて、うたたねをしていた喫茶モカのこの特等席に座り、そんな思いにひたっていた。」

 

銭湯の2階にこんなカフェあったら行ってしまう。うらやましい。じつにうらやましい。

 

2017年7月に土佐清水のソウルフード「ペラ焼き」を探す、という企画だが、「喫茶モカ」も登場する。つくづく、いい店だ。

www.kochike.pref.kochi.lg.jp

 

あーいいなあー。

 

これらが全て火災で焼失したというのは残念でならない・・・。

 

 

鑑賞時には割とあっさり観たのだが、いざこうして文章で書き起こそうとすると、「439 ROUTE1」よりも書くべきことが多い。作者の扱う文法・撮り方と語りたいこととの結び付きが強固な上に、場所の独自性がとにかく面白い。生活者の生活色が濃ければ濃いほど、山下豊はその密度をしかと受け止める。取りこぼしのないキャッチ力が秀でていることを実感した。

 

 

◆地方で写真家活動をすること

冒頭で触れたとおり、作者は今年から大阪に戻ってきた。

 

年末に実母が亡くなったということもあろうが、土佐清水市では写真作家としての活動が困難だったことが最大の理由だ。「高知県」の土地勘が無さすぎてピンと来ていなかったが、作者曰く「高知市ならまだ活動はできる、だが佐清水から高知まで片道3時間(高速でも2時間半)かかる。東京や大阪に出るのはもっと大変」とのことだ。

 

車で片道3時間は大阪~名古屋間に匹敵する。

なお、土佐清水市から車で大阪に行くには、「ヨサク」を回避しても片道6時間かかる。

公共交通機関を使う場合はもっと悲惨で、土佐清水から電車で1時間かけて中村に出て、そこから高速バスで7~8時間かけてようやく神戸に着く。鉄道は基本的に使い物にならない。飛行機を使うには高知空港高知龍馬空港)しかないので、やはり車で2時間半かけて空港まで出向く必要がある。

 

そしてそもそもの問題として、現地の人達が作品に興味を持つのかという問題がある。

「439 ROUTE1」トークの際に、観客の方からずばり指摘があった。「この写真は都会の人の目線で撮られていると思う。地元の人にとってはありふれているから、わざわざ撮りたいとも思わない。」 

 

その通りである。その通りすぎて蒙を啓かれた思いがした。

写真に限らず表現には往々にして、中心と周縁という視座の非対称性が生じる。都会の目から地方を見たときに「面白い・価値がある」と思うとき、逆方向からは必ずしもそうは見えてはおらず、求めてもいないということは、ごく当たり前に発生する。表現やアートは文化・教育制度や経済市場である以上、専門教育・訓練を受けたエリートが主体となる。瀬戸内国際芸術祭をはじめとする地方の芸術祭などは、地元と主催者との間にあったギャップを対話と協働によって徐々に解消し、理解を得ていき、今では地元がすっかり「主体」となっている。参加する島も随分と増えた。

 

作者は、非対称性をポジティブに捉えていた。確かに都会人の目線である。だからこそ、「ヨサク」や土佐清水に面白さ、魅力を感じると。地元の人達が気付いていない魅力がたくさんある、それを伝えていきたいと。移住後は土佐清水市まちおこしの講座にも参加し、地元の人、ⅠターンやUターンの人達と交流して町の現状を知ることが出来たと。

これも、その通りだ。外部の目で魅力を見い出した人が、魅力を伝えるから、私のような人間は面白がって、わけのわからぬ旅の予定を組もうとするのだ。常人には、作者のようなガッツはないから、その発見を見聞きして「なら、行こうかな・・・」と重い腰をあげる。そうした作用が、土佐清水など高知側でも起きれば幸いだ。

 

しかし現実問題として「写真作家」の活動できる場は、少ない。

こんなにスマホが普及し、SNSTwitterで写真の投稿が容易にできるようになっても、「写真」がポテンシャルを発揮するのが、印刷物か、生プリントか、インスタレーションか、となれば、「作家」が成果を発表し、それを受容――鑑賞・評価する舞台は、都市部に集中することになる。もっと言えば、写真文化圏は物理的に東京を中心とする関東圏に集中している。

 

トークに際しても、終了後も、「写真家・作家の活動できる場所が、結局、都会(東京)しかない」ということについて、私の中で特に答えは出ていない。関西ですら、ニコンサロンをはじめとするメーカーギャラリーが相次いで撤退してしまったのだから、残された個々人が自分達で発信と受容の場をやっていくしかないのだと思う。

 

 

そんなくるしい中でも、解の一例として、山陽・山陰の写真家が集って発行している『陰と陽』(編集:山口聡一郎、現在Vol.6まで発刊)を、トークの場で少し紹介した。

写真同人誌という活動形態は、古典的にして、「写真」を力強く伝え、しかも場所を問わず全国に行き渡らせられる有力な手法かもしれない。

 

東京以外の地方からこうした活動が現れてくるのは、たいへんに勇気付けられる。東京文化圏から見れば、関西も「地方」であることに変わりはないからだ。

 

 

今後も山下豊は、土佐清水市で撮り溜めた写真を発表していくだろう。同時に、今後、何を撮っていくのかに注目したい。

 

 

( ´ - ` ) 完。